2-2 約束のサファイア

 いつも楽しみにしている昼休みが、今日はどうにも気が重い。自由な時間が五十分もあるというのが苦痛だった。授業中は、やるべきことが明確なので余計なことを考えている間がない。けれど、時間が空くとどうしても彼女のことを考えてしまうのだ。


 幽城棗子ゆうきなつめこ


 昨日出会ったばかりの、不思議な先輩。

 衣装作りが好きで、所作が優雅で、感情が豊かで、そして人を寄せ付けない冷たい目をする人。彼女の冷たい瞳からは、この世の邪悪は全て自分が受け止めるかのような深い孤独を感じた。放っておいたら消えてしまいそうなのに、私は何もすることができなかった。


 私がでしゃばらなければ事件はもっと平穏に終われていたのだろうか。推理を誤らなければ源子もとこさまを怪我させなかっただろうか。棗子さまにどんな言葉をかけてあげればよかったのか。一晩経っても、答えは出ない。


 脳を使いすぎた負荷に耐えきれず、私はブルブルと頭を振った。気分が沈むのはきっとお腹が空いているからだろう。学食で何か食べようと、私は教室を出た。


「あなたも食堂へいらっしゃるのですか、志世しよさま」


 背後から名前を呼ばれたのは、食堂のある階に着いた直後だった。振り返ると、信じられないものが目に飛び込んでくる。


「驚きましたか? これが文字通り、舞台から転落した女優の末路です」


 声を掛けてきたのは、源子さまだった。昨日と違う点は、二年生用の青のリボンをしていることだけじゃない。


 源子さまは車椅子に座っていた。


 昨日まで動いていたはずの華奢な足が、今は車椅子の足置きに乗っている。舞台の上から落ちたとき、部員の一人が「足が腫れている」と言っていた。まさか、そのせいで歩けないほどに――。


「こーら、笑えない冗談言わない」

「あたっ」


 源子さまの脳天に軽いチョップが見舞われた。緊張が張り詰めていた空間に、なんだかほんわかとした空気が流れる。驚きのあまり見えていなかったが、源子さまの車椅子を押しているのは希生きなりさまだった。


「本当は軽い捻挫だよ。一週間もすれば治るそうだ。本当は車椅子なんて全然必要ないんだけど、ちょっと事情があってね」


 希生さまの言葉に、ほっと胸をなで下ろした。病院に運ばれたと聞いていたので、悪い想像をしてしまったが、杞憂きゆうだったようだ。


「希生さま、昨日は申し訳ございませんでした。犯人扱いしてしまって、なんてお詫びをしたらいいか」


 希生さまに向かって、頭を下げる。昨日は源子さまが怪我をしたので、謝るタイミングがなかったが、私のしたことは到底許されることではない。ところが希生さまは、全く怒る様子もなく手を左右に振った。


「いいのいいの。悪いのはモトを不安にさせた私と、勝手に暴走したモトだから」


 ね、と希生さまは源子さまに声を掛けた。頭を押さえていた手を元に戻し、源子さまは姿勢を正した。


「昨日の事件は、全て私に非があります。本当に申し訳ございませんでした」

「私は何にも迷惑掛かってないですから。頭を上げてください」


 頭を下げる源子さまに、私は慌てて言葉を紡いだ。むしろ部外者なのに場をかき乱した私の方も、非は大きい。


「それで、どうして車椅子に乗ることになったんですか?」

「ご迷惑を掛けた以上、責任を取って演劇部は退部しようと考えていました。それで、今朝は早くから雅陽みやびさまと部長さまに謝罪と退部届の提出にうかがったところ……なぜか部長さまの脚本家魂に火がつきました」


 足を怪我した源子さまを見て、演劇部部長のインスピレーションが沸いたらしい。源子さま演じる現代の少女には、新しく車椅子という設定を追加された。そうすれば、源子さまは足の怪我を気にする必用がない。その上少女の儚げな雰囲気を高めることができて、介助を通じて少女と麗人の距離を縮めることもできると、萌えながら――いや、燃えながら部長は話したそうだ。

 幸いにも保健室には予備の車椅子があった。公演まで時間が限られているので、源子さまと希生さまは練習のために、普段の生活を車椅子で送ることになったそうだ。


「謝罪に行ったら、『うるさい、いいから舞台に立て』ですって。許してもらえるとは考えていませんでしたが、まさか聞く耳を持たないとは思いませんでした」


 語る言葉は不満げだが、源子さまの口角は上がっていた。源子さまが舞台から落下したとき、演劇部の部員たちは一丸となって彼女の救護に当たっていた。部の中で、源子さまは愛されているのだ。

 私はともかく、演劇部の人たちには、稽古の場を汚すような事件を引き起こしたことを源子さまは謝らなければならない。けれど、きちんとけじめをつければ、部員たちは彼女のことを受け入れてくれるはずだ。


