1-6 本物

「こちらでよろしいでしょうか?」

「ええ。その位置でばっちりです」


 事件を再現するために、源子もとこさまと希生きなりさまには再びステージの上に立ってもらった。舞台の真下から見上げると、首に負担がかかるほど舞台は高い。雅陽みやびさまは不安そうに、棗子なつめこさまは無表情でステージを見つめていた。


「事件をおさらいしましょう。今回の事件が発覚したのは舞台稽古の後でした。稽古を終えて、舞台用の指輪から自分の指輪に付け替えようと思ったとき、指輪が破壊されているのが発見されたのです。壊されたのはルビーの指輪。源子さまに与えられ、契りを交わして普段は希生さまが所持している指輪です。稽古中、それは源子さまのスクールバッグに入っていました」


 書き割りに描かれた桜の下には、スクールバッグが二つ並んでいる。稽古のときと同じように、源子さまと希生さまのバッグを並べてもらった。


「源子さま。ルビーの指輪はいつ、どこでバッグに入れたのか、もう一度教えてもらってもよろしいでしょうか?」

「稽古の直前の舞台袖になります。舞台用の指輪を私が両方持っていた関係で、ルビーの指輪とサファイアの指輪は、二つとも私のバッグに入れました」

「稽古の直前に指輪をバッグしまい、演技を最後まで終えた後で、源子さまが指輪の入ったバッグを持ってステージを下りたということですね」

「ええ、そうです」


 源子さまが首肯すると、雅陽さまが身を乗り出した。


「ちょっと待って。それだと、稽古前も稽古後も指輪は源子さんの管理下にあったということなんだよね。指輪を壊すタイミングがないじゃない」

「その通り。稽古前と稽古後は、どちらも源子さまがバックを持っていました。だからタイミングがあるとしたら、稽古中しかありません」

「稽古中はみんなが舞台を見ていたじゃない。志世しよさんだって見ていたでしょう。映像を確認しても、誰もバッグに近づくような怪しい動きはなかったよ」

「いいえ。確かに映像を見た限り、誰もバックに触っていませんでした。けれど、稽古中には誰もが舞台を見ていない、さらに言えば映像にすら映っていない時間がありました。だけね」


 手をパーに広げ、私は五という数字を示す。源子さまが、何かに気が付いたようにピクリと体を震わせた。


「舞台の、暗転」


 彼女の言葉に、私はうなずく。不満げな顔で、雅陽さまは腕を腰に当てた。


「それは私も考えた。でも、たった五秒だけでしょう。それに暗転の間、ステージに上がっていたのは源子さんだけなの。ステージに上がり、バッグから指輪を取り出し、壊して、バッグに戻し、ステージを下りる。たった五秒間でできるとは、とても思えない」

「そうでしょうね。では、もう少し作業が少ないとしたらどうでしょう。バッグから指輪を取り出し、壊して、バッグに戻す。この動作だけであれば、何秒あればできますか?」

「うーん……三十秒ってところかな」


 指輪は複数の方向から殴られたように歪んでいた。何か固い物を使って、何度も叩いたのだろう。三十秒程度の時間が必用なことはうなずける。納得のいく答えが返ってきたことに、私は満足した。


「三十秒であれば作れます」


 私の言葉に、雅陽さまは目を見開いた。


「その人物は、源子さまと同じステージに立っていました。彼女は舞台袖に引くとき、スクールバッグを一つ持って行きます。左側が自分の物だと証言していましたが、これが嘘で、実は源子さまのバッグだとしたらどうでしょう。バッグのデザインは同じなので、源子さまのバッグを持って行ったとしても、気付かれることはありません。

 そのあと源子さまの演技の間、舞台裏には彼女一人きりです。別れた女の子を想う源子さまの演技は、このシーンの一番の見せ場。指輪を壊すだけの時間は十分ありました。彼女はその間に指輪を破壊したのです。

 壊し終えたら、暗転の間に源子さまのバッグと舞台の上にある自分のバッグを入れ替えます。バッグが置いてあったのも、彼女がいた舞台袖も、ステージ向かって左側。数歩進んで入れ替えるだけなので、暗闇の中でも可能です。五秒もかからないでしょう」


 あ、と誰かが声を上げた。演劇部員の視線が、舞台の上のある女生徒に注がれる。


「犯人は希生さま、あなたです」


 指摘された希生さまは、目を大きく見開いた。隣に立っている源子さまは、雷を打たれたように硬直している。何か言葉を発しようと、希生さまの口が動いた。


 しかし。


「――と、思わせることが本当の犯人の狙いよね」


 別の人の声が、希生さまの言葉に割り込んだ。想定外の声に、動揺が走る。こうして揺さぶられるのは、今日二度目だった。一度目は棗子さまが犯人として名乗り出たときだ。そしておそらくは、今回も。


