3-8 終幕のダイヤモンド3

 下校時間を過ぎた職員室は閑散としていた。机の上に乱雑に置かれた教科書や資料は、息を殺すように気配を消している。壁掛け時計の秒針の動く音だけが、静かな部屋に響いていた。

 他の教師はすでに業務を終えているのか、職員室にはたった一人の教師しかいなかった。長い机の端の席に座っているのは私の良く知る人物、幽城棗子ゆうきなつめこさまだ。いつもと変わらぬ微笑みを向け、彼女は口を開いた。


「一応、聞いておこうかしら。どうして私が教師だと分かったの?」

「最初に疑問に思ったのは、美守みもりさまの行動です。彼女はあなたには一切カメラを向けませんでした」


 美守さまは慣れない人と話すとき、カメラを構えてファインダー越しに相手を見て話す癖がある。ところが、ストーカー事件の時、美守さまは棗子さまの推理をカメラを下ろした状態で聞いていた。翌日、美守さまに世瑠よるお姉さまの話を聞いたときもそうだ。始めに美守さまと棗子さまが会話をしていたときにはカメラを下ろしていたのに、私と話したときに急にカメラを構えていた。


「美守さまがカメラを構えないと言うことは、彼女にとってあなたは慣れない相手ではないということになります。私が知らないだけで、美守さまと棗子さまは仲が良いのかと思いました。けれど、美守さまは想乃しか友達がいないと言っています。友達ではないけれど、ある程度話をする関係性なんだろうと思っていました」


 写真部の美守さまと、第二美術室で衣服を作っている棗子さまが、部活動で関わるというのも薄い線だ。授業で教師と生徒という立場で繋がっていたと考えれば、筋は通る。友達ではないが、慣れる程度にはよく話す間柄と言えるだろう。いつだったか想乃が、棗子さまに勉強を見てもらって、成績が上がった生徒が多いと言っていたのも裏付けになる。


「でも、私のこの服装はどう説明をつけるのかしら?」


 椅子に座ったまま、棗子さまは優雅にスカートを広げた。私が棗子さまを先輩だと勘違いした原因だ。学園の制服は本人でしか注文ができない。教師であっても、生徒用の制服を手に入れる方法は無いだろう。けれど、例外はある。


「あなたがこの制服をデザインしたんですね」

「ふふ。正解よ。結構気に入っているの」


 ただの教師では制服を手に入れる術はない。だが、そもそも制服を作ったのが教師だったどうだろう。製作者であれば、サンプルくらい持っていて当然である。学園の理事長が生徒に渡す指輪をデザインするくらいだ。制服のデザインを変える際に、学園の教師に依頼しても不思議ではない。舞台衣装を作れるくらいの棗子さまには、それだけの技量がある。


 初めて会ったときこそ、学園の制服を着ていたが、それ以外ではシンプルな洋服を着ていた。制服を着ていないことに私は不審に思っていたが、それは逆だ。彼女が教師ならば、むしろオフィスカジュアルな衣服を着ている時の方が正常だったのである。

 とはいえ、彼女は作った洋服を着るのが好きだと言っていた。演劇部の生徒が違和感を感じないほど頻繁に、自分のデザインした制服の方も着ているのだろう。黄色いリボンを付けていた源子さまを一年生だと思ったことに続き、私は二度も同じような勘違いをしてしまった。


「それから、あなたが教師だと思った一番の要因は、あなたがいつも第二美術室を使っているということです」

「あら、そんなに変かしら? 第二美術室は誰も使っていないのでしょう。私が使っていても不思議ではないわ」

「だって、第二美術室は閉鎖されているんですよ」


 これはお姉さまの個展は完成しているという私の願望も、少し入っていた。世瑠お姉さまが自殺したことで、第二美術室は誰にも触れられないお姉さまの個展となったはずだ。現に雅陽みやびさまが、それまで授業で使っていた第二美術室が閉鎖になったと言っている。鍵が掛かっているのが普通なのだ。ただの生徒であれば簡単に第二美術室に入れるはずもない。思えば私が第二美術室に入るとき、いつも棗子さまが先に入室していた。


