第29話 僕が女になった世界線
貴史の腕の中は温かかった。自然にまぶたが下がり始める。貴史の匂いが、わたしを包む。
「おい、起きてるのか?」
「むー。限界。もう帰る⋯⋯」
「ちょっと待て、大切な話があるんだ」
まだ眠気がさめない。何を言ってるのか、頭の中で通訳しようと思うんだけど、耳の中、右から左。
お願いだから、寝させてほしい。少しでいい。
「無防備だな、お前。
だからあんな目に遭うんだ。俺がどれくらい後悔したのか、わからないだろう?」
「何の話?」
まぶたを擦る。ちゃんと聞かないといけない系?
「だから、俺はたまたま与えられた機会に、お前の――お前の命を」
まったく要領の得ない話で、何を言ってるのかイミフ。これだけ一緒にいて、まだわからないなんて、恋人になるのも先が思いやられる⋯⋯。
「今からする話は、信じられないかもしれないけど、神様に聞いた話だ。口外したらいけなかったんだけど、俺は賭けに勝ったらしく、話していいことになった。だから教える。
――あの日の事故のこと、どれくらい覚えてる?」
それは自分の中では殆どどうでもいいことになっていた。いきなり性別が変わるのは困るけど。
少しずつ、少しずつ、女になる前のこと、女になってからの日常、そういうことの全てが曖昧になってきていた。
事故の日⋯⋯。
信号は確かに青だった。でも、大きなトラックが思い切りその重量を乗せて――信号は青だったのに。
「青だった」
貴史は僕を見ると、少し悲しそうな顔をした。自分がちっぽけな存在に思える。
貴史はベッドから毛布をずるずる引っ張ると僕を包んだ。
「そうだ、青だった」
事故に遭って、僕は死んだ。神様もそんなことを言ってた。
あの日は鏑木たちと一緒で、寄り道はマックかサイゼか迷っていた。僕たちははしゃいでいて、そう、みんなで楽しくて。
「それから――」
「ごめん、足が痺れた。話を続けよう」
「それから僕は。僕は?」
貴史の目がふっと微笑むように見えて、その底には悲しさがあった。
僕は床に座った。毛布は貴史と同じくらい温かく、その温もりはもう、僕を眠りに誘わなかった。
「お前、何を考えたんだよ? どうしてお前が助けようとした俺の手を払って、俺を――力いっぱい押したんだ?」
両手を見た。
女になったこの、小さな手。この手が貴史の大きな身体を――僕を助けようと飛び込んだ貴史の手を、拒んだ。全力で突き飛ばした。
あ、死ぬのかも。
でもいいや、最後にこれまでずっと守ってくれた貴史を守れたから。お返しだ。
バイバイ、貴史。バイバイ、純。
「お前が今、どう考えてるかわかんないけど」
「おう、走馬灯なら見たぞ」
「そうじゃなくて、今度同じことが起きたら、迷わず俺を蹴飛ばせ。俺は上手に受け身も取れるし、お前よりずっと運動してるんだ。わかるだろう?」
これは、怒られてるってヤツだ。
お叱りだ。死んだのは僕なのに。
「申し訳ないが、俺の身体はお前がちょっと押してもどうにもならなくて、俺はお前を抱きかかえるように、トラックの前に飛び出した。万が一でもお前を助けられるように」
「あのさ、あの時ちっとも意味なかった? 僕の腕力、弱すぎる?」
「多分な。今度、一緒にジムでも行くか」
「それで? 僕たちどうなったの?」
「もちろん、ふたりとも死んだよ。今更だけど、本当に間抜けだ。お前を守れなくて済まなかった。そういう意味ではあの男に任せた方が良かったかもしれないな。でも俺は、結局、トラックにどストライクで死んだ。俺は身体に衝撃を感じた」
神様から漠然と聞いた話は全然違って、頭は混乱して、はぁーっとベッドに背中を預けた。
でもちょっと待て。貴史も死んだ!? え? じゃあここにいる貴史は?