 それよりも、問題は源子さまと希生さまの関係だ。私は車椅子のハンドルを持つ希生さまの手元に視線を向けた。左手の薬指には、姉妹の証であるはずのルビーの指輪が付けられていない。棗子さまの推理では、再注文した指輪は壊されていても、元々付けていた指輪に被害はなかったはずだ。それを今付けていないということは、姉妹の縁が切られたなんてことに……。


「君の想像するような悪いことにはなってないよ。ほら」


 希生さまは首からぶら下がったネックレスを取り出した。革紐の先端には、二つのアクセサリーが留まっている。一つは綺麗に光るルビーの指輪。もう一つは何の宝石がはめられていたのかも分からないひどく歪んだ指輪だ。


「これって昨日の!」

「そうだよ。事件の発端となった、壊れた指輪さ」


 優しい眼差しで希生さまは、二つの指輪を見つめた。


「最初に契りを交わしたルビーの指輪も、壊れたルビーの指輪も、どちらもモトの大切な気持ちだ。ないがしろになんてできない」

「気持ち、ですか」


 昨日の事件で、源子さまは希生さまに罪を着せようとしていた。絶縁してもおかしくない状況だったと言える。それが今はどうだ。源子さまは希生さまに身を預け、希生さまは源子さまを支えている。お互いに信頼し合っていた。彼女たちの間には、私の知り得ない二人だけの物語があったのだろう。良い姉妹だなと、見ていて微笑ましくなった。


「希生」


 首を後ろに回し、源子さまは名前を呼んだ。名前を呼んだ他、二人の間に言葉はない。目と目だけで源子さまと希生さまは会話をしていた。何かを汲み取った希生さまは、私の肩をポンと叩いた


「じゃ、僕は先に食堂の席を取っているよ。モトのこと、よろしく頼む」

「えっ、ちょっと」


 ひらひらと手を振って、希生さまは早足で駆けていった。源子さまと私だけが、ポツンと廊下に残される。よろしくされても、どうすればいいのか分からない。とりあえず食堂に向かおうと、私は源子さまの乗っている車椅子を押した。


「重っ……」

「日本語に存在する数十万単語の中で、今一番不適切な言葉を吐きましたね」

「そういう意味ではなく、ちゃんと人間の重みがするってことですよ。ご無事で本当に良かったです」


 源子さまの重みを感じられることを、私は嬉しく思っていた。彼女の怪我は、先走った推理をした私が原因だ。生きている者の重みというと大げさだが、彼女が元気で笑っていることが喜ばしかった。


「関係者のあなたには、真相をお話しなければなりません」


 ポツリと源子さまが呟く。車椅子の後ろからは、彼女の表情が見えなかった。


「棗子さまの推理は正しいです。私は希生に罪を着せるために、事件を起こしました。汚名を被せて、彼女には演劇部を出て行って欲しかったのです」

「どうしてそんなことを?」

「昨日もお話ししましたが、希生とは幼いころからずっと一緒でした。いえ、正確に言うと私の行くところに希生が付いてきて、ずっと私を守ってくれていたのです」


 昨日、希生さまも話してくれていたことだ。女優の娘としてのし掛かる源子さまのプレッシャーを和らげたいと言っていた。


「『姉妹の誓い』を演じていて、違和感を感じました。物語の中の姉妹は、離れてても心が通じ合っているという終幕を迎えます。私たち姉妹は違います。希生がずっと私に合わせてくれているので、私たちは離れたことがありません。私のせいで希生が縛られていると考えると、怖くなりました」

「つまり希生さまと離れるために、演劇部から追い出そうとしたのですか?」


 源子さまの首が縦に揺れる。


「昨日、希生とゆっくり話しました。私のせいで希生に負担を掛けていることを話したら、彼女、『モトのことしか考えていなかったから、縛られているなんて思わなかった』ですって。彼女は自分が縛られている自覚もなかったのです。だから『あなたが本当にしたいことはないの』と聞きました。希生には私から解放されて、好きなことをしてほしかった」


「希生さまはなんて?」


「『モトと一緒にいたい』ですって。本当、馬鹿ですよね」


 優しい声で、源子さまは言った。顔は見えなくても、照れている声色をしているのが分かる。


「足が快復したら、スケートに行こうと約束したのですよ。希生、本当はスケートが得意なんです。一度私が怪我をしてしまってたので、何となく遠ざかっていましたが。これからは一緒に、希生のしたいことも探したいと思っています」


「それは楽しみですね」


 はい、と源子さまは大きく返事をした。それは今までの彼女の印象とは異なる、子供らしい元気な声をしていた。

 きっとこの姉妹は、もう折れることはない。この先何があろうとも、二人で支え合って進むことができるだろう。二人の想いに、胸にほのかな温もりが広がっていった。


「志世さまと棗子さまには本当にお世話になりました。困り事があればいつでも手を貸します。特に、悪知恵なら得意分野なので」


 こちらに顔を向け、源子さまはニッと子供っぽく笑った。


 その左手には、サファイアの指輪が輝いている。

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