「あなたは第二美術室の管理を任されている。だから自由に第二美術室に入室することができた。そして、そのことはさらなる可能性をもたらしました」


 息を深く吐く。漆黒の瞳に向けて、私は口を開いた。


「棗子さま。あなたは世瑠お姉さまと契りを交わした姉ですね」


 告げた言葉は、さきほど第二美術室で棗子さまに言われた言葉と瓜二つだった。


 棗子さまは静かに微笑んだ。私が指摘することを、すでに予感しているようだった。


 世瑠お姉さまに姉妹がいると、美守さまは話していた。でもそれは、私のことではない。私たちが会うのはせいぜい月に一度か二度。放課後はいつも楽しそうにしていたという証言と一致しない。もっと身近なところに、世瑠お姉さまを支える存在がいたのだ。


「世瑠お姉さまが個展を完成させるには、第二美術室の閉鎖が不可欠です。自分の死後、第二美術室を保存できる保証なんてどこにもない。だからそれを確かなものにするため、教師の中に協力者がいた」


 私は左手を棗子さまへ突き立てた。左手の薬指にはダイヤモンドの指輪が光っている。お姉さまが残した遺品の一つだ。けれどこれは、お姉さまの指輪ではない。


「あなたはお姉さまと指輪の交換をしていた。指輪に刻まれた『N・Y』の文字。お姉さまの遺品を受け取ってから、これは七町ななまち世瑠よるのイニシャルだと思っていました。でも本当は、幽城棗子ゆうきなつめこ、あなたのイニシャルですね」


 私が佐久間志世S・Sという名字と名前が同じ頭文字であるから、最初は気が付かなかった。七町世瑠お姉さまの遺品の指輪が「N・Y」と掘られていたから、イニシャルの表記は名字・名前の順だと思い込んでいた。けれど、演劇部の事件の時、壊された黒岩源子くろいわもとこさまの指輪は「M・K」と掘られていた。正しいのは、名前・名字の順なのだ。源子さまのフルネームを聞いたときに感じた違和感の正体が、今なら理解できる。


「その通りよ。世瑠さんは私の大切な妹だった」


 目を細め、棗子さまは左手の薬指を見た。そこには姉妹の契りを経て棗子さまへと渡った、世瑠お姉さまのダイヤモンドの指輪が輝いている。


「去年の夏、世瑠さんは第二美術室に現れた。閉鎖される前から、私は第二美術室で衣装を作っていたわ。いつものように作業をするために、第二美術室の扉を開けると、彼女は私の作った衣装を眺めていた。この学校には上品な生徒は多いけれど、彼女の気品はまた少し違っていた。可愛い犬の群れに、一匹佇む狼のような孤高さを感じたわ。私は一瞬で、彼女に目を奪われていた。彼女に私の作った衣装を着て欲しいと思ったのよ」


 私は第二美術室に置かれた衣装を思い出した。煌びやかな衣装は、今すぐにでも着られるほど綺麗に手入れされている。数々のドレスには、棗子さまと世瑠お姉さまの思い出が詰まっているのだろう。


「その手に指輪を付けていないことに、すぐに気が付いたわ。彼女は一年生のころは学校に来ていなかったから、この学園のルールをよく分かっていなかったのね。私は彼女の白い指に、私のダイヤモンドの指輪を差し出した。世瑠さんは、私の申し出を快く受け入れてくれた。

 私は衣装を着こなす逸材を、彼女は絵画を失ったあとの拠り所を求めていたの。私たちが親しくなるのに、そう時間はかからなかったわ。

 世瑠さんは自分のことを多くは語らなかった。あなたが言っていたように、普通の学生としての人生を歩きたかったのだと思う。二人で過ごす日々は楽しかったわ。一緒に衣装を作って、一緒にくだらない話をして、一緒に笑い合った。

