第3話


 もはや一刻の猶予もなく男を押しのけ会社へ向かうときであると、菊田は思った。そのために多少のトラブルが起こったとしても仕方ないと考えた。そうなれば力と体格に勝る菊田の側に分があるだろう。ただしあまりに激しくぶつかり合えば、相手が怪我してしまうこともないとはいいきれない。たとえ相手の側に非があるのだとしても――むろんこの場合はまさに非は男の側にあるのだと菊田は信じていた――万が一相手に怪我を負わせてしまったとしたら、やっかいな訴訟を背負いこむリスクがあるのだと、菊田は考え思いとどまった。

 そう考えなおしたとたんにまた、たとえなにもかもを台無しにすることになろうといっそ清々するとさえ感情はたかぶるのだが、むろんすぐその感情は押さえこまれた。彼のふたりの子供はいま小学生であり、このさきなににどれだけの資金が必要となるか知れず、つまりすくなくともあと十年は安定的な稼ぎの保証された現職を手放すわけにはいかなかった。

「そこをどいてくれないか」

 菊田はけっきょく穏便な方法でこの場を去る道を試みることにした。これまでも反社会的勢力や寄生虫のような人たち、あるいは前世紀の学生運動の亡霊のような人たちの相手をしなければならない機会は業務上少なからずあって、たいていは論理的な会話など成立しなかったその手の経験から得た知見と技術を以てすれば、目の前の男など難なくかわすことができると考えたのだ。

「逃げるのですか?」と男はいった。

 それは挑発的に聞こえて神経に障ったが、菊田はあくまで無視して、そのまま立ち去ろうとした。

「逃げるのですね、いい年齢としをして、責任もとらずに」と男は声をまた高くした。「でも果たしてあなたは逃げきれるのでしょうか。ぼくはそうは思いません、あなたは外見上はたしかに逃げることができたかもしれない、でも心は、あなたの本心はけっして逃げおおせることはないのです。あなたにだって良心はあるでしょうからね。ええ、良心があれば、疚しく感じないわけがないのです、あるはずがない、ロカイダルがぼくのたいせつな伴侶だと知ってなお一ミリも心を動かさずいられるなどということが……」

 菊田はいまや、なんといわれようと足を止めぬ決意で改札へ向け歩きだしていた。背中に男の声が届いても彼の自信をもった足どりが揺らぐことはなかった。

 すると彼のななめ前方の柱にもたれて、だれかを待っているのか制服姿の少女の立つ姿が目に入った。ことさら目についたのは、彼女も菊田へ目を向けていたからだ。あらためてよく見ようと視線を向けると少女は視線をそらしたのだがその目の動きは罪びとのようにぎごちなかった。それで菊田は少女がずっと彼と男とのやりとりに注目していたのだと気づいた。そのような視線があろうとは想定されて当然のことであって、むしろいままで気にならなかったのがふしぎなくらいだった。

 菊田は視線を彼女から、改札と隣り合って口をひらいているちいさな喫茶店へと移した。するとそこではひとり朝食をとる大学生ぐらいの青年と、ふたりづれの中年の女が座って、やはり揃ってこちらを見ていたのだった。青年はすぐに内気な視線を宙にさまよわせたが、女たちはわるびれるどころかますますこちらに注目して、なにがおかしいのか笑顔になりさえするので、しまいには菊田の方が根負けするように視線をふたりから外した。

 すると視線をそらしたさきでこんどは駅員が、本来果たすべき業務をそっちのけにして――菊田にはそう見えた――彼に注目していた、しかも駅員はまるで菊田を非難するかのような目をするのだ。

 非難はどうやら、朝のラッシュアワー時に衆人環視のもと妙ないざこざを起こして、ほんらい羊のようであるべき乗客たちのあいだの秩序を乱したことに向けられているようだった。しかもかれらは、いざこざを解決しないまま立ち去ろうとする菊田にこそ非難を集中しているらしいのだった。

 菊田は不本意だった。自分は難癖をつけられている側であって自ら積極的にこの男と話し合いたい事情はかけらほども存在せず、この面倒な場面を現出している責任は一に相手の男に負わせるべきであって、翻って菊田自身は一刻もはやくこの茶番を終わらせ羊の群れに戻りたいと熱望しさえしているのだ。自らの正当性を道行く人びとに大声で言明したいという誘惑に菊田は駆られた。

 だがもしそれを実行すれば、却って人びとの失笑を買うことだろう。事態を改善するどころか破滅を身近に呼び寄せる愚かな行為であるにちがいなく、彼の理性はむしろ黙って通りすぎるに如かず、と告げていた。


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