1-2 粉砕のルビー

「好きです……」


 ビスクドールのように小顔で金髪の女の子が呟いた。儚げなその声は、小さな声量にもかかわらず、ホールの端にいる私にまで届いている。感情の乗った熱っぽい言葉は、私に投げ掛けられたものではないのに、聞いていてドキドキしてしまう。

 想いのこもった言葉を受けたセーラー服を着た麗人は、少女に優しく微笑んだ。ビスクドールの少女の頬を、麗人は優しく撫でる。二人の境界が溶け合い、一つになっていく。そうなることが自然なように、麗人は少女に口づけをした。


「ありがとう。いつまでも、君のことを想っているよ」


 麗人は別れを惜しみながら、桜の木の根元に置いていたスクールバッグを持って去って行った。少女は手を伸ばしたが、その手は麗人には届かない。

 一人残された少女は、自分の左手を見る。薬指にはめている指輪がキラリと光った。桜の木から花びらが落ちはじめ、少女を包み込むように優しく舞う。胸元の黄色のリボンが、少女の心のようにユラユラと揺れていた。憂いを帯びた少女の横顔は、別れてもなお、麗人を想っていることが伝わってくる。二人の離別を決定づけるかのように、舞台は暗転した。


「カット!」


 雅陽みやびさまの一声で、舞台に魅入っていた私の意識は現実に戻った。周囲の張り詰めていた空気が一気に弛緩する。ステージの照明が付き、授業が終わって休み時間を迎えたように、辺りからガヤガヤと雑話が始まった。ビスクドールの少女からはうれいが消え、ただの女生徒になっている。さきほどまで綺麗に舞っていた桜吹雪は、いつの間にか止んでいた。舞台の上は足の踏み場もないくらい、隙間なく花びらが積もっている。


「やっぱり練習で花吹雪を散らすのは良くなかったかな。後片付けが大変」


 小さく独りごちる雅陽さまに、棗子なつめこさまが声をかけた。


「遅くなって申し訳ございません。雅陽さま、衣装を届けにうかがいました」

「あら、棗子さん。いつもありがとう」


 雅陽さまは手近の生徒を何人か呼び、衣装を受け取るよう指示を出した。私も棗子さまに続き、生徒に舞台衣装を預けた。


志世しよさんも一緒だったんだ」


「はい。成り行きでお手伝いを。雅陽さまはここで何を?」

「話してなかった? 私、演劇部の顧問なの」


 どこか誇らしげな顔で、雅陽さまは眼鏡のブリッジをクイと上げた。

 この学園には目上の人には「さま」を付けるという伝統がある。先輩はもちろん、先生に対してもこのルールは適用される。だから生徒の誰しもが、彼女のことを大知おおち先生ではなく雅陽さまとお呼びしていた。


 大知雅陽さまは、私の所属する一年一組の担任の教師だ。彼女の受け持つ英語の授業は、音読が良いと評判である。感情のこもった朗読をする人だなと思っていたが、演劇部の顧問であれば納得がいった。高校教師の顧問というものは義務で受け持つことも多いと聞くが、雅陽さまは義務ではなく演劇が好きなようにみえる。


「今のは月末公演予定の演目だよ。新年度最初の公演では、指輪に関わりの深いこの演目をするのが毎年の恒例なの。良かったら志世さんも観に来てちょうだい。新入生にこそ観て欲しいの」

「さっきの別れのシーンってラストシーンじゃないですか。最後の部分を知っちゃって大丈夫ですか」

「あー、大丈夫! ラスト以外も見所はいっぱいあるから!」


 顔をずいと近づけて迫る雅陽さまに、私は思わず「はい」と返事をした。確かに今さっきラストシーンと思われる重要な部分を見てしまった。それでも、もう一度観たいと思えるほど役者の熱が入った良い演劇だった。


「これはどういうことですか!」


 突然、ホール内に怒号が響き渡った。演技の稽古かと思ったが、どうにも様子がおかしい。大声が聞こえたのは舞台に向かって左側の前方。客席と舞台裏を繋ぐ扉の前だった。

 先ほど舞台で熱演していたビスクドールの少女とセーラー服の麗人が言い争っている。少女はやりきれない怒りを、思わず麗人にぶつけているようだった。少女の頭には、稽古中に舞っていた花びらが付けたままになっている。その滑稽こっけいさを吹き飛ばすほど、少女はひどく憤慨ふんがいしていた。対して麗人の顔はひどく青ざめ、言葉を失っている。少女の右手の掌は、何かを大事そうに握りしめていた。


「二人とも、落ち着いて! いったい何があったの!」


 駆け寄った雅陽さまが問うと、麗人が震えた声で言葉を発した。


「稽古が一区切り付いたので、指輪を付け替えようと思ったんです。稽古中、僕とモトは自分のではなく、舞台用の指輪をしていましたから。それでモトのバッグにしまっていた指輪を取り出したら、指輪がこんなことに……」