「俺は俺だ。本当なら、俺は死なない運命だったらしい。お前をトラックの向こう側に突き飛ばして、お前は助かったんだよ。俺の力不足だ。
それで神様がちょっと目を閉じた時にあったことだから、神様はそれを修正しようと、俺を生き返らせると言ったんだ。俺の魂は生きてたらしいから
――ただ、俺はそんなことは望んでいなかったんだ。事故や生や死を考えた時、浮かぶのはお前の顔だ。
お前のいない世界に、どこに俺の場所がある?」
神様に頼んだんだ『純も生き返らせてほしい』と。
「僕は貴史が生きてればそれで良かった。神様が生き返らせてくれるって言った時、また始めから人生をはじめるのかとばかり。まさか女になるなんて思わなかったよ」
「お前の魂は傷ついていたんだよ。本来、死ぬはずだったから。でもさ、俺のワガママを聞いてもらって、俺はお前に生き返ってほしかったんだ。ごめん、こんな形で。性別までは選べなかった」
「⋯⋯気にしなくていいよ。僕、女になる。努力する。ずっと傍にいるし、女の子ならそれも叶うじゃん?」
とにかく眠気が⋯⋯。身体が重くなっていく。重力に逆らえない。
そう思ったら今度はふわっと浮上した感じがした。
◇
――戻っておいでよ、純。全部、知ったんでしょう? それなら『女の子』のことは、少しずつお姉様が教えてあげるからさァ。
不純な天使が僕に手を伸ばした。
「もう少しマシな姉ちゃんになってよ⋯⋯天使エンジョイ勢じゃなくてさ」
うるさい、と天使は大きな声を上げて、キョロキョロした。
その手を掴むか考える。女になって、この生を受け入れるのか。それとも、転生の輪に⋯⋯。
◇
僕は歯を磨いていた。
姉ちゃんに遊ばれて、少し伸びた髪をハーフアップにされる。まるで人形のように、遊ばれている。
玄関で腕時計を見ながら慌ててローファーを履く。いつ履いてもローファーは足に少し当たる。
でもそんな僕を貴史は「似合う」と言うから⋯⋯少しの我慢だ。
「純!」
もう行こうとした時、姉ちゃんが声をかけてくる。
貴史は時間に正確だ。遅れたくない。
でも自転車は飛ばさないルールだから、早く出るしかない。
「何? 急いでるんだけど!」
「うーん。⋯⋯貴史くんに謝っておいて」
そんな訳のわからないことを言って引き留めるとは!
さっと「忘れ物」とポケットに何か入れられる。いつかみたいに。いつだ?
いささか急いで自転車を走らせる。
待ち合わせ場所は、コンビニの前。
⋯⋯やっぱり先に来てる。くぅー、今日も負けた!
「おう。なんだ、具合悪いんじゃないのか? 顔が赤い」
遠慮なしに人のおでこに触ってくる。いやいや、貴史の手の方がしっかり温かい。
「熱なんてないよ」
「みたいだな、良かった」
「貴史こそ、唇かさかさ」
あ、多分、ポケットにあるのはリップだ。姉ちゃん、気が利く。
「お前の唇じゃないだろう? 俺は別にいいよ。⋯⋯良くないかな、がさがさしたら純が」
「やめれ! 朝からそういう話じゃないから! ⋯⋯今度一緒に男性も使えるリップ、買いに行こう」
目が、気のせいじゃなければ笑った。
自転車のスタンドを上げて、バネが跳ね上がる音がふたつ、重なって聞こえる。
貴史は何も言わない。さぁーっと風を切るように走り出す。わたしも髪のほつれを気にしながら、自転車を走らせる。
背中を見てる。
ずっと小さい子供の頃から見ている背中。触れなくても、見てるだけで安心する。
なんでかな?
一緒に長くいすぎたからかもしれない。
◇
貴史は隣の席。
席替えの時、僕の隣に当たった人と交換してもらったらしい⋯⋯。そこまでしなくても、と思う。
またしても、さゆりんたちに指をさして笑われて、いい話のネタにされた。
芽依ちゃんだけが「もうやめなよぉ」と言ってくれる。さゆりんと真佑はホントにこういう時、意地が悪い。
隣の席だからって特に何かあるわけじゃない。
話さえ、振ってこない。
休み時間に貴史の友だち、鏑木くんが僕をからかう。
「あー、貴史はいいよな。茅ヶ崎さんみたいなかわいい幼馴染がいてさ」
「苗字じゃなくて、名前で呼んでくれていいよ」
「え? マジで? 俺、貴史に殺されたりしない?」
「本人がいいって言ってるんだからさァ、もっとフランクで」
「じゃあ――純ちゃん!」
バンッと机を両手で叩いて貴史は突然、立ち上がった。僕も鏑木くんもドン引き!
「いや、購買に飲み物を買いに行こうと思ったんだ。たまたま勢いがつきすぎた。驚かせたな、悪い」
「じゃあ、僕も行くよ」
「あ、いってらっしゃい」
やれやれ鏑木はかわいそうにドン引きだった。だってあれは僕だってマジで引いたし。
貴史が振り向いて、僕を急かすから、小走りに並ぶ。
手を握られる――。
意外に、嫉妬深いというか。そこが、うれしくもあるんだけど。
言葉にしない、気持ち。僕にはそれで伝わるから、それでいい。
「うわ、ごめん!」
「あッ!」
廊下を貴史と並んで歩いてた僕の肩が、誰かと強く当たる。身体の軽い僕は衝撃で後ろに倒れそうになる。
貴史がさっと支えてくれて、尻もちつく前で止まる。
ぶつかってきた人――それはチャラいと評判の、学年の有名人、櫻井だった。
線の細い細面のキレイな顔、背が高いけど、貴史とは違うタイプ。上に真っ直ぐ伸びたって感じ。
白くて長い指が差し出される。
不思議なことに、僕はその手を取るのが当たり前のことのように感じ、手を⋯⋯。
すとん、と転んだ幼稚園児を立たせるように何てこともなく、僕は廊下に立っていた。
「ごめんね、痛いところない?」
「大丈夫⋯⋯櫻井くんは、大丈夫?」
何故か声が、終わりの方で震えた。それは彼に伝わってしまっただろうか?