 良く通る声を発したのは、やはり棗子さまだった。彼女は澄ました顔で私の方を見つめていた。


「希生さまに犯行は無理よ。今の志世さんの推理には無視できない穴が三つはあるわ」


 指を一つ立てて、棗子さまは続けた。


「一つ。桜の花びらよ。希生さんが舞台袖に引いた後、舞台では桜吹雪が降る演出が始まったわね。もちろん暗転した時点で担当の方は降らすのを辞めたでしょうけど、すぐにバッグの交換に行っては、まだ舞っている花びらを被ってしまわないかしら」


 稽古後に言い合う希生さまと源子さまを見たとき、頭に桜を被っている姿を見かけたのは源子さまの方だけだった。桜吹雪が降っているときに舞台の上にいた源子さまの頭に、桜がついているのは当然である。

 しかし、暗転中に希生さまがバッグの交換のために舞台に上がったとしたら、希生さまの方も桜を被っていないとおかしい。スクールバッグは桜の木の下にあった。そんなところでバッグを取るために屈んだら、間違いなく頭に桜吹雪が付着してしまうだろう。


「それなら、少し待ってからバッグの入れ替えに行ったらどうでしょう。舞っている桜が落ちきるのなんて、せいぜい一秒か二秒です。落ちきるのを見てからでも、残りの三秒でバッグの交換はできます」

「暗転中のステージの様子は分からないのよ。桜が落ちきるのを目視することはできないわ。勘で二秒待ってもいいけれど、いつ雅陽さまのカットの声が上がって明かりが付くかも分からないのに、そんな悠長なことできるかしら」

「じゃあ、その逆はどうですか。すぐにバッグの入れ替えに行って、そのあと舞台袖で被った桜を振り払ったんです」

「鏡もなしに自分についた桜を全て振り払うことができるかしら。暗転が回復してすぐ合流する源子さんに、桜が付着しているところを見られたら不審に思われるわ」


 全て棗子さまの言うとおりだった。桜を無視してバッグの交換を行うには、かなりのリスクがある。


「二つ。指輪を壊す道具よ。指輪を被害者とするなら、凶器と呼んでもいいわね。あたりまえだけど、金属である指輪を歪め、宝石を粉々に砕くことは人力ではできないわ。犯人はハンマーやトンカチなどの固い凶器を持ち込んだはずよ。犯人はそれをどこに隠していたのかしら?」

「それは……服の内側じゃないでしょうか」


 私の推理では、希生さまが指輪を破壊している間、希生さまのバッグは舞台上に上がっていることになる。バッグに凶器を忍ばせることはできない。ならば、凶器を隠せるところは服の内側しかない。しかし、私の答えに棗子さまは首を横に振った。


「あの時、希生さんと源子さんは抱き合うシーンがあった。体の正面や横に隠したら、源子さんに気付かれてしまうわ。では、背中側は? ダメね。キスシーンで希生さまは、口元を後頭部で隠すような演技をしているわ。つまり、背中は客席に向けることになるの。演劇見ている部員たちに妙な膨らみを見られたら、おしまいよ」


 指輪を叩き壊すための凶器はハンマーなどある程度の大きさを持つものが求められる。それほどの凶器を隠し持つことはできない。あらかじめ舞台袖に凶器を隠しておくという方法もあるが、希生さまは源子さまより後に舞台袖に来たそうだ。希生さまに凶器を舞台袖に隠す時間はなかった。


「三つ。ここまでの二つは不審に思われるリスクを負えば、実行できなくもないわ。でも、最後のは致命的よ。それはずばり、がしていないの」

「音、ですか」

「ええ。凶器で思い切り指輪を叩けば、大きな音が鳴るはずだわ。まして、指輪を壊したとされている源子さん一人のシーンは台詞もBGMもなかったのよ。舞台の源子さんや舞台頭上の桜吹雪担当者が気が付かないはずがないわ。

 音の出ない凶器を選んだ? 確かにリングカッターのような凶器を使えば、ハンマーで叩くよりは音が少ないでしょう。でも、壊された指輪は複数方向に歪んでいた。カッターのような切り口はなかったわ」


 抜け落ちていた視点に、愕然とする。音がしなかった、そのことを良く知っているのは紛れもなく私だ。

 私は何度も舞台の映像をタブレットで確認している。物を打ち付けるような怪しい音がすれば、気が付いているはずだ。無音だったシーンはおろか、二人で口づけを交わすときにも、舞台暗転時にも、そんな不審な音はしていなかった。


