いつも月を見ていた

 午後八時。清花は家を出て、生け垣に向かって歩き出していた。


「『白い手=すすり泣く子供』だと仮定した時、その正体は明美の子供となる。けれど、坂神の証言では明美は結婚もしていないし、子供もいないらしい」


 やはり、それは明らかな矛盾になる。


「だったら仮に明美が結婚していて、子供がいたとしよう。でもそうなると、どうして叔母である長谷部の家に子供を置いて去ったのかという問題が発生する」


 その問題についていくら検討してみても、清花は答えにたどり着くことができなかった。


 どうして実母のところではダメだったのか。

 夫は明美の暴挙を止められなかったのだろうか。

 そしてなぜ、明美は長谷部さんを選んだのか。


「白い手の正体が分かっても、その答えにはたどり着けないってことだよね」


 深いため息をつく清花。


 やはりわたしは探偵には向かないし、真実にもたどり着けない。そう、早苗のようには。


 今回のことが分かったからって、わたしの将来には何の意味もなさない。夢も目標も見つからず、わたしは平凡でありきたりな人生を送るだけなんだ。


「なんでこんなこと、してるんだっけ」


 清花はふと、夜空を見上げる。そこには白い月が輝いていた。


「そういえば。昔もよく、こうして月を見上げったっけ――」



 ***



 静まり返った寝室。清花は寝転がっている布団から窓を見上げ、夜空に輝く月を見ていた。


「お父さんもお母さんも、まだお仕事かな」


 両親は仕事で帰りが遅く、いつも顔を合わせるのは朝のほんの数分間。


 清花が眠るまでの時間を見守ってくれるのは、いつも窓から見える月だけだった。


 清花はふと月に向かって手を伸ばす。


 今の自分を、この気持ちを分かってほしかったのかもしれない。


 だから誰でもいい、この手を掴んで――。


 しかし、清花がどれだけ手を伸ばしても、その手を掴んでくれるものはいない。


 布団の中に虚しく落ちる清花の手。


 清花は布団を頭まで被り、声を押し殺しながら涙を流す。


 微かに聞こえるすすり泣く声は、誰の耳に届くこともなく、静かに響き続けるのだった。



 ***



「こんなことを思い出すのなんて、ほんといつぶりだろう」


 月を見つめながら苦笑いをする清花。するとその時、カサカサっという音が左手から聞こえ、清花はその方へ顔を向ける。


「白い手……」


 早苗の推測通り、白い手が再び生け垣から生えていた。


 清花はゆっくりと歩み寄り、まじまじとその手を見つめる。


「やっぱり生身の人間の手だ」


 空を見上げ、そこにある月を見る。


「なるほど。月の光で白く見えていただけってことね」


 清花は再び白い手に視線を向け、その手を自分の右手でしっかりと掴んだ。


 白い手は戸惑ったのか、一瞬だけ強ばったように感じる。


「お母、さん? 帰ってきたの?」


 それは子供の声だった。


 清花は黙ったまま、その子供に喋らせる。


「僕ね、良い子にしていたよ。ちゃんとおばさんの言うことも聞いてたし、宿題だって毎日やってる」


 宿題ということは、少なくとも園児ではないらしい。幼い喋り方から察して、小学校低学年くらいだろうか。


 清花は子供の手を握ったまま、子供の話の続きを聞く。


「それとね、おばさんが優しくしてくれるから、お母さんに会えなくてもぜんぜん寂しくなんてなかったよ。お母さんはお仕事どう? まだ大変?」


 少しの沈黙があり、清花は子供が自分の返答を待っているということに気づいた。


「……あ、えっと」


「お母さん?」


 この子は母親といつもどんな会話をしているの? どんなテンポ、声のトーン?


 それらを自分自身の経験から引き出そうと思った清花だったが、そもそも引き出す素材がないことに気づき、そこでため息をつく。


「ごめんね。わたしは君のお母さんじゃないんだ」


「え……」


「通りすがりの者というか……驚かせちゃってごめん」


「そんな……」


 戸惑う子供の声に、清花は動揺する。


 ――何かを言ってあげなくちゃ。きっとこの子は怖がってる。


 するとスキをつかれた瞬間に、子供の手は清花の手から離れていった。


「ま、待って!」


 清花は叫んだが、その子供が戻ってくることはなかった。


「そういうこと、だったんだね」


 清花は空を見上げ、そこにある月を見つめる。


「どうにかしてあげられないかなぁ」


 あの子は少し、わたしと似ている――。

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