第3話 世はこともなし
旅の途中で立ち寄った海を思い出していました。
魔竜に辿り着く前に色々と疲れが重なっていた中で、休息も必要だろうと海沿いの街に滞在したのです。
青い海、青い髪の私。白い砂浜、白い肌の私。ジャックの大胸筋と大腿四頭筋。
海水浴客は私たちに見とれていましたね。旅と回復魔法が体型を引き締めたのでしょう。「トリーゴ村の突然変異種『群青の豚』」と呼ばれたテレネーは死んだのです。私を「おいミュータント」と呼んでいたいじめっ子は、脳みそを四割増しにしてあげて以降、「鍬を振るのだ。鍬を振るのだ」としか喋れなくなって畑を耕し続けているそうですし。
あの砂浜でやったバーベキューの味は今でも思い出せます。海の魚や貝は山中ではなく、潮風を感じながら食べてこそ。あれは磯の匂いに鼻が慣れて、魚の生臭さが気にならなくなるから美味しくなるのだと思いました。
せっかくの休みだというのに自らの筋肉を
あ、きたきた。痛い痛い痛い痛い。
記憶の旅を腹痛で引き戻されると、私は聖都の大聖堂で祈りを捧げていました。こんな厳粛で退屈な
神父のむにゃむにゃとした祈りの言葉を聞き流し、お腹に圧をかけないように祈りの姿勢を保ち、お痛みに耐えます。
とにかく目の前の波が引くのを待つのです、テレネー。ここが踏ん張りどころ、いえ踏ん張ってはいけませんでした。
痛みというのは受け入れ、水に流すのです。ああ水に流すのはそういう意味では無く。出した後とか前とかそういう話ではないのです。
そうこうしているうちに波が引きました。ほっとしますが、徐々に波の間隔が短くなってきたように思います。次は耐えられないかもしれない。当然のようにトイレへ行く他の参列者もいません。
最終手段である、自分の脳みそを倍量にして恥と苦しみの主体である人格を破壊し、主に近付いたクソ袋として生涯を精神病院で暮すという策が現実味を帯びてきました。
ですがそれはあくまで最後の最期です。ただ二時間座りにきて、みすみす名誉を貶めにきたわけではありません。ベリルとセッテ、そしてジャックが動いてくれているならば。
「では、拝領の儀を執り行う」
老いた神父が厳かに言い、パレードにいた孤児院の子供たちがパンとワインを持って大聖堂に入ってきました。
よくきました! 救世主たちよ!
あと少し、もう少し耐えるのです。聖女テレネー。つらいことはこれまで何度もあった。私の肛門括約筋はまだ我慢できるはずです。
子供たちが参列者へパンとワインを配り始めました。主の肉体と血を模したこれらを領食する儀式がつつがなく進みます。
神父に倣って、小さな器に移されたワインを口に含み、パンを一口かじります。その時、これまでで一番強烈な腹痛の波がきました。ぎりぎりと痛むお腹の痛みに耐え、パンを咀嚼するふりをして奥歯をぎりぎりと噛み締めます。
まだか。
まだか――。
まだか――――!
「シスター。トイレ……」
少女の小さい囁き声は、静粛な大聖堂の中、さざ波のように広がりました。
計画通り。
彼女たちはよく日の照っていた広場に長時間いたのです。私の差し入れは大層喜ばれたことでしょう。セッテに段取りをしてもらいつつ、ジャックにアルコールを飛ばしてもらい、ベリルに孤児院の子供たちのもとまで何往復と運ばせた、あの残り物のワインは。
子供たち全員の喉を潤すには十分な量でしたから、彼女たちはたらふく飲み、そしてひとりくらいは、ミサの最中にトイレへ行きたくなるだろうと。
頬が緩むのを自覚しました。
「少し我慢してね」
と孤児院を預かるシスターの遠慮がちな声も聞こえました。
この厳粛な儀式で保守的な教会の聖職者と貴族共は声を上げず、表情ひとつ変えません。少女の声は聞こえていたはずなのにね。でも、私にははっきり分かります。誰か行けよ。責任者は誰だ。済ませてからこいよ。そんな意味のないことを考えているのが、お偉いさんの表情から。
あの広場でもそうです。誰もパレードを止めてしまった少女を助けようとしなかった。この聖なる都はその程度なのです。まったくもってくだらない。
ゆっくりと、立ち上がります。視線が集まるのが分かりました。役目を終えて大聖堂の隅にいる子供たちの方へ進みます。ミサの、いわば主役が立ち去ろうとしているのに誰も咎めません。
暴れる魔竜がいるにも関わらず、今のように主に跪いて、助けがくるのを口を開けて待っている連中が統治する国です。聖女が現れたら使い捨てにするつもりなのに、しっかりと責任を被せて頼り切ってしまう弱い国なのです。
国の均衡と平和が一人の人間にかかっているだなんて不健康です。その人を聖女に祭り上げ、人として生きられなくする国などに価値はない。トイレを我慢しなくてはならない国など滅べばいい。
でも、そうですね。私に頼り切るというのなら、せっかくですから好き勝手やらせてもらいます。
「案内しますよ」
少女に手を差し伸べると、小さな右手で握り返してくれました。顔を見ると、あの広場で腕を治した娘です。
「いいの?」
「もちろん。皆も一緒に行きましょう」
子供たちを先導して廊下を歩き、目的の場所に着きました。さすが聖都が誇る大聖堂、広くて清潔です。我先にと個室の扉を開け、
「聖女様」
「なんですか?」
「私も聖女様みたいになれるかなあ」
「なれるよ」
「ほんとに?」
「本当に」
少女のきれいな瞳が輝きました。
「あなたは私を二度も救ったのですから」
そう言い残し、個室の扉を閉めます。
――♰――
聖都には、今しばらく平和な時間が流れます。
主は天にいまし、聖女は地にいまし。
すべて、世はこともなし。
次の日。
私は昼飯を喰い過ぎた。
聖女テレネーは昼飯を喰い過ぎた 山田擦過傷 @BloodsuckerShow
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