第2話 鋼鉄都市 ①
楽譜に於ける休符のようだった。
音のように形のない、それでも確かに存在する波のような感覚が、突然途絶えたような気がした。
それまで絶え間なく流れ続けていた音楽が、突然止まったかのようだ。オーケストラのコンサートで、ほんの数瞬、全ての音が止み、そして爆発的な音の洪水を待つための覚悟と期待の時間にも似ている。
だからこそ、楽譜に於ける休符のようだと感じた。
しかし、それまで意識すらしていなかった、その波のような感覚の存在が止んだと認識した瞬間、重力が私を捕まえた。
身体ではなく心が重さを感じ取った。
ジワジワと感覚の波に揺られていただけの剥き出しの骨のような自意識がゆっくりと受肉していくような気分だ。
揺蕩っていたものが、自重に沈んでいく。
永い眠りについていたのだと、直感で理解できた。そして覚醒しつつあるのだということもまた、同時に思い知らされていく。
幸い、瞼はすんなりと開いた。
何というか、素朴な天井が見えた。白い合成板のような素材の天井だ。
疑問は当然あった。
だが、その疑問を疑問のまま留めておける程の余裕は無く、思考を放棄するのにそう時間はかからなかった。
短絡的な結論として、今こうして目覚めた私は記憶を喪失していると納得させる。
仮にそれが正しかろうと誤りだろうと、どちらでも構わないという、ある種豪胆とも言える呑気さが私の心には根付いているらしい。
「……よう。目覚めの気分はどうだ?」
女性の声がする。上体を起こして周囲を見渡すと、一人の女性が机に肘をついて私を見ていた。
どうやら私が寝ていたのは、ソファの上らしい。書類棚のようなデザイン性のない無機質な棚が壁一面に並べられた部屋だった。
どこかのオフィスのような雰囲気もある。
「貴女は?」
「……名乗りが遅れたな。私は賢木道枝。護民官だ」
賢木と名乗る女性は、慇懃な私の言葉にも眉一つ動かさず、淡々と答える。
護民官という言葉に聞き覚えは無かったが、それも当然で私は記憶喪失なのだ。そのことがどこか面白くて、私は苦笑した。
「何か面白いことでも?」
「いえ……。折角自己紹介してもらったのに、返す言葉がないということを思い出してしまったので」
正確に言うならば、記憶を喪失していると理解してなお、何一つ不安を感じない自身の楽天家ぶりが可笑しかった。
「……妙な口ぶりだ。まるで君は自分がどんな状況にいるのか、それを理解していて敢えて知らぬふりをしているように見える」
「そんなことは……。それにしても、ここはどこでしょうか?ああ、そういえば、定番の台詞を言った方がよろしいでしょうか?『ここはどこ?私は誰?』と」
「冗長的な物言いだが、要するに記憶喪失と認識してもいいのかな?それにしては、随分と落ち着いているようだが」
賢木は嘆息してから、胡乱な存在を見るかのような視線で私を見る。
私はその視線に対してニコリと笑みで返すと、再度溜息を吐いた。
「ここは空鳴市という街だ。聞き覚えは?」
「……ないですね」
覚えていることなど何一つなく、それでいてざっくばらんな知識だけは点在している。
記憶を失う前の私が得た知識が、一つとして自身のパーソナルな記憶に結び付かず存在しているようだった。
「……名前も何もわからないのか。何か覚えていることは?」
「……永い夢を見ていた。夢が記憶の写し絵であるというのなら、多分ずっと見ていた夢は、現実で見ていた景色のリフレインだとすると、私は多分、空に特別な思い入れがあったとおもう。綺麗な青空を飛んで、眺めて、包まれるような夢だった」
とてつも無く長い間、その夢を見ていたと思う。一瞬のような永遠。思い返せば、永遠とも思えるほど長く、だが、夢を見ていた間の私にとっては泡沫のように僅かな時間。
それが、全てであった。
「……夢。夢か。そうだな、君は夢を見ていたのか」
賢木は天井を見上げる。
「我々も遠い昔は君と同じだったのかもしれないな」
彼女の言葉の真意を知り得る筈もなかった。私は彼女の言葉の意味を理解するには、彼女のことを知らなすぎたのだ。
私もまた黙って天井を見上げてみる。初めて不安の影が私の心に過ぎり始めたのだ。それは、記憶が無いことに対する恐怖では無く、記憶が無いことに対して何も感じない自身の心に対してだった。
