第6話 双子の姫君
ドアが開けられる。背筋をピンと伸ばして立っていたのは、グレイヘアをオールバックにまとめたニコライ執事長だった。
「わかったわ。それじゃ、ゆっくりしていって」
カロリナは椅子を引いて立ち上がった。長い髪が波打つ。
「今日も会議ですか? 忙しないことで」
「そうね。だけど、これも務めだから」
そう言うとカロリナはくるりと背を向けて扉に向かった。その少し疲れたような背中に声をかける。
「カロリーナ様にはもっと私のご指導をしていただかないと困りますゆえ、あまりご無理なさらぬよう」
カロリナはふわりとした笑顔で振り返った。
「では、覚悟しとくのね。今度ゆっくりと
カロリナが部屋からいなくなり、手持ちぶさたになった僕は部屋を見回した。カロリナの部屋には何度か入ったことがあるが、じっくりと眺めるのは初めてかもしれない。
一応、カロリナの執事なので出入りは自由なのだが、女性の部屋に男が一人でいるのはさすがに気が引ける。ともあれ、せっかくの機会。カロリナの言葉に甘えることにしよう。
あちこちに華麗な装飾が施された城の中とは違って、ブラウン系統の壁と床に白天井と簡素な作りだ。
部屋の
窓に接するテーブルから月の光でぼんやりと浮かび上がる湖と校舎が見える。僕はここから見える景色が好きだ。僕の部屋からも大きな湖畔は望めるが、校舎までは見えない。
カロリナの執事と言ってもやることはほとんどない。唯一学校でカロリナが用事がある場合には付き添っているが、それもしょっちゅうあるわけではないし、カロリナと執事長がきちっとしているので出番がないのだ。
グランドピアノの鍵盤の上に置かれた紫色の布をつまみ上げ、一音弾いてみる。ポーンと張りのある高い音が部屋に響き、くぐもるように消えていった。
カロリナは時間のあるときはよくここに座り、演奏している姿を見かける。もちろん、魔法は発動させないが、技巧を尽くした正確な演奏は、圧巻の一言だ。
僕もあれだけ弾ければ自信を持ってマリーの側にいられるのだが。いや、あそこまでじゃなくてもいい。せめてカロリナの10分の1くらいの実力があれば。
「まったく……」
ともう
そう言えばまだカロリナの楽譜を見たことはない。
楽譜は人によってまっさらな人もいれば、技術的なコメントや注意点、はては落書きまでいろいろ書き込む人もあり、その人の音楽への取り組み方がわかるバロメーターみたいなものらしい。
適当に楽譜を取り出してペラペラと
「ん?」
楽譜の間に何かが挟まっていた。見ると、鉛筆で描かれた女性のラフ画だ。
「カロリナ?」
いや、ものすごく似てはいるが、雰囲気が幾分か柔らかい。それに今よりも幼く見える。これは……。
「それはエルサ様ですな」
「!」
唐突に執事長が現れた。
「ちょっと、いきなり現れないでくださいよ!」
「すみません。つい気配を消してしまっていたもので」
さきほどとは打って変わって和やかに笑う執事長。つい気配を消す芸当ができたり、かと思ったら僕の背中にカエルを入れたりする悪戯をするなど、いまいちつかみにくい性格の持ち主だ。
「どれ、私にも見せていただいていいかな?」
執事長にラフ画を手渡すと、なだらかな眉がさらに丸くなった。
「お懐かしい。この方はエルサ・カールステッド様。カロリナ様の双子の妹君じゃ」
「どうりでよく似ていると思いました。でも、こっちのエルサ様の方が表情が穏やかな気がします」
執事長は本当におかしそうに笑った。
「エルサ様は優しい方じゃったから」
その言い方に違和感を覚えた。過去形ということは今はもういないのか。
「エルサ様はかつての戦争の際、不意に出ていかれたのだ。今はどこで何をしているやら」
「何やら複雑な事情がありそうですね」
「そうじゃな」
執事長はそっとその絵を楽譜に戻した。
「なんでもないふうを装ってはいるが、一番心を痛めているのはカロリナ様なのじゃ」
それは要するに今見たことをカロリナには伝えるなと言うこと。そして、要らぬ詮索をするなということでもある。
僕は「はい」とだけ返事をして、楽譜を本棚に戻した。
「では、私はこれで失礼するとしようかの。まあ、あれだ。いろいろ大変だと思うが、私は執事としての君は評価している。カロリナ様も最近はつとに楽しそうじゃしな」
「楽しそうなのはきっと、いじめがいがある執事を見つけたからじゃないですかね。でも、ともあれありがとうございます」
「ほっほっほ、まだまだ若いの」
「? 執事長、それはどういう──」
「なんでもない。ただの戯言じゃよ」
そう言って、踵を返してゆったりとした歩調で部屋を出ていこうとする執事長は扉の前ではたと止まった。
「……そう言えば。マリー様がお話できなくなったのもエルサ様がいなくなった頃じゃったような気がするのぉ」
「なんですって? そうすると、もしかして──」
マリーの喋れない原因は過去に?