「茅ヶ崎さんだよね? 僕は大丈夫、どこも痛くない。⋯⋯東堂くん、ごめん、時間取らせて」
「いや、こっちこそ、純はそそっかしいから」
と言いつつ、貴史はムスッと不機嫌だとわかる顔をしていた。僕は何事もなかった自分のスカートのお尻を叩いた。
「⋯⋯ごめんね」
どこかで聞いたフレーズ。頭の中でリフレインする。
「ううん、僕こそごめん」
ごめん。ずっと伝えたかったのかもしれない。
どうして? 初めて話したのに。
「じゃあ、ボク、今日こそ次の授業、遅れたらヤバいんだ」
走り去る後ろ姿を、その背中を見つめる。
薄い肩、細い身体、長い腕。
すべて、よく知っているような――。
僕は、何気なく自分の身体を見下ろした。当たり前のように胸がまず目に入り、スカートの裾、上履き。
「どうした? 時間なくなる」
「あー、貴史は何にする?」
「さぁ、コーヒーかな? 純は何にする? 後ろで待ってろよ」
「僕は――僕は今日の気分はイチゴかな」
いつも通りじゃないか、と面白くなさそうに貴史はそう言った。好きな色は、ピンクだ。
◇
「あのさ、変な話なんだけど⋯⋯」
僕はおどおど、口ごもった。
だって、こんな話するなんて、自意識過剰みたいじゃないか?
でもずっとその話を聞いてから、頭の中がぐるぐるしてる。そのことしか、考えられないくらいに。
貴史は、話しかけてきたのに続きを言わない僕を怪訝な目で見た。
「あのさ、あのね、さゆりんに聞いたんだけど」
横断歩道は青。貴史は少し、前を歩く。古風な女性のように、僕はいつも半歩後ろ。
そもそも、身体が小さいから歩幅が違う。
「何の話⋯⋯」
会話の途中、どこかで悲鳴が聞こえる。
自分の身に起こることが、予測できた瞬間、僕は固まった。あれは――。
貴史が、僕を助けようとそのまま直進してくるトラックの前に出て、たまたま繋いでなかったその手で僕を――ダメだ、貴史まで轢かれたら、僕は死んでからもきっと、ずっと、後悔する。
大切なんだ。
思いっきりよく、目を閉じて貴史を突っぱねる。
魂が引き裂かれる痛みを感じる。
ああ、ごめんね貴史。ずっとずっと一緒にいてあげられなくて。
魂が、引き裂かれる気がした――!
◇
瞬間、目を閉じた。
何が起こったのわからなかった。
気持ちを落ち着けて、そうだ、貴史!
「貴史!!」
貴史は僕のすぐ後ろにいて、這いつくばった姿勢のまま、笑った。心からうれしそうに⋯⋯。
トラックは僕たちを轢き損ね、大きくハンドルを切って止まった。ガードレールはひしゃげ、幸い、怪我人はいないみたいだ。
誰かが素早く警察に電話をかけてる。
周りの人はすぐには立ち去らず、動揺していた。
「よかった、純が無事で」
パンパン、と軽く制服を叩いて貴史は起き上がると僕の様子を見に、近づいた。
僕はその時、貴史にすごい力で突き飛ばされたんだ。それは、女の子に対する、とは思えない程すごい力だった。
「⋯⋯バカ、貴史が轢かれちゃうところだったじゃん」
「俺はいいんだ。俺は運が良くて、簡単に轢かれたりしないんだよ。それよりお前、擦りむいたり、どこか強く打たなかったか?」
「⋯⋯わかんない、なんか膝が立たない」
「びっくりしたよな。あ、やっぱり擦りむいたじやわないか」
貴史はゆっくり、僕をいたわるようにやさしく、抱きしめた。
◇
僕らは一応念のため、と病院に運ばれた。
僕は簡単な応急処置を受けた。足を少し捻ったらしい。でも歩けないほどじゃなく、すぐに治るらしい。貴史にいたってはほとんど傷もなかった。
「アンタたち! 驚かせないでよ、救急車なんてさ!」
姉ちゃんだった。姉ちゃんが病院にいちばん近いところにいたってわけだ。
姉ちゃんの髪はオレンジ色で、長く伸ばした髪にシャギーが入ってる。夏の気分らしい。
自由奔放な人だ。でもやさしいところもある。
「ごめん、驚かせて」
「貴史くんがいなかったらアンタ、死んでたんだよ! わかってんの!?」
「綾姉、それはいいんだ。純が無事だったから」
まァ、そうなんだけどさ、と姉ちゃんは警察の話を聞きにどこかに去った。
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