1-1 開幕のダイヤモンド

 第二美術室は独特な匂いがした。

 部屋を充満する絵の具とオイルの入り交じった匂いは、初めて入った部屋だというのに、どこか落ち着く気分になれた。壁に並んでいる絵画は生徒の作品だろうか。夕焼けに染まる住宅街、小鳥がさえずる朝の学校、並んで歩く二人の小さな女の子。日常の風景を切り取ったような絵画の数々は、どこか懐かしさを感じさせる。

 服飾も扱っているのか、壁際にはファッションショーができそうなほど何着ものきらびやかなドレスが並んでいた。棚の上には石膏像や画材や布が、今にもこぼれ落ちそうなほどぎっしりと敷き詰められている。折りたたみ式の机は端に寄せられ、部屋の中央が広く空いていた。その空いたスペースには、一人の女生徒が立っている。


 彼女が見つめる先にあるのは、真っ白なドレスだ。細部まで刺繍ししゅうの施された純白のドレスが、トルソーに着せられてる。私が部屋に入ったことに気付かないほど、彼女は真剣にドレスを眺めていた。

 何かひらめきを得たのか、彼女は「よし」と大きく頷いた。ハーフアップに留めたバレッタが、彼女の首の動きに合わせてカシャリと音を立てる。彼女はブレザーを脱ぎ、ブラウスの袖を丁寧に折ると、足元にあったバケツに両腕を突っ込んだ。彼女の白い両腕が、中の液体に浸され、赤黒く染まっていく。


「どーん!」


 奇声を発する女生徒を、私はあっけにとられて眺めることしかできなかった。

 大声を発しながら、目の前の彼女は醜い色に染まった手をドレスに押し当てている。時には手形をくっきりと残すように。時にはドレスを真っ二つに裂くように。真っ白なドレスはみるみると色を変えていく。赤く、黒く、赤く、黒く。

 彼女が触れた部分から染料が滴り落ちる姿は、ドレス自体が流血しているようだった。つい先刻まで見惚れるほど綺麗だったドレスは、あっという間に見るも無惨な有様となっていった。


「思ったほどではないわね」


 作業を終えると、ふう、と彼女は息を吐いた。ドレスに対して怒っている感情も、悲しんでいる気持ちも、そこには感じられない。ただ淡々と業務をこなしているだけのような様子だった。

 ドレスから離れて、彼女はこちらを振り向く。


 漆黒の瞳と目が合った。


 蛮行を行ったあととは思えないほど、真っ黒で透き通った瞳をしている。その綺麗な瞳に見つめられ、私の心臓がドキリと激しい音を鳴らした。背中に届くほどの長さの細い黒髪は、すとんと真っすぐ伸びている。胸のリボンの色は青。現在の三年生は赤、二年生は青、一年生は黄色と学年カラーを定められたリボンは、入学してから卒業するまで変わることがない。彼女は私の一つ上の高校二年生だと分かった。

 眉尻を下げると、彼女は困ったように両手を掲げて言った。


「そこのあなた。申し訳ないのだけれど、蛇口を捻ってくださらない?」


 ぼーっとしていた私の思考が、夢から覚めたかのように戻ってきた。確かに染料まみれの手では、蛇口を汚してしまう。私は言われるがまま、部屋の隅にある流しの蛇口を捻った。

 勢いよく流れた水が邪悪を払うように、彼女の赤黒い腕を元の白い腕に戻していく。手を洗うだけの所作なのに、バレエを踊っているかのような優雅さを放っていた。


「なんであんなことをしたんですか?」


 咎めるように強く言うと、彼女の長い睫毛がぱちりと開閉した。問われている言葉の意味が分からないように、彼女は首を傾げる。


「あんなことって?」

「誰かのドレスなんでしょう。あんなに汚して、恨みでもあったんですか」


 綺麗だった純白のドレスは、見ていられないほどひどく邪悪な色に染まっている。きっと誰かの衣装が気に入らず、ボロボロに壊してやりたいと思ったのだろう。その犯人は目の前で無垢な表情を浮かべている。目の前で行われてる非道を、私は見逃すことができなかった。


「あれは私のドレスよ。私がデザインから裁縫までして、そして私が染め上げたの」


 さらりと言った言葉を私は一瞬理解できなかった。ならば、彼女は自分が時間を掛けて作成したドレスを、自分で台無しにしたことになる。


「ありがとう、綺麗になったわ」


 話は終わったのか、彼女はそう言って蛇口を締め閉めた。ハンカチで丁寧に水気を拭き取り、彼女はシンクに置いていたものを手に取る。この学園の生徒にとってはなじみ深い、宝石があしらわれた指輪だ。自分の分身ともいえる指輪を、彼女は大事そうに左手の薬指にはめた。二ミリほどの細い指輪の石座では、ダイヤモンドが光を放っている。


「驚かせてしまったわね。何か私にご用事かしら?」

「あなたというより、この部屋に。実はその、噂を耳にしまして」

「噂?」

「第二美術室には幽霊が出るという噂です」

「そんな噂があったのね。幽霊には会えたかしら?」


 おかしな先輩になら、という言葉を私は呑み込み、首を横に振る。


「なんでも、うめき声のようなこの世のものと思えない激しい音が聞こえるそうなんです」


 第二美術室は、現在使われていない。美術の授業は全て第一美術室で行われるし、美術部員でも第二美術室は使わないそうだ。それなのに、第二美術室から何か不審な物音がするという証言が相次いでいた。


