3-2 幽霊は実在します

「ここが現場かしら?」

「はい。雅陽みやびさまから聞いた話によると、この踊り場で気を失った想乃そのが見つかったそうです」

「事故にせよ、事件にせよ、想乃さんは階段の上から落ちたわけね」


 第二美術室から棗子なつめこさまを連れてきたのは、一階から二階へと上がる踊り場だった。想乃が倒れていたのは、百八十度で折り返す踊り場の、二階に近い方にあたる。状況だけ見れば、彼女は階段の二階から踊り場へと転落したのだ。


「事件が起こったのは、ストーカー事件が解決した直後です。その日の下校時刻過ぎ、一階の職員室で仕事をしていた雅陽さまは叫び声を耳にしました。急いで声のした方に駆け寄ると、踊り場でうつ伏せになる想乃が発見されたそうです」

「想乃さんの様態は?」

「頭部を強打して意識を失っていたようですが、今は意識は戻って、病院で安静にしているとのことです」


 想乃が怪我をしたと聞いて、私は雅陽さまから事件の詳細を問い詰めた。生徒に話すこと雅陽さまは最初はためらっていたが、棗子さまと演劇部の事件を解決した実績もある。雅陽さまは事件について知っていることを話してくれた。


「あら?」


 何かに気がついた様子で、棗子さまは廊下の隅に落ちていたものを拾い上げた。金色に光るそれは、私に限らずこの学校の生徒はいつも目にするものだ。


「カフスボタンですね」

「このボタン、結構外れやすいのね。仕立てが甘かったかしら」


 話題に釣られるように、私は自分のブレザーの袖を見た。袖口には、金色のカフスボタンが二つ並んでいる。一つは私が昨日、家で縫い付けたものだ。もう一つの正式なものと比べると少し縫い目は粗いが、外れてしまったカフスボタンは元通りに戻っている。


「廊下に倒れた衝撃で、想乃さんのものが外れてしまったのかしらね」


 ハンカチでボタンを丁寧に包み、棗子さまはストレートパンツのポケットにしまった。今日の彼女も昨日と同様、ブレザーを着ていない。花柄のブラウスに合わせたミントグリーンのパンツは、春の爽やかさを感じさせた。これもきっと、彼女が自作した洋服なのだろう。


「階段から落ちて気を失ったと聞くと、まず真っ先に足を滑らせた事故を連想するわ。それでも捜査しようとしているのは、これが事件であるというそれなりの理由があるのかしら?」

「はい、一つは想乃のバッグです」


 踊り場から階段を昇り、すぐ右にある教室のドアを開ける。正面に見えたのは見慣れた一年一組の黒板だ。放課後の誰もいない教室は、普段の騒がしい光景を知っているだけに、一層もの悲しく感じる。私は教室の中央列一番奥の席を指さした。


「想乃のバッグはあそこの自分の席に置かれたままになっていました」

「なるほど。単に下校しようとしたときに転んだというわけではなさそうね」

「誰かと一緒だったのか、一人でいたのかは分かりませんが、想乃は下校時刻まで学校に残っていたようです」

「後で想乃さんにも直接聞く必用がありそうね」

「メッセージでお見舞いに来て欲しいって言ってましたよ。ついでにプリンを買ってきてくれって」

「あら、しっかりしてるのね」


 口元に手を当て、くすくすと棗子さまが笑う。メッセージ上のやり取りではあるが、想乃が元気そうで、私としても安心した。


「もう一つは、カメラのストラップが首に巻かれたことです」

「カメラのストラップなら、首に巻いてあるのが普通なのではないかしら?」


 授業中を除き、想乃は首からカメラをぶら下げている。首にストラップが巻かれているのはいつものことだ。ただし、事件現場のストラップには異変があった。


「ストラップはカメラから外されて、グルグルと想乃の首に巻き付いていたそうです。まるで、想乃の首を締めるみたいに」

「それは奇妙ね」

「一部の生徒の間では噂になっているんです。この事件は、幽霊の仕業じゃないかって」

「昨年学園で首を吊って亡くなった生徒の霊、かしら」


 静かに言い、棗子さまは顔を伏せた。去年、彼女は一年生だった。関わりはなくとも、事件のことを少しは聞いているのだろう。


 去年の事件について、私も全て知っているわけではない。テレビなどの報道によると、ある女生徒が首を吊って亡くなったそうだ。争った形跡や誰かとのトラブルがなかったことから、警察では自殺だと判断された。

 学園に入学してから、亡くなった生徒の話を聞くことはなかった。わざわざ重い話を蒸し返す必要はないので当然ではあるが、当時の在校生にとっては衝撃的な話だったことだろう。


「まあ、実際には緩くストラップが巻かれていただけで、首が締まってはいなかってそうです」

「何者かの仕業であることに間違いはなさそうね。幽霊と考えるのは少し早計な気もするけれど」


 階段から落ちただけで、ストラップがグルグルと首に巻きつくことはない。幽霊にしろ、人間にしろ、誰かが想乃の首にストラップを巻いたのだ。その人物が想乃を階段から突き落とした、そうでなくても事件現場に居合わせた可能性は高いと考えられる。


 事件について思案していると、キイキイと車輪の回る音が聞こえた。


「幽霊は実在します」


 良く通る声で言ったのは、源子もとこさまだった。彼女の車椅子を、今日も希成きなりさまが押している。元々背の低い源子さまは、車椅子に座るとより小柄に見える。けれど、その姿にどこか魅入ってしまう。彼女には人を惹きつけるような、大きな存在感があった。


