第1話 夜来る ③

 学園を出た俺は、直ぐに賢木の携帯端末に電話をかけてみるが、数コールが鳴ったところで思い直した。

 武市がことを起こすにしても、護民官会議が行なわれているはずのこのタイミングではないはずだ。

 落ち着かない心を押さえつけながら早足で事務所へ戻り、彼女の帰りを待つことにする。

 出来ることはないので、仮眠の一つでも取るのが効率的なんだろうが、そんな気分にもなれず、事務所内の資料棚から銃の入手経路になり得る事例を探る。

 武市が父の電話を聞いたのが、昨晩だったという。その時点で、銃を入手する手筈が整ったと、言った。つまり、まだ入手はできていないはずだ。

 使用はおろか、製造、所持も禁止されている空鳴市でそれを入手するルートはある程度限定される。

 市外から持ち込むにしても厳重に検査が行われる検問を通り抜けられるとは思えない。

 だがそれも例外がある。十五年前に起きた殺人事件に使用された銃は、市外から市内へと流れる水道管を経由して入手したと犯人は語っている。

 勿論、水道管をはじめとした市外と繋がるパイプ類は全て対策が施されているが、そういう思いもよらない方法があるのは確かだ。

 考え得る入手ルートを想定するが、そんなものが簡単に思いつくのであれば、すでに情報局の人間当たりが対策しているはずだ。

(一度コーヒーでも飲んで、仕切り直すか)

 一向にいいアイデアの浮かばない俺は、再び襲い始めた眠気に抗うべく事務所の給湯室へと向かった。




「……今何時だ?」

 珈琲を淹れたところまでは記憶があるが、湯を沸かしている間にどうやら眠りこけてしまったようだ。すっかり室内は暗く、窓外は夜になっていた。

 慌てて給湯室のガスコンロにかけたヤカンを確認するが、火は止まっている。

 執務室の方から、光が漏れ出ているので、賢木が会議を終え戻ってきたのだろう。

 執務室に入ると、賢木はパソコンで作業しており、俺の姿を見ると手を止めた。

「なんだ、部屋に帰って寝れば良かったのに。明日の朝までは業務もないはずだが?」

「ん……ああ、賢木に報告することがあってな。待ってるうちに寝落ちしたみたいだ」

 報告?と半ば反射のように訊き返す賢木に、俺は昼間の武市から聞いた話を報告すると、賢木は自身の命を狙われているというのに、どこか他人事のように、微笑を浮かべる。

「拳銃…か。確かに脅威だな。だが、所持だけで二十五年の禁固刑、発砲すれば人的被害の有無を問わず終身刑が言い渡されるレベルのリスクを、武市護民官が負うというのは、正直考え難い」

「……そりゃそうだな。だが万が一ということもある。何かしら対策しなけりゃならないだろうよ」

 賢木は俺の言葉を聞いて、何故だかわからないが、喉を震わせてクツクツと笑った。

「優しいな、阿方は。護民官に必要な素養ではあるけど、ある種、最も護民官には必要のない素養でもあるよ、その考えは」

「……賢木には言われたくないな」

 こいつはこいつで、呆れる程に純粋無垢な夢を持っている。

 ただ、それを成す為ならば何を犠牲にしようと構わないという考えの持ち主でもあるが。

「随分と古臭い手を使うもんだね、武市護民官は」

「わざと命を狙っていると知らせて、その対策をさせることで動きを鈍重にさせる、ということか?まぁ、無罪推定の原則と立証責任の厳格性が何より重要視されてる市の法制度のおかげで、そういう戦略は過去に何度か行われたことがある、っていうのは大学の講義で習ったな」

 あくまで脅迫の範囲にはならないように、偶然と立証出来る範囲内で目的の人物に脅しを掛ける手法だ。

 たまたま通りすがりに聞き及んでしまった、或いは、そういう噂が広がっている。

 故意であることを立証できなければ罷り通る手法なのだ。少なくとも、この都市では。

 だが、それすらも護民官候補達の教本に載る程度には使い古された手法だ。そして、法がそれを許しても、シビリアンコントロールの行き届いている空鳴市においては、公になれば市民達に反感情を抱かせる可能性が高く、護民官の間ではとうの昔に有効的な手段では無いというのが共通見解にもなっている。

「だが、私の信条は蓋然性の高低のみで可能性を排除しないというものでね。あらゆる不測に備えて、あらゆる状況を想定する。いうなれば、賢木流護民官の心得ってやつだ。覚えておくといい」

「……ま、心には留めておく。それで、想定し得る状況ってのは?」

「まず大分類に分けると、銃を用いて私を排除するという話が本当か嘘かの二択だ。本当である場合は、武市の娘がその話を聞いていたのが完全に彼にとっての誤算であり、私が現在その情報を掴んでいるのが彼にとってはイレギュラーな事態だ」

