第1話 夜来る ①

 深夜二時。

 空鳴市域の北端にある一般人の立ち入りを禁止している受領壁には俺一人しかいなかった。

 金網で囲われているそこは、かつて市政の最も重要な根幹の部分を担っていた場所だ。

 今では見る影もなく、受領壁などという名前の由来を知る者も多くはないだろう。

 剥き出しになっている灰色の岩壁に沿う形で二本のレールが延びている。レールの先は、遥か上空まで延びていて視認は出来ないが、1日に一度、このレールに沿って鉄の箱がゆっくりと降りて行き、そして戻っていく。

 その箱の中身を荷下ろしして、中の物をリストアップするのが俺の仕事だ。

 今日も重苦しい音と共に、大人十人は乗れそうな巨大な箱が降りてくる。

 受領壁で停止している時間は一時間程しかないので、急いで中身を荷下ろしするが、物品は殆ど変化しない。

 保存食のような味気の無い食料品が殆どだが、その他に衣料品や何かの薬剤のようなものも少数入っているだけだ。

 電子端末でリストアップを終えると、既に辺りは薄ぼんやりと明るくなり始めていた。

 欠伸を噛み締め、受領壁のフェンスに錠前を掛けると、俺は足早に事務所へと戻った。


「……二年連続で変化なし、か。一体どういう基準で積載物が決められてるんだと思う?」

 俺はいつも通り端末でリストを整理しながら、明るくなっていく窓外を横目で眺めていた。

 事務所に戻った時は栄養ドリンクを飲みながら血走った目で資料集めに奔走していた筈の賢木道枝だったが、リストを作成し終えた頃には皮張りの黒いソファに深く腰を下ろしてグッタリしていた。

「ああ……?分からんよ、そんなものは。目的も不明、送り主も不明、製造元も送り元も不明。空鳴市の前身、ファウンデーション3と呼ばれていた頃から調査は幾度となく行われていたみたいだがな」

 低い声で唸る様に答える賢木は、疲労困憊といった具合で全身の力を抜いている。話しかけなければものの数秒で意識を手放してしまいそうな程に、やつれきった表情をしていた。

「ファンデーション3って……700年以上も昔だろ?そんな頃から調査してたのか」

「私だって、アレの管理を受注してから初めて聞いたさ。報告書はそこの棚にあるから好き勝手読んでくれていい」

 賢木はそのまま眠る気らしく、俺との会話を打ち切って静かに寝息を立て始めた。

 九時からの護民官会議に向けての資料集めで徹夜していたため、疲れ果てているのだろう。

 せめて会議の始まる時間までは寝過ごさないように事務所で待機してやるか、と俺は親切心からそう決断すると、眠気眼を擦りながら泥の様に濃い珈琲を注いで目を覚ます。




 阿方湊人あがたみなとという男は、本人である俺から見ても色々なものが欠如していると思う。

 不足では無く、欠如だ。

 記憶の一部が欠如している。感情の一部が欠如している。過去の一部が欠如している。

 人間という生き物の人格を形成する筈の要素が悉く欠如しているのだ。

 不足であるならば補えばいいだけの話だが、欠如していると表現する以上、それらを取り戻す術などある訳もなく、欠如していることを理解しながらも騙し騙し生きてきた。

 生きる理由があった訳では無い。ただ、死ぬ理由が見つからなかっただけだった。

 そんな中で護民官という職業を選び、わざわざ大学を卒業して資格を得たのは、死んだ父親が護民官だったという理由に他ならない。

 生きていく理由のない俺に、目標や夢などがある訳もなく、それでも父親と同じ職業に就きたいと思ったのは、生きる理由を見つけたフリをして自分を騙していたからだった。

 当時の俺はそんな自分をちゃんと騙し切れていた様で、恰も夢と希望に満ち溢れた就活生の様な顔をして連日、護民官事務所の面接に赴いていた。

 俺が俺を騙していたと気づけたのは——それと同時に俺に生きる理由を新たに与えてくれたのが、いま俺の目の前で小さく寝息を立てている賢木道枝という女性であった。

 少なくとも、今の俺が護民官という仕事を続けているのは、父親の影を追い続けている訳でないのは、確かなことだった。





 60キロ平方メートル。

 かつてファウンデーション3と呼ばれていた空鳴市は、それだけの広大な敷地面積を誇るが、220万人という人口を抱えるこの都市においては手狭であるといわざるを得なかった。

 それだけの人口を養うために、市域の半分はプランテーションと食料工場に占有されている。そのため、例え市長であろうとも、豪奢な一等地に大きな邸宅を構える訳にも行かず、富裕層達は精々が高層マンションの最上階を占有する程度の利権しか与えられていない。

 とはいえ格差がないという訳でもなく、貧困層は連日拡張され続けている地下街にその住居を振り分けられている。

 人口比で言えば圧倒的に中流階級がその比率を占めているというのは、資本主義政策を採択した社会構造としては正しい形なのかもしれない。

 だが、今後予見され得る人口増加に伴う可住地の不足やエネルギー資源や水資源の供給力不足といった問題に加え、AI技術の発展による雇用の減少は2ヶ月後に差し迫った市長選挙の論争点になり得るのは誰の目から見ても明らかであり、市政と市井の間を取り持ち、政治の舵取りを行う市議会の要請と市民の要請を同時に受け持つ護民官にとってもこの課題の具体的な解決策提示が現状最も優先的に行うべき職務の一つなって久しい。


 会議に出向いた賢木を見送ると、俺も次の仕事現場に向かう為、事務所を後にした。

 空鳴市はまるでそんな問題を抱えているとは思えない程に平穏な街並みだったが、途中で購入した缶コーヒーの価格が先週より数円値上がりしてることに気づき、深い溜息をついた。