「待ってください。でもそれだと、指輪は誰にも壊せないじゃないですか」

「ええ、その通り。のよ」


 一瞬、自分の耳を疑う。指輪は破壊されなかった、と棗子さまは言った。

 そんなはずがない。それはこの事件の前提だ。指輪が壊されていたからこそ、源子さまは怒り、希生さまは憂えていたのだ。


「意味が分かりません。指輪は確かに破壊されていました。私たち全員がそれを目撃しています」

「少し言葉が足りなかったわね。私が言いたいのは、稽古の直前に源子さんがバッグにしまった方のルビーの指輪は壊されなかったということよ」

「どういうことですか? それじゃあまるで、指輪は二つ存在していたように聞こえます」

「あるのよ。ルビーの指輪はね」


 ルビーの指輪が二つあった。つまり、希生さまがずっと付けていた指輪と今回壊された指輪は別物だということだ。希生さまが付けていた指輪に手を加えることは難しい。ならば、破壊された指輪が偽物の指輪だということだろうか。いや、指輪は壊されていたとはいえ、デザインもイニシャルも読み取れる範囲内だ。ダミーの別の指輪で代用することはできない。


「それはあり得ません。希生さまは舞台袖までルビーの指輪をずっと付けていました。破壊された指輪も全く同じ指輪です。そうですよね?」


 舞台の上に立つ希生さまに言葉を投げる。希生さまは大きくうなずいた。


「僕も確かめた。壊れていたのはモトのイニシャルが入った、本物の指輪だ」


 その答えを待っていたかのように、棗子さまは笑った。


「希生さんの言っていることは正しいわ。どちらも本物の指輪なの。本物の学園の指輪が二つあるの」


 本物の学園の指輪が二つあるなんてあり得ない。それは学園の伝統に反している。

 学園の生徒に与えられる指輪に同じデザインのものは二つとない。指輪は生徒の個性を反映したもので唯一無二であるからだ。


 頭の中で、何かが引っかかった。指輪が二つあることは本当にあり得ないことだろうか。私は二つの学園の決まりを思い出した。『指定のリボンと同じ立ち位置に指輪がある』『リボンは自分に与えられたものしか注文できない』


 まさか。


「気が付いたようね。確かに学園の指輪は唯一無二よ。けれどそれは、世界にただ一つしか存在しないという意味ではない。指輪はいわば、。制服のリボンと同じように、自分に与えられたものであれば同じものを注文できるのよ」


 指輪は生徒個人に与えられたもの。同じ指輪は二つと存在しない。けれど、生徒本人の指輪であれば、制服の注文をするのと同じように、二つと存在しないはずの指輪をもう一つ注文することができる。


 ルビーの指輪を注文できる生徒。それはこの学園に一人しか存在しない。

 棗子さまは舞台の上の彼女に向かって言った。


「あなたはルビーの指輪を注文した。その指輪を事前に壊しておいて、稽古後に希生さまに渡した。そうよね、源子さん」


 源子さまの綺麗な金髪が、静かに揺れる。彼女は目を細め、短く息を漏らした。


「そんなことをして何の得があるのでしょう? 指輪を再注文するのもただではないのでしょう?」

「この事件で損するのは希生さんよ。稽古中に事件が起こったと分かれば、一緒に舞台に立っていた希生さんがどうしても疑われる。あなたは希生さんに罪を着せたかったんじゃないかしら。いつも一緒にいるからこそ、すれ違うこともあるわ」


 希生さまは目をまん丸に見開いた。信じられないといった顔つきで、源子さまの方に視線をやる。


「あなたがやっていないと言うならば、そのスクールバッグを調べさせてもらえるかしら? 私の推理が正しいなら、あなたのバッグには残っているはずよ。希生さんが預けた、壊れていないルビーの指輪がね」


 その指摘に、源子さまが瞳を揺らした。黙って、ただ舞台のフローリングを見つめている。それは肯定の沈黙だった。

 源子さまがルビーの指輪を注文しているなら、壊された指輪はこの注文した方の指輪だ。源子さまは事前に指輪を壊しておいて、ケースに入れてバッグの中に忍ばせておく。稽古前、源子さまは希生さまからルビーの指輪を預かる。この時点で、源子さまのバッグには壊れた指輪と壊れていない指輪の二種類が入っていた。あとは稽古後に、壊れた方の指輪を希生さまに渡せば、あたかも稽古中に指輪が破壊された事件ができあがるのだ。


「モト……」


 心配した希生さまが、源子さまに近寄ろうと手を伸ばす。しかし。


「来ないで!」


 大きな声を上げ、源子さまは伸ばした彼女の手を撥ねのけた。


 そこからの出来事は、スローモーションのように写った。


 バランスを崩した希生さまが舞台の上から落ちそうになる。足下はふらつき、今にも落ちる寸前だ。一瞬のことに呆然と立ち尽くすことしかできない中、唯一動いたのは源子さまだった。彼女は希生さまの手を掴み、渾身の力で舞台側に引き戻した。希生さまはその場で尻もちをつく程度に留まり、舞台から落ちることはなかった。しかし、勢い任せの力は源子さまの体を支えきれなかった。希生さまを引っ張った反動に耐えきれず、源子さまの体は舞台の下へと転落していった。


「源子さま!」


 しっかりして。足が腫れているわ。早く保健室に。あっちに台車がある。……倒れこむ源子さまを囲い、様々な声が飛び交う。突然のことに皆が混乱している中、動けないほど動揺していたのは棗子さまだった。

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