 その場合、疑問点に残るのが動機だ、と賢木は言う。

「確かに谷原議員と私が依頼を受けている友永議員は主義主張が異なるし、次の市長選でも保守派と改革派の二つで分けるなら二人は対極にいる。だが、下馬評では明らかに谷原議員の方が優勢だし、私に至っては登録護民官数がたった二人の極小規模事務所だ。わざわざ銃を持ち出すリスクを犯してまで得られるメリットが少なすぎる」

「ま、そうだな。仮に次の市長選で立候補している議員についている護民官全てを始末するなんていう頭の沸いた方法をとったとしても、優先度は最下位だろうよ」

「まぁ、私達の予想もつかない動機が存在する場合もあるからな。しかし、これが真実ではなかった場合、いくつかの理由が存在する」

「いくつか?ただのブラフとしての脅しってことじゃないのか?」

「……黒江先生から聞いた君の父親像そっくりな性格だな、本当に」

「親父に?」

「何が似ているのかは、黒江先生にでもいずれ聞いておくんだな。話を戻すと、私を始末するという情報自体が真実でないのならば、こう考えられる、まず一つは、武市護民官が公になれば依頼主である谷原議員の当選が危うくなるレベルの戦略を大真面目に選択したということだ。その戦略に娘を利用したとあれば、二人揃って市民からの支持率は急降下して、議員生命も護民官生命も完全に絶たれるだろうよ」

「二つ目は?」

「娘がその話を聞いてしまったのが、本当に偶然であった場合だ。だとするならば、今後私の元に何らかの手段で何者かが私の命を狙っているという情報を入れる必要がある。別ルートから似たような情報が入って来れば、逆にそれはただのブラフ確定だから、安心と言えば安心だな」

 胆力というか、肝が座っているというか。

 自身の命が狙われているか否かの会話で、ここまで他人事のように推測を重ねていく彼女に俺は心の底から畏怖のような何かを感じた。

「大雑把に分けるのならこの位だろうけど、他にも武市護民官の言う銃や始末という単語が、別の意味を持つ隠語であったり単純に武市の娘の聞き間違えという可能性だってある。彼の話云々からもっと視野を広げると、銃の入手が失敗するパターンもあるし、実行犯が揃わない場合もある。考え得るパターンの中で、実際に私の眉間に銃弾が届く可能性はどの程度あると思う?」

「あらゆる不測に備えるってのが、賢木護民官流の心得じゃなかったのか?」

「……効率的に合理的にっていうのも、心得の一つさ。要するに私の身の安全の確保さえできれば、不測の事態ってのに対応できる。余計な出費はしたくないが、選挙終わりまでガードマンの一人でも雇うことにするよ」

 あっけらかんという賢木に俺はこれ以上何を言うこともなく、武市護民官の動向を多少注意しておくか、程度の警戒心のみを残して、この会話を終える。


 しかし俺は後に実感することになる。

 不測の事態というのは、予測できないからこそ、不測の事態なのだと。


 


 俺の住まいは地下街区の一つ、蜂尾区にあった。二十五年前の地下拡張計画で新たに開発された区画のため、俺の住むアパート自体はそこそこに綺麗な建物だ。とはいえ、蜂尾区含め地下街区の住人の殆どは低所得者のためか、治安はよろしくない。

 スラム化の進む白水区や灯火区と較べればそれでも良い方ではある。子供の頃から住んでいるためか、貧民街特有の雑多な雰囲気を、俺は気に入っていた。

 兎に角明日の仕事の時間まで寝なければと、アパート内の廊下を進むと、俺の隣の部屋の扉が大きく開いていた。

 横まで覗き込むと、隣人の大城さんが玄関に座り込んで酒を飲んでいた。

「部屋ん中で飲まないんすか?」

「おう、随分遅い帰りだな。地下は蒸れてしょうがねぇからな、涼しいところ探してたらここになったんだよ」

 言いながら、缶ビールを再び傾ける大城さんは、赤らめた顔のまま空けていない缶ビールを投げて渡した。

 気の良い老爺だ。にこりと笑うと、持っていけと言う。

「ありがとうございます。休みの日にでもいただきますね」

「おう、ゆっくり寝ろ。ま、ここらじゃ煩くて眠れんかもな」

 地下街区の治安の悪さは、毎回と言っていいほど議会の議題として上がるが、俺はこういう互いの距離感が近しい地下街区で生まれ育ったことを誇りにしているし、スラム化している地区に蔓延る旧時代のマフィアのような反社会組織も、元を辿れば貧民層の互助組織なのだ。

