ロカイダル

久里 琳

第1話


 改札の手前でとつぜん肩をたたいてきた男に、菊田は覚えがなかった。ただし、なんの魅力もない地味な顔だちがかえって特徴といえば特徴といえるかもしれないその男は、たとえ仕事かなにかで話したことがあったりあるいはむかし同じクラスにいた旧友だったとしても印象に残るとはとうてい思えず、したがって菊田としては彼とまったく無関係であるとは断定せずいったん保留するのが妥当と思われた。なんの非もない市民が通り魔的に事件に巻き込まれるニュースが街にあふれる当世、見知らぬ男から呼び止められたところで無視して通り過ぎるのが常であるのに、そのとき男を振りきらず立ち止まったのはそうした迷いが菊田に生じたがためだ。

 男は眼鏡の奥の目をまともに菊田へ向けることなくうつむき加減で、

「ぼくのロカイダルを殺したでしょう?」といった。

 男がなにかを憚るように小声で、しかも口早に言ったためにはじめ菊田は自分が聞きちがえたのかと疑った。その表情を男は想定済みであったかのごとく、両手で相手をなだめるしぐさを示して、

「いやあなたのお考えはもっともです」とすこし声をたかくしていった。「ロカイダルを殺したところでそれがどうしたとおっしゃるんでしょう? たしかにロカイダルなどあなたにとってはとるに足らぬものでしょうし、他の多くの方にとってもおそらくそうなのでしょう。また法に照らしても動物愛護法がロカイダルに関して一切触れていない以上、ロカイダル殺しが罪に問われるものではないであろうとは、ぼくも認めざるを得ません。この点ぼくは法に欠陥ありとの意見を提出する用意のないわけではないのだが、ここでその議論は無用ということも認めます。しかしながらぼくは、あなたのしたことがどれほどぼくに衝撃を与えたか、あなたにも認識していただかないでは済ませられないのです」

 話しながら男はちらちら目を上げて菊田の表情をうかがい、彼の話を菊田がどのように受けとめたか探るかのようだった。菊田の側では、こんどの言葉は耳に明瞭に届きはしたのだが、かといって意味を理解できたとはいいがたく、どのように答えるのが正解なのかはなおさら判らなかった。

 すくなくともまともに相手をすることが得策でないことは確かだと思われ、だがいちど立ち止まってしまった以上いまとなってはうまく脱け出す手立ても見つからず、ただなにか反応しなければという義務感のみに動かされて、菊田は曖昧な笑みをうかべ肩をすくめた。

 すると「触らないでくださいっ」と男は急に声を高くしたのだが、もちろん菊田に、男に触れようなどという意図はなかった。

「やはりあなたは事態ことをかるく見ておられる。あまりにかるく見ておられるようだ。だがいいですか、いかにあなたがロカイダルをくだらないものと思われたとしても、ぼくにとってはかけがえのない伴侶だったのだ。ぼくはこのさきずっと、ロカイダルをうしなったふかい悲しみとともに生きていかなければならない。そしてあなたを生涯うらみつづけるでしょう」


 このまま反駁せず男ばかりに喋らせておいてよいのだろうかと菊田は心中自問したが、かといって返すべき適切な言葉は浮かばなかった。もしかしたらなにも言葉を発することなくただ彼を押しのけ、だまって改札をくぐるのが正しい道だったのかもしれない。たしかに菊田がそう決心しさえすれば、男は抵抗できなかっただろう。

 男はやや小太りではあるものの筋肉よりは脂肪で身をよろっているとおぼしく、まともに力と力でぶつかるならば、学生時代はラグビー部に所属しいまもジョギングを毎週つづけている菊田の敵ではないはずだった。脂肪でまるまった男の体型が与える印象はふくよかというよりむしろ神経質で、その口調からおそらくは小心でもあると推測できるわけだが、その点からも菊田がもし決然と彼を振りきったならば、あえて押しとどめる意思を彼は示し得ないだろうと思われた。

 それにしても朝の通勤通学どきに、これほど多くの人の流れのなかで男ふたりが対峙しなにやら話しているのは通行人たちに邪魔にもなれば奇異の思いもいだかれようはずなのに、なんでもないように人びとがただ通り過ぎていくのが菊田には合点がいかなかった。

 人びとは、菊田と男とが立っている場の直前まではふつうに歩いてくるのだが、あとすこしでぶつかろうという段になってはじめてすっと斜めに体を入れ一切ふたりに触れることなく話の邪魔することもなく、微風とともに通りすぎていくのだった。その際だれもふたりと目を合わせはしなかった。止まる者などいるはずない改札前の雑踏の、異物であるにちがいないふたりを人びとが認識していないとは思われないし事実そうだからこそよけるのも可能なのだが、ひとりとしてその認識を明らさまにしようとする者はいなかった。

 すべては自然で、たとえば菊田と男がここでとつぜん取っ組み合いを始めたとしても、まわりの人びとはまるでなにごともないかのように通りすぎるのではないかとさえ思われた。


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