「うめき声……ああ、たまにそういう音が出るのよ」


 納得した顔で、彼女は壁際を見た。視線を追うと、机の上には見るからに古い機種のミシンが置いてある。


「……まあ、そんなものですよね」


 あっけない真相に、私は肩を落とす。幽霊の正体見たり枯れ尾花。変な音が聞こえてきたという噂は事実だったが、その正体はなんてことはない。要するに、オンボロのミシンが異音を発していただけだったのである。


「あの、先輩は何をしてらしたんですか? 自分の作ったドレスを汚すことにどんな意味があるんですか?」

「……そうねえ。あなたはあのドレスをどう思う?」


 彼女に促され、私はあらためて部屋の中央にあるドレスを見た。

 かつて純白だった箇所は、もうほんのわずかしかない。精巧に作られた刺繍はほつれていて、ちぎれた糸の断面から赤黒い染色が滴り落ちていた。ドレスを染める赤と黒には配色の規則性が一切なく、ヘドロようなけがらわしさを感じた。


「むしゃくしゃする、ですかね」


 ポタリ、と先ほど使った蛇口から水の粒が垂れる音が鳴る。口に出して、私は苛立っていたのだと遅れて理解した。

 きっと元のドレスの状態を知っているからだろう。汚れたドレスそのものから受ける印象というよりも、ドレスが損なわれることに対して恐怖を抱いていた。綺麗だったものが、目の前で壊れていく。その光景が、ひどく不快だった。


「何か感情が動いたのなら、作成した甲斐かいが合ったわ。私は死というものを作ってみたかったの。あなた、死んだことはあるかしら?」

「あったとしたら、幽霊の正体は私ですよ」

「なにも生物学上の死の話ではないわ。音楽家が手を怪我するとか、慕っていた友人に裏切られるとか、好きなのに別れなければならないとか、絶望と言い換えても良いわね。そんな時、人はどんな感情になるのかしら」


 部屋を照らしていた太陽に雲がかかり、影を作る。吸い込まれそうな瞳にじっと見つめられ、私は思わずたじろいだ。

 衣装製作どころか、美術も音楽も何かを作り出すという特に経験がない平凡な私には、彼女の言っていることが半分も理解できていない。けれど、彼女のドレス作りに対する熱意のようなものは感じ取れた。奇行をしていた彼女はもういない。いや、奇行なんてはじめからしていなかった。彼女は真剣に作品と向き合っていたのだ。


「解答になっているか分からないですけど、人によるんじゃないでしょうか。絶望に耐えきれずに折れてしまう人もいるし、絶望に立ち向かう希望を持つ人もいる。絶望というきっかけでどんな色に染まるかは、その人次第だと思います」

「絶望がきっかけで、希望が生まれるのは面白いわ。私は赤黒い染色で死を表現したつもりだったのだけれど、残された白色から希望を見いだすこともできるのね。良いお答えね」


 思ったことを言っただけだったが、彼女は私の答えた内容を広げてくれた。ドレスを見ると、わずかに残った白い色は今もなお美しい。赤黒い死に侵食されても絶えず純白を見せる姿は、白一色だったころよりも綺麗に思える。絶望に苛まれても希望が満ちているという解釈は好きだった。


「ねえ、あなた。よかったら私のドレスを着てみない?」

「え、私にドレスは似合いませんよ。それにベトベトのドレスはちょっと……」

「いくら私でも、染料の乾いてないドレスを着せる気はないわ。それに普段から暗いものばかり作っているわけではないの。あなたに似合うドレスもあるはずよ。例えばあのドレスとか演劇部に頼まれた舞台衣装で……」


 壁際に飾られたドレスを指さした彼女の動きが停止した。ハッとしたように目を大きく見開く。彼女の視線の先では、壁掛け時計が秒針を動かしていた。


「大変、もう時間が過ぎているわ。演劇部に届けないと」


 慌ててトルソーに駆け寄ると、彼女は衣装の背中側を触りはじめた。焦って手元がおぼつかないのか、なかなかトルソーから脱がすことができていない。真面目な顔つきをしていた彼女が急に慌てる姿は、なんとも可愛らしかった。


「あのー、私もお手伝いましょうか?」

「ええ。手伝ってもらえると嬉しいわ。えーっと……」


 そういえば自己紹介がまだだったなと気が付き、私は名前を口に出した。


佐久間志世さくましよです。志のある世の中で志世と言います」

「良いお名前ね。私は幽城棗子ゆうきなつめこ。植物の棗に子どもの子。幽城は幽霊の城と書くわ。よろしくね、志世さん」


 ふふふ、と口元に手を当てて彼女は笑う。見とれてしまうほど、上品な笑い方だった。綺麗な瞳で、変人で、真剣な人で、感情がコロコロ変わる。そのつかみどころのなさは、まるで幽霊のようで。


 私はすでに、どこか棗子さまに魅了されていた。

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