カロリナの部屋を出て自室に戻る。本当は学生寮にいるエドと話をしたかったが、さすがに今夜は遅すぎた。
防音用の重い扉を開けると、ベッドに体を投げ出した。洗い立ての石鹸の香りが鼻孔を刺激し少しだけ疲れを癒してくれる。
やっぱり、どんな部屋でも自室は落ち着く。
元々中程度の客室である僕の部屋は一人で過ごすにはもったいないくらい広く、誰かわからないお偉いさんの人物画がいくつも飾られた真っ赤な壁に、目に鮮やかな深紅のテーブル、イス、そしてシャンデリアととてもリラックスできるようなつくりではなかった。
さすがに絵画だけは取り外してもらったが、それ以外のものは残り、慣れるまで目がチカチカしてしょうがなかった。
暗がりの中、テーブルの上に置いたコップに入れた水で喉を潤すと、カーテンを開けた。
カロリナの部屋から見たのとはまた違う湖畔の景色が月明かりに照らされる。
水が人の心を落ち着かせるのはどこの世界においても同じらしい。
前に、ヴァイオリン奏者が湖のそばで目に見える粒の大きさの雨を降らせ虹を出現させていたが、多くの生徒がわざとその水を浴びたり、その光景をうっとりと眺めたりと楽しんでいる様子を見たことがある。
湖面は静かに揺れていた。今頃、マリーもこの景色を見ているだろうか。それとも、趣味の読書かあるいは楽器の演奏に励んでいるかもしれない。
学校に入学してから今までマリーと一緒にいて、どういう人間なのか、趣味嗜好、性格、考え方などはだいぶつかめてきていた。
知らないことといえば、さっきカロリナの部屋で偶然聞いた過去の出来事くらいだ。
マリーの過去だけではない。この城がこの国がこの世界がどんな歴史を歩んできたのか、考えてみればまだ何も知らない。
カロリナのこともマリーのこともまだ何も知らないんだ。そして、僕自身のことについても。
また、ため息が出た。その息を封じ込めるようにもう一度水を飲む。下手したら頭痛もしそうだ。
漫画とかアニメとか小説とか、普通、異世界と言えば楽しくてワクワクドキドキな大冒険が待っているんじゃないのか?
僕がやっていることと言えば、元の世界で日々仕事に追われる社会人のように頭を悩ませストレスを溜めることばかりだ。
「とはいえ、楽しいけど」
全力で何かに取り組むことなんておそらく久し振りだ。全力で悩むことも、全力で怒ることも、全力で誰かを助けようと思うことも。
そう思うとこの世界も悪くない。いや、この世界の方がいいかもしれない。
とにもかくにも、もう寝よう。明日も朝早いのだから。僕はそんなことを思いながら、そっとカーテンを閉めた。
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