「ごきげんよう源子さん。あなたがオカルト好きだったとは知らなかったわ」

「この世に残るほどの強い思念のある霊なら、是非ともお話をうかがいたいです。激しい感情は、演技にも参考になりますから。けれど今言っているのは、そうではありません。幽霊には目撃証言があるということです」


 源子さまの言葉を噛み締めるように、棗子さまがゆっくりと瞬きをした。源子さまは話を続ける。


志世しよさんが今度の事件を捜査しようとしていると、雅陽さまからうかがいまして、私たちでも少し調べてみたんです。被害者の状況から、昨今学園で噂されている幽霊と関連していると思い、聞き込みを行いました」

「実際に聞き込みに行ったのは僕だけどね」

「適材適所です。交渉事は昔から希生の方が得意ですから」

「モト、意外と人見知りだもんね」


 うるさいですよ、と源子さまは口を尖らせた。事もなげな様子で希生さまは笑う。彼女たちの砕けた関係に、思わず私は口角を上げていた。見ていて微笑ましくなるほど、息の合った姉妹だ。


 緩んだ空気を引き締めるように、源子さまは短く咳払いした。


「音楽室、二年生の教室、理科準備室、女子トイレ。目撃された場所に一貫性はありません。幽霊は、学園のどこにでも現れます。ただ共通しているのは、その身なりでした。長い黒髪、黒いネイル、学園の制服、赤いリボン、そして顔は……目も鼻も口も無いのっぺらぼうだそうです。話によると顔以外の特徴は、去年自殺した生徒と一致しているそうです」


 教室の椅子がひとりでにパキッと音を鳴らした。亡くなった生徒と同じ格好をした霊が目撃されている。その事実に、棗子さまは眉を動かした。

 源子さまは形の良い顎に指を当てて、話を続けた。


「ここからは私の個人的な所見です。幽霊と言っても、これは誰かが演じているのでしょう。足が無いというわけでもないですし、のっぺらぼうという特徴を除けば、一般的な女生徒と相違ございません。この何者かがのっぺらぼうのお面を被り、学園中を歩き回っているのです。あたかも、自殺した生徒が現世を彷徨っているかのように」

「その幽霊を演じている何者かが、想乃さんを害した可能性があるというわけね」


 棗子さまの結論に、源子さまは深く頷いた。


「とはいえ、これは私の推測です。自殺した生徒と目撃されている幽霊、それから今度の事件が必ずしも関わりがあるとは限りません。何かのお役に立てていれば幸いです」

「ありがとうございます。公演前で忙しいはずなのに、時間を割いていただいて申し訳ございません」

「いつでも手を貸すと言ったでしょう。お二人には大きな恩がございます。こんなことで返し切れるとは思っていませんが、ご協力させてください」


 柔らかな指を組み、源子さまは微笑んだ。

 きっと私だけでは、こんなにも早く幽霊の情報を集めること出来なかっただろう。棗子さまと真実を解き明かしたことが縁で、源子さまと希生さまが協力をしてくれた。事件を解決したことがまた別の形で肯定されたようで、嬉しくなった。


「僕からも一つだけいいかな」


 源子さまの後ろに控えていた希生さまが一歩前に出て、口を開いた。


「実は一度だけ、彼女と話したことがあるんだ」

「彼女?」

「去年自殺した生徒だよ。もちろん幽霊じゃない、生前の彼女とね」


 幼少期の遠い記憶を思い出すかのように、彼女は目を細めた。


「あれは去年の夏頃、当時の演劇部の三年生からモトへのバッシングが始まったころだった。先輩たちの嫌がらせに気づいていながら、僕は何もしてあげられなかった。僕の力が足りないばかりに、モトが傷ついてしまう。どうすればモトを守ることができるのか、ずっと悩んでいたんだ」


 以前、演劇部の事件のときに聞いた話だ。実力のある源子さまは、一年生ながら主役に抜擢されていた。そのことを妬んだ三年生とは対立していたそうだ。


「人気の無い階段でうなだれていると、例の彼女がやってきて、何かあったのかと問いかけてきたんだ。長くて滑らかな髪で、綺麗な黒いマニキュアで、それから暖かい瞳をしていたよ。僕はつい、自分の悩みを口にしてしまった。すると彼女はこう言ったんだ」


 そばに誰かが居てくれるだけで人は安心できるものよ、と。


「だから僕は、モトの止まり木になろうと決めたんだ。それから誹謗中傷や嫌がらせが増えてきても、モトの隣に居続けられたのは、彼女のおかげかもしれない。そのうちに雅陽さまや二年生の先輩たちも味方になってくれて、モトは演劇部にいられたんだ。彼女はクラスメイトに呼ばれてどこかへ行ってしまったから、話したのはそれきりだったけどね。いつかお礼を言おうと思っていたけれど、叶わなかったな」


 希生さまは目を伏せた。後悔の念が彼女を押し潰しているように、強く歯噛みしている。

 去年は演劇部の公演数が減ったと言っていたことを、ふと思い出した。今思うと、その生徒が自殺したために公演するどころではなくなっていたのかもしれない。


 彼女はどうして自殺なんてしたのだろう。少ない情報からは、推測することはできない。希生さまが話す彼女の印象は、見知らぬ後輩を励ますような優しい先輩で、自殺とはとても結びつかなかった。


「その生徒のお名前はご存じでしょうか?」

「彼女はこう呼ばれていたよ――ヨルさん、と」

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