 麗人に促され、モトと呼ばれた少女は掌に包んでいたものを私たちに向けた。


 それは、指輪だった。


 指輪は円形を留めていない。複数方向から殴られたように、ぐにゃぐにゃに潰れていた。元は二重の円が交差するよう作られているデザインが、交差することなく二つの歪な円に分離している。石座に収まっていたはずの赤い宝石はルビーだろうか。粉々に砕かれ、砂のような粒になっていた。リングの内側には、「M・K」と彫られているのがかろうじて読み取れる。


「ひどい……どうしてこんなことに」

「分かりませんよ!」


 少女は吐き捨てるように言った。眉を吊り上げ、全身から怒りを発しているのが目に見えるほど分かる。どうしてこんなことになっているのか彼女自身にも心当たりがないようだ。なんで壊されたのか。誰が壊したのかも。

 指輪の破壊は明らかに人為的なものだ。たとえ手が滑って勢いよく指輪を落としたとしても、ここまで壊れることはない。明確な誰かが、何らかの方法で指輪を破壊したのだ。

 それを行ったのは、間違いなくこのホールにいる人間――演劇部の中にいる。稽古中に指輪を付け替えたということは、稽古前には少女は自分の指輪を付けていたはずだ。その状態では、指輪に手を付けようがない。演劇の稽古中に、指輪は壊されたのだ。

 犯人が近くにいることは誰もが分かっていることだろう。しかし、演劇部の部員たちはそのことに気がつかないふりをして、気まずそうに俯いていた。身内を疑うことになるのだから、無理もない。この場を動かすとしたら、演劇部ではない第三者の方がふさわしい。


 ゴクリ、と私は唾を呑んだ。

 第二美術室のドレスを思い出す。赤黒い絶望に苛まれても白い希望は輝いていた。泣いている少女に手を差し伸べることができるのは、希望を与えることができるのは、私しかいない。

 私はふうと息を整え、言った。


「犯人は私が探します」

「犯人は私よ」


 声が、重なる。

 私と同じタイミングで、誰かが声を発したのだ。


「私が、その指輪を壊したわ」


 そう言った棗子さまの瞳は、冷たかった。誰も寄せ付けないナイフのような目で、私を睨みつける。けれど、これは嘘だ。明らかに棗子さまは嘘をついている。


「棗子さまが犯人なわけがありません。ホールに入ってからずっと、いえ、その前の第二美術室から私たちは一緒にいたじゃないですか」

「なら犯行は、志世さんが第二美術室に来る前になるわね。私たちが衣装を届けるためにホールに入っても、雅陽さまは声をかけるまで気がつかなかったわ。部外者でもホールに侵入できたということよ。こっそり侵入して、指輪を破壊した可能性は否定はできないはずよ」


「可能性が否定できないだけで、棗子さまが犯人というわけではありません」


 棗子さまの言い分は屁理屈だ。確かにこの広いホールに侵入するのは必ずしも不可能ではない。けれど、演劇部員に見つかるリスクを冒して稽古中のホールに侵入する理由が分からないし、そもそも棗子さまは壊された指輪がバッグの中に入っていたことも知らないはずだ。


「それにあなたは、美しいものを壊す私の姿を見ているでしょう?」

「それは……!」


 部員からどよめきが起こる。舞台の幕に引っかかっていた桜の花びらが、ひらひらと床へ落ちていった。

 確かに第二美術室で、棗子さまは純白のドレスを汚していた。でもそれは、死を表現するため。いわば、作品作りの一貫だ。棗子さまの作品に対する敬意は本物だった。誰かを泣かせるような破壊行為とは全然異なっている。


 言葉に詰まっていると、パンと大きな音が聞こえた。私と棗子さまの言い合いにしびれを切らしたように、雅陽さまが両手を打ち鳴らしたのだ。


「今から三十分間、休憩とします」


 ホール全体に響く声で、雅陽さまが言った。部員に伝わったことを確認すると、私に視線を寄越す。


「その三十分で志世さんは犯人を探して。もちろん私も協力する。ただし、見つからなければこの場は私と棗子さんでおさめる。それでいい?」


 コクリ、と私は大きく頷いた。三十分という時間は十分といえないが、このままうやむやにされるよりずっといい。私の返答には興味がないのか、棗子さまはそっぽを向いている。

 興奮のあまり、必要以上のアクセルを踏んでいるのは分かっていた。特に頭が良いわけでもない私に、事件を解決できるだけの力量があるとは思えない。けれど、事件が起こってからの棗子さまの様子は変だ。第二美術室でドレスを汚していた奇怪さとはワケが違う。まるで犯人が自分であれば全て事が収まるかのような、一種の諦めを感じた。このまま棗子さまを犯人にするのは絶対に間違っている。


「真犯人は私が探します」


 もう一度、私は力強く宣言した。今度は棗子さまへ向けて。

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