第2話


 菊田はなんどロカイダルという名を聞いてもそれがなにものであるか見当がつかなかった。まして殺したなどという覚えのあるはずもなく、男の話はまったく理のない言いがかりだという結論以外はどうしても導けなかった。

 そこでとうとう菊田は、

「きみはなにか誤解しているにちがいない」と諭すようにいった。

 男は菊田よりひとまわりは若いように見えたし、菊田はいま勤めている会社で管理職として両手に余る部下を抱え、ときには若い者たちへ人生指南的な助言を与えることさえあったから、明らかに世慣れていないようすの男をまえに、このような口調になるのも無理からぬところだった。

 ところが男はそんな年長者のまやかしを聞くのはもう十分だというかの如くおおきく両手をまえで交叉させ、菊田の話をさえぎった。

「あるいは誤解もあるのでしょう。だからなんだというのです?」と男は挑戦的な声でいった。「ああ、わかりましたよ、ぼくが若いと見てたやすく組み伏せられるとあなたは思われているのですね? そこにぼくが気づかないと思われているのならば、ずいぶん見くびられたものです。いいえ、そのことであなたを責めるわけではないのです、年齢としを経たひとにはそれだけの知恵がおありなのでしょうし、ぼくたちがいつかその恩恵に浴すことがないとは言いきれませんからね。いえどうぞ、謙遜などなさらないでください、本心からでない謙遜などたくさんです。……どうです? ぼくだってまんざら目が利かない愚か者でもないでしょう? だからロカイダルのことをあなたが有耶無耶にしようとされても、お生憎さま、その手には乗りませんよ。さあ、いまやぼくたちはおなじ土俵のうえに立ちましたね? 共通の理解のうえに、冷静に話すことができるというわけです。ではいまこそ肚を割って話し合おうじゃありませんか、ロカイダルがなぜ殺されねばならなかったのかを」

 ところが菊田はそのロカイダルが何者であるのか、いまだにまったくわかっていないのだ。それを知ろうとするなら男に尋くほか道はなさそうだが、同時にこの男から実のある情報を聞きだすことはほとんど不可能だという予感がうかんで、絶望的な思いに囚われるのだった。


 そうしているうちにも無数の人びとがふたりをやり過ごしてつぎつぎ改札の向こう側へと消えていった。そのなかには菊田の隣人もまじっているのかも知れないという考えが彼を憂鬱にさせた。菊田自身は隣り近所にいかなる人物が住んでいるのかなど興味もないため隣人の顔をはっきり覚えてはいないが、彼の妻は子育てを円滑に進めるためにも近所づきあいを密にしており、そうして生まれた縁から菊田の顔を見知ることになった人がどこにいないとも限らなかった。隣人たちのひとりにでもいまの様子を知られたならば、菊田の評判に永遠に取り返しのつかないきずがつくにちがいなかった。

 それはまた、彼の勤め先にも芳しからぬ風評を巻き起こす重大リスクであると思われた。くらく面倒な未来に思いを致した拍子に菊田は今日、朝から取り組まなければならない仕事があったことを思い出した。

 五日ほどまえ彼が複数の関係部門宛に発信した依頼書の内容が不適切ではないかという苦情が彼の上司に届いたために、釈明するよう指示を昨夕受けていたのだ。苦情を申し立てた相手とは以前から詰まらぬ行き違いを発端に小競り合いがつづいており、今回も菊田の依頼文のとるに足らぬ瑕瑾を目ざとく見つけだすと、得意顔でご注進に及んだというわけだった。むろん相手の男に業務を改善しようなどいう意図があるわけもなく、敵をやりこめ溜飲を下げるのが主たる目的なのである。

 なにより菊田の気がふさぐのは、このことにより彼の社内での立場がわるくなったところで相手の男に特段の利益があるわけでもないことだった。逆に菊田の反論が運よく認められたとしても、その結果相手の男は評判を落とすことになろうが、だからといって菊田になんらの益をももたらしはしない。非生産的としかいいようのないこの確執ははやく終息させるべきだと以前から菊田は考えていた。だが相手からの攻撃は執拗に繰り返され、であれば彼としても反撃しないわけにはいかず、じつにくだらないと厭になりながらもその応酬は、もう一年ばかりもつづいていたのだった。

 いや、きみは大人の度量を示し、ただ守りに徹していればよかったのだとひとはいうかも知れない。だがその忍辱は彼のような人間にはいたく精神を損耗するものなのであって、しかも相手はそれで攻撃の手をゆるめるどころか嵩にかかってますます鋭い一撃をくわえてくるおそれも少なしとせず、つまるところ最善の道とはとうてい思えなかった。

 だから今回の事案においても釈明とはただ自らの正当性を説明するだけに終わるものであってはならず、返す刀で相手の言い分の不明を糾弾し、却って相手を窮地に追い詰めるものでなければならなかった。この朝、始業前から彼の時間と精力とはすべてそのために注ぎ込まれるはずだったのだ。

 すでに多くの時間がむだになってしまった――菊田は苛立ちというより悲しみをもってその事実を噛みしめた。過ぎてしまった時間をいまから取り戻そうとはむりな注文であってそれは彼も十分理解してはいるのだが、だからといって焦燥と後悔とが慰撫されるわけもなかった。


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