第10話 癒やしの時間

 濃いコーヒーにミルクをたっぷり入れたカフェオレでサンドイッチを流し込む。あまり減っていないお腹でも栄養補給は重要なことだ。これからのことを想像すると食べられるときに食べておかないと調子を崩してしまいそうだった。これからのことのせいで食欲がなくなっているとも言えるが。


「……あまり、元気がないね」


 小さいが染み渡るようなその声は、耳奥に浸透していった。横を向くと、澄み切った湖を思わせる碧の瞳と目が合った。心配そうなその目。


「そうだね。少しだけど疲れている、かもしれない」


 その目に嘘はつけなかった。嘘をつきたくない自分もいた。


「また、秘密のこと?」


「うん」


 しかし、秘密裏に進められている特別任務のことまではたとえマリーと言えども話すわけにはいかなかった。カールステッド家の一員でカロリナが世話をしていると言っても、マリーの立場はまだ、ただの学院の生徒なのだ。


「そっか」


 マリーはそう呟くように言うと、サンドイッチを包んでいた紙袋を丁寧に折り畳んで机の上に置いた。そして、ふわっと立ち上がると、十数台並んだグランドピアノの一番後ろ──僕達がいつも使っている──の椅子へと座った。


「私の演奏、どうだった?」


 上蓋を上げて、手近にある楽譜をめくりながらマリーはためらいがちに質問した。


「マリーの音だってすぐわかったよ。あの柔らかな流水の音はマリーぐらいにしか出せない」


 楽譜を譜面台に載せると、ブロンドの髪の毛を耳にかける。


「ありがとう」


 はにかむように言うと、かじかんだ指先を擦り合わせた。


 目をつむり、深く息を吸い、細く長く吐き出す。十指を鍵盤の上に置くと、目を開き演奏が始まった。


 聞こえるか聞こえないかくらいの極小の音から始まった旋律は、緩やかな川面の流れのように僕の耳へと伝ってくる。繰り返される短いセンテンスが心地好く、僕はいつの間にか目を閉ざしていた。


 微かに頬に触れるそれはマリーの指先のようで。頭を撫でるそれはマリーの手の平のようで。遠退く意識が、危うく手に持ったサンドイッチを落としそうになった。


 目を開くと、一筋の川がマリーのピアノから流れてきていた。灯りに照らされてキラキラと輝くそれはぐるりと僕の体を一周すると、空気に溶けるように霧散していく。


 最後の小さな一音がしーんと鳴り響く。


 マリーは顔を上げて僕を見つめた。自然と顔がほころぶ。


「どう、これで、少しは癒せ──」


「ブラボー!!!!」


 勢いよくドアが開かれ、拍手が起こった。せっかく余韻に浸っていたのを台無しにした人物は見るまでもなく、エド、だ。


「どこからか素敵な演奏が聞こえてきたと思ったらここだったか!」


「うるさい。せっかく人が短い休息を過ごしていたのに急に出てくるなよ」


「いやいやいやいや、マリー様の演奏を独り占めするなんてハルトごときにはもったいない」


 エドはニカッと白い歯を見せて笑った。黙っていればそれなりに見える笑顔なんだが。


「それにお前にはカロリナ様がいるじゃねえか。毎日特訓と言う名のご褒美を受けている」


 頭の中がピンク色なのが全てを台無しにしている。


「それにしてもヤバかったよな、さっきの!」


 近くにあった椅子に座りながら興奮したようにエドはしゃべる。それを横目に見ながら、マリーは蓋を戻すと、椅子から降りて僕の真横にちょこんと座った。


「……さっきのって何だよ」


「何ってクラーラ王女のことだよ! 金糸のような艶やかな髪に透き通った青い瞳、可愛らしくもキリリとした可憐な花のようなそのお顔! あまりにも美しすぎて一瞬演奏忘れてしまったぜ! 女神とはまさにあのことだ!」


 確かに神々しいオーラを放っていたが……。実験対象を見るようなあの目付きを思い出すと、また寒気がしてくる。


「ハルトはもっと間近でお顔を拝見できたんだろ? まったく、羨ましすぎるぜ」


 大げさに溜め息をつくエド。こっちはその必死さにため息が出る。マリーなんてもはや軽蔑の眼差しでエドを見ているというのに。


「っておい! 2人ともなんでそんな微妙な顔してんだよ!」


「そりゃあ──」


 マリーと顔を見合わせる。何も言いたくないとでも言いたげな表情をされたので、仕方なくエドに向き直ってマリーの言葉を代弁した。


「女性の話ばかりするからさ」


 小さく、しかし何度もうなずくマリー。


「いやいやいやいや、男ってみんなそうだろ! 可愛い女性、綺麗な女性とくれば見とれて、声を掛けたくなってしまう! それが男が男であるゆえんと言うもの!! ハルトだってマリー様にカロリナ様にルイスにだって囲まれて内心ウハウハだぜ、きっと! 羨ましい!!」


 確かにある意味で強力な女性陣に囲まれているわけだが。ある意味でそれが悩みの種でもあるわけで。ウハウハとはほど遠い現状にある──なんてことを言ってもエドにはきっと通じないだろう。


「それにだ! オレの知らない間に活躍しやがって! 今じゃ学院中の女子生徒の噂の的になってるんだぜ!!」


「そうなのか?」


 それは初耳だった。マリーも首をかしげてるじゃないか。


「なんだって!? 知らないのか!?」


 狭い額をパチンと手のひらで叩くエド。


「二人とも、もっと周りを見た方がいいぜ! ハルトはあの一件以来、あることないこと情報が駆け巡ってるし、マリー様もその美声に注目が集まっている。元々かなり可愛いしな。今はマリー様がしゃべれるようになったのに、あまりにも二人が一緒にいるから恋人同士なんじゃないかと言う話まで出てきてるんだぞ!」


 マリーの顔が真っ赤になった。


「もちろん、そういう話が出されたときにはオレがきちんと否定しているんだが、とにかくハルトはその一挙手一投足が見られているということに自覚を持った方がいいぞ」


「……なるほど、稀人ハルト、ヴェルヴ使いのハルト、戦神ハルト、か」


「なんだそれ?」


「いや」


 簡素な布袋に残ったゴミを入れて、立ち上がる。そろそろ時間だ。


「牢屋にいた老人が僕に向かって言った言葉だ。エドの言うとおり、気をつけないと勝手に戦神にまつり上げられてしまう」


 これ以上任務が増えるのは、さすがに息切れしてしまう。


「……もう、行っちゃうの?」


 ポツリと出された言葉。不安そうなその瞳。


「次の仕事があるから。また明日、マリー」


「うん、また……明日」


 その笑顔が現状での一番の癒しのような気がした。

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