 世論を先導する寄木系列の護民官達は、考えなしに人口増加政策を採った黒江元市長の失策だと声高に主張しているが、黒江元市長の後ろ盾にもなっていた三船護民官事務所への牽制と次期市長選挙戦への布石に過ぎないと推測してしまうのは当然であった。

 一方で、既に市長を引退して十年も経つ黒江元市長は政界からも退き、現在は空鳴市に約40ある高等学校のうちの一つ、鐘楼区学園の学長を務めている。

 俺の次の仕事は、その学園の授業の一環として学ぶ政治学の外部講師だった。

 正門の警備員に市民IDを提示すると、事前に話は通っていたらしく、通行可能なエリアへのアクセス権をIDカードに付与してもらい、学長室へと赴いた。

 鐘楼区学園は、その名の通り、空鳴市がその市政を始めるよりも以前から存在していた鐘楼塔を中心に栄えた鐘楼区に建てられた学校で、高等学校の中でも進学校として名高いエリート高でもある。

 その卒業生の大半は政治家の登竜門と呼ばれる難関大学の空鳴大学か、各企業の経営を担う人材を育てる槙島大学へ進学する。その為、自然と富裕層の子息たちが集まる学園になりつつあり、俺としては学生当時から縁のない場所でもあった。

 俺の通っていた雪代学園とは比べ物にならない内装の豪華さに目を見張りながら、学長室の扉を開く。

 齢70になる黒江憲三くろえけんぞうは、俺の訪問に対してチラリと一瞥した後、口角を上げた。

 老いてはいるが、当時の政界を牽引していた放埒さと豪勢さは健在の様で、学内であるというのに煙草を吸いながら紫煙を室内に充満させていた。

「おう小僧、よく来たな」

「お久しぶりです、黒江先生」

 黒江先生は来客用のソファに座る様に促すので、素直にそこに座るとビールの入った瓶を投げて渡した。

「俺これから授業っすよ?」

「何つまんねぇこと抜かしてんだ。お前の上司は、当たり前のように一瓶空けてから授業に行ってたぞ」

「俺はあそこまで肝が座っちゃいませんよ」

 俺の言葉に唾が飛びそうな程豪快に笑った黒江先生は、そのままの勢いで度数の高そうな蒸留酒を一気に飲み干した。

「いいか阿方。護民官っていうのは何事も勢いが大事だ。大成する護民官は、程度の違いはあれど決断力だけは確かなものだ。賢木もそうだし、テメェの親父もそうだ。別に俺は昼間から酒を呑めって言ってんじゃねぇ。そういう胆力っていうもんを養えっていったんだ」

「……ま、そういうことなら頂きますよ」

 俺はビール瓶の蓋をテーブルの角に叩き付けて開けると、一気に中身を飲み干した。

 俺は別に真面目な人間という訳でもない。ただ不真面目ではないというだけで、中庸な人間なのだ。だからこそ、飲み干したビールの味というのは美味しい訳でも不味い訳でもなかった。

「栓の開け方は、親父そっくりに育ったな。それよりもお前、今受領壁の管理を担当してるって賢木から聞いたんだが、こういうのを見たことがあるか?」

「これは……メモですか?」

 クシャクシャに丸められた跡の残る小さな紙を渡される。そこには手書きであろう文字が書かれている。

「<こっちに来てはいけない。上には何も無い>……何すか?これ」

「十七年前、受領壁からの物品の中に紛れ込んでいたものだ」

 黒江先生は普段より深く息を吐いた。

 紫煙がさらに部屋を埋め尽くす。俺は咄嗟に詳細を聞こうと立ち上がったが、授業の開始を意味する甲高いベルの音が響く。

「さて……授業の時間だな。ほれ、さっさと教壇に向かえ」

「黒江先生、授業後に詳しく伺っても……?」

「詳細はテメェの上司に訊くんだな。アレにはこの件に関することはほぼ伝えてある。今日は担当のお前から直接訊きたかっただけだ。その様子だと、まぁ、似たようなメッセージは受け取ってないんだろう?だったら訊きたいことはもう無ぇ」

 傍若無人というか、相変わらず一方的な人ではあったが、賢木の護民官における師匠ということもあり、俺は彼を尊敬していた。

 賢木の言う「誰よりも空鳴市の行く末を案じている」という評価の意味は理解出来てはいないが、黒江先生の政界における功績を思えば、護民官を志す人間であれば誰しもが多寡はあれど、目標に値するべき人物だと断言できるだろう。

「……相変わらず、秘密主義っすね。分かりました、戻ったら尋ねてみますよ」

 俺は食い下がっても無駄なことを察知して、部屋を出る。

 しかし、今日の講義で話す予定だった内容は、全て頭の中から消え失せていた。

 それだけに、あのメッセージは衝撃的だったのだ。

 受領壁の上、未だ誰一人としてあのレールの先、岸壁の上部を見た者はいない。

 しかし漠然と、あの先には何者かがいるということは心のどこかで理解していたし、幼年学校の授業では、その彼らの存在を突き止めようとした箱の中に入り込んで岩壁の上へと向かった調査団は誰一人帰ってこなかったという歴史も学んでいた。

 延々と物資を送り続けるだけで、それ以外のコンタクトを図ろうとしなかった謎の存在が、いくら十七年前といえども、およそ800年間稼働しているともいわれる受領壁を通じて初めてメッセージを送り込んできたのだ。

 俺にとっても、この市にとっても、そして、俺たちの世界そのものにとっても。

 それは明らかに、歴史を揺るがし得る事件と言っても過言ではないのだった。


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