2-1 不安のラピスラズリ

 カシャリ、という音が私の意識を呼び起こした。頭を起こすと、視線の先にはデジタル一眼の大きなレンズがこちらを向いている。


「もー、撮らないでよ」

志世しよが朝から寝込むなんて珍しいね。今日は寝坊?」


 カメラ越しに優しい笑顔を見せたのは、同じクラスで写真部の清水想乃しみずそのだ。人懐っこい彼女は、人の変化に敏感なタイプの人である。昨日の事件のことが頭に残り、陰鬱いんうつ気味だった私に話しかけてくれたのだろう。彼女の柔らかな髪は、今日も雲のようにふんわりと広がっている。左手の薬指には、青いラピスラズリの指輪が光っていた。


「昨日はどうも寝付きが悪くて」

「夜更かしで勉強……なわけないよね、なんかあった?」

「うーん、まあちょっとね」

棗子なつめこさまのことだ」

「え、なんで」


 図星を指されて困惑する私に、想乃はカメラのディスプレイを向けた。画面には枝毛のあるショートボブの女生徒と滑らかな長い髪の女生徒が、たくさんの服を抱えて廊下を歩いている姿が写っている。舞台衣装を抱えて演劇部が練習しているホールへ向かう、私と棗子さまだ。棗子さまは太陽のような笑顔を浮かべ、私は少し困ったように眉を下げながらも満更でもない様子だ。これから事件が起こるだなんて考えもしていなかった頃である。


「ね、棗子さまとはどんな関係なの?」

「知ってるんだ、棗子さまのこと」

「ちょっとした有名人だからね。彼女に勉強を見てもらって、成績が上がった生徒が多いとかなんとか」


 先輩と後輩、憧れとファン、謎を収めようとした大人と謎に踊らされた子供。棗子さまと私はどういう関係なのか探したけれど、適切な言葉は浮かばなかった。関係性にラベルを貼れるほど、私たちの仲は深まっていない。


「別に。たまたま知り合って、ちょっとお手伝いしてただけだよ」


 肩を竦めて、想乃は「そっか」と短く返事をした。教室中央列の一番後ろの席に座る。五十音に並んだ座席順で、私の後ろの席が彼女の定位置だった。


「なら、こんな話は知ってる? 幽城棗子がアレなんじゃないかって話」

「アレって?」

「棗子さまってちょっと浮世離れしてるというか、型破りなとこがあるじゃない? 名字の印象も相まって、ちまたのアレの正体は棗子さまなんじゃないかって噂もあるの」


 ああ、と合点がいった。話をぼかしているが、想乃が言いたいのは幽霊の噂のことだろう。この学園には、幽霊が現れるという噂が広まっている。しかし、棗子さまが幽霊でないことを私は知っていた。第二美術室のうめき声の正体は、型の古いミシンだったのだ。


「棗子さまが幽霊だったら、この写真、心霊写真だよ」


 私の軽口に、想乃は「ひぃっ」と声を上げ身を縮ませた。ノリがいいというわけでなく、本気で怯えている。


「ちょっと、やめてよー。名前を聞くと想像しちゃう」

「あ、幽霊苦手なんだ」

「アレは写真家にとって天敵なの。どんなに綺麗な写真を撮っても、少しアレが映り込んだだけで、心霊写真って扱いにされちゃう。嫌いにもなるよ」

「自分から話を振ったくせに」

「うるさいなー。そんなに言うと、この写真あげないよ?」

「欲しいなんて言ってないけど……」

「じゃあ削除しちゃお」


 カメラを操作する想乃の右手を、私は素早く掴む。棗子さまとのツーショットは貴重である。私の体は正直だった。


「一応、もらっとく」

「素直でよろしい」


 想乃は満足げな面持ちを浮かべた。どうにも負けた気分になり、短くため息をつく。デジタル一眼は無線通信で写真を送れるタイプのようで、すぐに私のスマートフォンに写真が転送された。いつも見慣れているスマートフォンに、見慣れない綺麗な顔が写る。液晶画面に写し出された彼女の笑顔を見つめると、胸にほのかな温もりが広がった。


「そろそろ時間だ。教科書取ってくる」

「あ、私も」


 時計を見ると、朝のホームルームが始まる五分前に迫っている。私は想乃に続いて教室を出た。廊下には、生徒個人に割り当てられたロッカーが並んでいる。一部の優等生を除いて、教科書はロッカーに置きっぱなしにするのが普通だった。

 ポケットから鍵を取り出すと、私はロッカーを開けて教科書を取り出した。今日の一時間目は数学だ。中学までカラフルだった教科書の表紙は、高校になって単色の図形が描かれてるだけに変わった。なんだかそれだけで、ずいぶん難しそうに見える。


「やっぱりおかしい」


 想乃がぼそりと呟いた。彼女は閉じられたロッカーを、怪訝けげんな様子で睨んでいる。


「どうかした?」

「私、いつもロッカーを閉めるときはダイヤルを『0000』に戻しておくの。それなのに、ほら」


 想乃に促され、私は彼女が指さす先を見た。想乃のロッカーは、ダイヤルを回して四桁の番号で解錠するタイプの鍵で閉じられていた。ダイヤルは今、『0600』を指している。左から二桁目の番号が動いていたのだ。


「誰かが間違えて回したんじゃない? 私も隣のロッカーと場所を間違えて鍵を差し込もうとしたことあるし」

「場所を間違えたとしても、せいぜい隣か、隣の隣くらいでしょ。見てよこれ」


 ロッカーに付ける鍵は、生徒自身が用意することになっている。だから、使う鍵の種類はまちまちだ。想乃のロッカーは両隣もその隣も、鍵で開けるタイプの南京錠で施錠されていた。いくらロッカーの場所を間違えたとしても、鍵を使おうとして鍵穴がなければ、その時点で気が付く。ダイヤルを回すことはしないだろう。


「それに初めてじゃないの。ダイヤルに違和感を持ったのはこれで二回目。前の時のナンバーは『0300』」

「うわ、それって……」


 ゾッと背筋に冷たいものが走る。それは誰かが想乃のロッカーを開けようと、順番に数字を試しているようだ。四桁の数字の組み合わせは一万通りしかない。このまま施行を重ねてけば、いつかは正解の番号にたどり着いてしまうだろう。


 ロッカーを開けると、想乃は一つ一つ吟味をするように中の荷物を確認した。幸いにも盗られたものや不審な点はなかったようだ。


「悪いんだけど、志世さんのロッカーを使わせてくれない?」

「うん、もちろんいいよ」


 想乃は授業の間、デジタル一眼をロッカーにしまっている。盗難への不安は人一倍強いことだろう。想乃の教科書やプリントを全て私のロッカーに入れ、私はいつも以上に力を込めて鍵を掛けた。


 何か悪いことが始まろうとしている。そんな考えがよぎったが、すぐに振り払った。

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