颯
しばらく廊下を進むと、長谷部はその先の扉の前で立ち止まった。それから二度、その扉をノックする。
「
長谷部が言うとその扉はゆっくりと開き、中から小柄な少年が顔を出した。
「はい」
「颯とお話したいっていう人が来てね」
長谷部は身体をズラし、その隙間から清花が顔を出す。
「はじめまして颯くん。それとも、昨日ぶりの方がかな?」
清花がそう言うと、颯の顔は真っ青になる。
「ご、ごめんなさい! 僕、イタズラするつもりなんてなくて! ごめんなさいごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。わたしは、君に怒りにいたわけじゃないんだから」
「えっ?」
「退屈しているんでしょ? お姉さんと遊ぼっか」
清花の言葉に、困惑する颯と長谷部。
「なんで?」
「わたしも退屈してたから。だから付き合ってよ」
ニッと清花が歯を見せると、颯は長谷部の顔をちらりと見る。それから俯き、「分かった」と小さな声で答えた。
「ありがとう、お嬢ちゃん。颯をよろしくお願いします」
「はーい!」
清花は颯の肩に手をおき、部屋の中に入っていく。
「宿題は進んでる?」
「……うん」
「わかんないところとかない?」
「…………うん」
「本当?」
清花が顔を覗き込むと、颯は机に向かい、開きっぱなしの問題集を持って清花の前に戻ってきた。
「ここが、よく分からなくて」
「ふむふむ。これならわたしでも分かるよ! 教えてあげる」
それから数時間後――午後六時を告げるアナウンスが聞こえ、清花はずいぶん長く颯に勉強を教えていたことに気づく。
「ごめん。もうこんな時間だったんだ。颯くん、疲れてない?」
「大丈夫。楽しかったから」
早苗の勉強をみることは今まで何度かあったものの、小学生の勉強をみることは初めての経験だったため、颯からのその言葉に清花は思わず笑みがこぼれた。
「そっか。よかった」
「お姉ちゃん。明日も、教えてくれる?」
「うん。もちろんだよ」
その翌日も、翌々日も。清花は颯と共に過ごした。祖父の家の滞在は一週間の予定だったが、実家に帰ってもやることがないだろうと思った清花は、もう少し祖父の家に滞在することにしたのだった。
もちろん両親や祖父母には滞在を延期する許可を取り、長谷部にも颯の家庭教師をやる承諾は得ていた。
そして八月下旬になり、新学期が近づいてきた日のことだった。
清花はいつものように颯の家庭教師を終えると、長谷部の提案でこの日だけは夕食をご馳走になっていた。
「いつもありがとね、清花ちゃん」
「いえいえ。わたしの方こそ、毎日颯と楽しく過ごさせてもらっちゃって」
清花がそう言って颯の方をむくと、颯は無言のまま口をもぐもぐと動かしていた。
「なんだか今日はずっと静かだったよね。どうしたの? 具合悪い?」
清花は心配そうな顔をして颯の顔を覗く。
「颯。ちゃんと伝えなくちゃ。自分で言うって昨日言っていたでしょう?」
長谷部は困った顔でそう言った。
「どんなことでもちゃんと聞くよ。だから話して?」
清花が尋ねると、颯は箸と茶碗とテーブルに置き、清花を見据える。
「明日、お母さんが迎えに来る」
「そうなんだ! よかったじゃん〜」
颯の頭をくしゃくしゃと撫で回す清花。
「だから……清花お姉ちゃんとは、お別れしなくちゃいけない」
くしゃくしゃと撫で回していた手を止め、清花は颯の顔を見る。
今にも目から涙がこぼれそうなその顔に、清花の鼻の奥がツンとした。
「そっか……」
清花は颯の右手をそっと両手で包み込んだ。
「お見送り、いくからね」
清花の言葉に、颯は何も答えずに俯く。
「今度はこの手でお母さんの手をちゃんと掴むんだよ? 離れないようにぎゅって」
「……うん」
「よし、良い子だ!」
清花はそう言って再び颯の頭に手を置いて、今度は優しく頭を撫でる。
「ご飯も残さず食べなきゃね。良い子だったよってお母さんに言いたいもんね」
それから颯は頷き、箸と茶碗を手に持って、残っている白米を食べ始めた。
――こうなる日がいつか来ることは分かっていたんだけどな。
清花は今の颯の姿を忘れないようにと、最後の米粒がなくなる瞬間まで颯を見守ったのだった。
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