人格を形成するのが経験の蓄積であるとすれば、それを全て失った私の今の心は、無垢なまでに何も取り繕わない生の私なのだ。
根源的な心が、殊勝なまでに不感症だ。
それが、少し怖かった。
一人の男が部屋に入ってきた。
上背は高いが、僅かに猫背気味の男で、皮膚は浅黒い。一見無精髭のように見えるが、顎以外の部分がキチンと剃られているところを見ると、ワザと顎髭だけ伸ばしているのだろう。
目つきは鋭いが、全体的な雰囲気は怠惰そうな印象を受ける。
「ん?目を覚ましたのか」
「ああ。おまけに記憶喪失ときたもんだ。ま、自己申告だから何とも言えないが」
男は賢木の言葉を聞いて、何処か落胆したような表情を浮かべた。そして、私の顔をまじまじと見た。
「俺は阿方湊人。まぁ、なんて言うか、倒れてるアンタを見つけた張本人だ」
「礼を述べる……べきなんですかね?すいません、自分の置かれた状況が理解できていないんです」
我ながら曖昧な言葉でしか表現できないのが歯痒かった。
記憶が無いということは、何一つ確証というものが持てないということなのか。
失った記憶よりも、それに付随するデメリットの方が私にとっては不安を増長させる一番の要因であった。
「会話は出来るし、一般的な知識も持っているように見れる。エピソード記憶ってやつが抜けてるのか」
「確かに一般的な知識は有しているように見えるが、そいつ、さっき空を見たいとか言っていたぞ。そんなものを見たいなんて、本当に一般知識を持っていると言えるのか?」
賢木と阿方の会話は、よく分からなかった。当たり前に存在している物をわざわざ見たいというのが、そんなにも一般知識を有しているという部分からかけ離れているものなのか。
それについて深く考えてみようとすると、言いようのない不安が心を包む。
例えば——『既にこの世界には、空なんてものは存在していない』なんていう事実が出てくるかもしれない。
まるで出来の悪いSF映画のように。
そういう可能性を孕んでいる言葉を、賢木は当たり前のように紡いでいる。
「……ま、どちらにせよこの街の説明する必要があるし、俺が案内してくるよ」
阿方はその間踵を返して、部屋を出て行く。
ついて来いだとか、こっちだとか。
そういう、私の行動を促す言葉を発しなかったのは、阿方という男の性格が滲み出ているような気がした。
気が回らないとか、不親切であるとか。或いは全く別の、口下手とか人見知りだとか。
そういう部分が見え隠れしているような気がする。
何も言わずに出ていく阿方を見て、賢木は呆れるように笑う。
「後に続け、ってことだろうさ」
「……まぁ、そういうことみたいですね」
阿方の後についていくと、私の目が覚めた建物の全貌が見えた。
雑居ビルのような、粗雑な建物だが、街の景観は、全て同じコンセプトで造られたような、人工的な意匠を感じる。
少なくとも、この街は無計画で作られた訳ではないらしい。
そんな街並みを眺めていくと、自然と視線は空へと向かう。青い空が、そこには私の記憶通りに広がっていた。
安堵よりも、逆に疑念が湧く。
当たり前に空はあるのに、空を見たいというのが何故非常識になるのか。
その理由が益々理解できないからだ。
雲一つない空は、一切の切れ目なく、そこにある。だというのに、何故だろうか。
「……なんだろう。何か、この空、おかしい」
阿方は空を見上げていた私を振り返って眺めていたが、再び歩き始める。
私はそれについていく。
雑踏の中を、置いていかれないように彼の背中だけを見て進んでいく。
時折、周囲に目を向けてみるが、何か言葉に出来ない違和を感じていた。
街並みは、私の知識としてあるどの街よりも都会的で洗練されている。とはいえ、そのどれもが想像の範疇を超えるような技術という訳でもなく、一目見て何となく、私の知識の延長線上に存在するような景色だ。
だけど、私の感じる違和感の正体はそういう物質的なものではない。
空気というか雰囲気というか。
何かが重苦しい。
後になって思ったことだが、そこまで勘づいていて、その違和感の正体に気づけなかった私は相当鈍い人間のようだ。
何故なら、私がこの街で目覚めてから、その違和の正体は目に見える形として、はっきりと一切の矛盾無く存在していたのだから。
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