 治安云々よりも先に着手すべき事はあるのではないかと、今の市政に思うところがないわけでもない。

「まぁ、それを言ったところで、何の意味も無いがな」

 空鳴市における選挙権というのは、一定の年齢以上であるのはもちろんのこと、一定額以上の税金納付が条件になっている。

 つまるところ、空鳴市民の四分の一を占める貧民達には、選挙権がないのだ。

 それが一層、彼らに寄り添った政治を遠ざけている要因の一つになっている。

 あの時賢木が語った真なる幸福とは、俺にとっては、貧民達の幸福と繋がっているのだろうな。とも、考えることがある。

 何となく、ぼやけた未来の話のような気もするが。

 そんなことを考えていると、音もなく睡魔が俺の脳髄を捕まえる。

 夢など一切見ることの無い、深く心地よい眠りだった。




 そういえば、今日は朝から昼までの間は雨といっていたな。

 と、降り始めた雨粒が額を濡らし始め、水滴となって鼻筋を通過した辺りで、俺は寝る前に見た天候予定表を思い出していた。

 傘もレインコートも持っていないので仕方なく雨の中立ちすくんでいると、頭上からキリキリと金属同士の擦れるような音が聞こえる。

 受領壁が今日の分の支給品を運んできたのだ。果たしてそれが何者かによる支給なのかすら、明らかになっていないが、空鳴市が発足した当時は、確かにこの物品が多くの命を繋いだらしく、それ以降、受領壁という呼称が定着していた。

 降りてくる鉄の箱を眺めながら、俺は一つのことを思い出していた。

 黒江先生が見せた、奇妙なメモのことを賢木に訊ねる件のことだ。

 賢木の暗殺計画の件で、すっかりと頭から抜け落ちていた。

「上には何も無い……ね。ならこの物資を運んでるのは、何者だ?」

 受領壁の遥か奥、もはや視界すらぼやけて肉眼では捉えられない程の上空を見上げてみる。

 遥か天上に存在するというのに、何故だか底なしの穴のように見える。

「……兎に角、仕事だな」

 どうせいつもと変わらない内容だが、だからこそ中身を精査する必要がある。

 受領壁の謎を探る事はタブー視されているが、明確な禁則事項ではない。少なくともその謎に想いを馳せる程度は、何も問題はないはずだ。

 重苦しい音と共に、地面に立つ箱が降り立ち、正面の鉄のフェンスが自動的に開く。

 中に乗り込んで、中身を取り出していく。

 最初の違和は、積み上げられた段ボール箱の配置がいつもと変わっている事だった。

 だが、そんなことに俺は気を取られずに黙々と荷物を移動させていくと、妙なものが視界に入った。

 最初は白い何かだと思った。

 四面四角の段ボール達の中に、妙に艶かしい形状の何かが視界の端に映り込んだのだ。

 それは、人間の腕だった。

 人間というものは本当に驚愕すると、声が出ないらしい。情けないスタッカートのような声だけが掠れた呼吸のように細々と喉の奥から抜けるだけで、それは音にすらなっていなかった気がする。

 その代わりに、心臓が急激に心拍数を上げる。

 その全貌を確認するように、俺は段ボールを僅かにずらして、覗き込む。

 そこには女性が一人、仰向けで倒れていた。

 若い女だ。それこそ、見た目で言えば、武市護民官の娘と同年代くらいだろうか。

 美人だが、可愛いという表現はあまり似合わない雰囲気だ。どちらかと言えば、異性よりも同性からの評判が高そうな、顔立ちだ。

 俺は始め、死体かと思った。だが、仰向けに倒れている彼女は、寝息のような小さな呼吸を繰り返していた。

 不意に、あのメモの内容を思い出す。

 上には何も無い。

 あれは警句だったのではないだろうか。


 阿方湊人という男は、本人である俺から見ても多くのものが欠如していると思っていた。

 欠如しているのは記憶や感情、過去の一部だ。

 だから俺は不出来な人間だと思っていた。

 生きる上での目標がない、死なない理由がないだけで惰性で生きているだけの存在。

 そんな俺を否定するためだけに護民官という夢を持っているふりをして生きていた。

 それでも満たされないのは、やはり何かが欠如しているからだと考えていた。同時に、それは二度と埋まらない空虚だとも確信していた。

 それは単なる勘違いで、自惚れで、自意識過剰なだけなのだと理解したのは、彼女が俺の目の前に現れたからだ。

 彼女のお陰で、人間とは何かが欠如している存在なのだと知った。


 そんな普遍的な人間の在り方を問う小さな事件に巻き込まれることなど、この時の俺は知りもしなかった。

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