 なのに、私は推理してしまった。彼女の持つ知識や言動、独創的な観察眼なんかが、私に疑念を抱かせた。私は、彼女が病気で余命が幾何もないこと、彼女が画家を志していたことを指摘した。当時の私は、それが悪いことだなんて欠片も思ってなかった。彼女のことを理解できて嬉しいとさえ思っていたわ。推理がきっかけで彼女を失うとも知らずにね」


 当時の出来事を思い起こしているのか、棗子さまは苦笑した。私の知る最初の棗子さまは、推理で人を傷つけることを極度に恐れてた。それは、世瑠お姉さまを失ったという経緯があったのだ。


「私が推理した翌日、彼女は絵筆を握るようになった。絵を描いているときの彼女の瞳は観たことがないほど真剣で、ますます彼女に惹かれていった。病気が進行しているのは分かっている。けれど最期の日まで、私たちはこの第二美術室で作品を作り続けるのだと信じていた。

 でも今思うと、私が彼女の秘密を暴いた瞬間、彼女は決意していたのね。普通の高校生だったはずの世瑠さんに、忘れかけていた夢を思い出させてしまった。絵画の制作に打ち込める環境、展示できる場所、それを保持するだけの人材。第二美術室を彼女の個展にするための要素は、すでに全て揃っていた」


 息苦しさがあふれ出るように、棗子さまはひどく顔を歪ませた。


「ある日、いつものように第二美術室に向かうと、彼女は首を吊って亡くなっていた。彼女の足下には、私に宛てた手紙が残されていたわ。そこには、私への感謝と一緒に、第二美術室を管理して欲しいと書かれていた。いつも一緒にいた彼女のことを、私は何も分かっていなかったの。

 だからせめて、彼女が最期に望んだ願いだけは遂行すると決めた。私は第二美術室に貼られた絵を全て世瑠さんの絵画に張り替えて、部屋の管理を進んで請け負った。世瑠さんの真意を周囲に話して、第二美術室の個展を潰されるわけにはいかなかったから、手紙のことは誰にも話さなかったわ。それが世瑠さんの書いた最期の手紙――遺書だと分かっていてもね」


 棗子さまの綺麗な瞳から、一粒の雫がこぼれ落ちた。


「志世さん、あなたにはどれだけの言葉を並べても、私の罪は償いきれないわ。世瑠さんの遺書を処分したのも、死に追いやったのも、全部犯人は私なのよ」


 弱々しい声を出し、棗子さまは深々と頭を下げた。細い黒髪がたらりと背中から垂れる。体は小刻みに震えていた。


「顔を上げてください」


 優しい声色で、私は言った。


「棗子さまにも責任はあるのかもしれません。けれど、私にだって責任はあります。起こってしまった出来事は全部背負って生きていくしかありません」


 私の言葉に、棗子さまがゆっくりと頭を上げる。整った顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。なんて顔をしてるんですか、と言おうとした私の口に、何か塩辛い液体が入ってくる。きっと私も、同じような顔をしているのだ。


 個展を開くことを急かしてしまった私の責任。推理で画家であることを思い出せた棗子さまの責任。私たちは共に、世瑠お姉さまを自殺させてしまった責任を抱えている。


「許して、くれるの?」

「許すもなにも、私は初めから棗子さまのせいだなんて思っていません。でもきっと、棗子さまは自分自身のことを許してはいないのでしょう。私も同じです。私は私を一生許せない」


 今でも、世瑠お姉さまの自殺は私の責任だと思っている。けれど、私はそのことを悔いて死ぬわけにはいかない。だって私が死んでしまったら、同じように責任を感じている棗子さまに、さらに負担をかけてしまう。


「一緒に歩いて行きましょう。だって、私たちは共犯者じゃないですか」


 なんて、不思議な縁なのだろう。世瑠お姉さまの妹である私と、世瑠お姉さまの姉である棗子さま。違うところで世瑠お姉さまを慕っていた二人がこうして出会い、同じ重荷を抱えている。


 世瑠お姉さまは私たちのことをどう思うだろう。傷をなめ合うような私たちを見て、笑うだろうか。悲しむだろうか。怒るだろうか。


 あの世でお姉さまにそれを聞くのは、まだ早いのだ。

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