羽井つかさ

 数匹の蛾と干からびたヤモリの死骸が、後藤陽太の鞄の中に落ちていく。


「はい完了ー」


 ギャハハハ、というけたたましい笑い声。何がそんなにおかしいのだろうか。


「でもあいつ、こんくらいじゃ絶対しゃべんねーぜ」

「マジで感情死んでるだろ。つーか、そもそも生きてんの?」


 ひでーと言う声に続いて、もう一度笑いが起こる。「んで」一人の男子生徒が口をひらいた。


「これ、どうする?」


 彼が指す、これ、というのは、さっきまで蛾とヤモリがのっていた、数学のプリントのことだった。床に落ちていたものなので、誰かの靴跡がついている。


「捨てたらいーじゃん」

「バーカ、そんなんゴミ箱がかわいそうだろ」

「『ゴミ箱が』ねえ」


 気持ちの悪いクスクス声の中、派手な化粧の女子生徒が、さも良いことを思いついたかのように手を叩いた。


「せっかくだからさ、ゴトーにお手紙書いてあげよーよ」


 そう言って無駄にでかい筆箱からマーカーを取り出し、プリントに『死ね』と書き殴る。他の連中も便乗して『ブス』『ショーガイシャ』『きもい』と、およそ知性とはかけ離れた言葉で白い紙を埋め尽くしていく。どれも形の崩れた、稚拙な字だった。


 くだらない。この場にいる意味がわからなくなって、俺は教室をあとにした。


***


 予備校を出て家に向かっていると、突然月明かりが消えて空が暗くなった。何かと思って見上げると、額に一粒の水滴が落ちる。遠くから聞こえてきたざああっという音はどんどん近づいて来ていた。


「最っ悪……」


 スマホの画面をつけて、わずかな白い明かりを頼りに走り出す。大粒の雨はすぐに体に叩きつけてきた。人気のない暗い道に、水たまりを蹴る音だけがバシャバシャと響く。スニーカーから染み込んできた雨水で、靴下はあっという間に冷たくなった。


 やっとひさしのある場所を見つけたときには、頭から爪先まで全身ずぶぬれになっていた。あがった息を整える。タオルか何かを探そうと鞄をおろしかけると、持っていたスマホが手からすべり落ちた。


「あっ」


 俺がそう声をもらしてすぐに、ゴン、とスマホが地面に当たる不吉な音がする。その拍子に画面の光が一瞬地面のあたりを照らし出し、同時に俺と誰かの声が重なった。


「「うわっ」」


 慌てて拾おうとするが、画面が再び真っ暗になってしまったらしく、何も見えない。中腰で地面に目をこらしていると、頭上から声がした。


「はい」


 聞いた瞬間、息が止まった。それほどまでに、綺麗な声だった。まるで山を流れる小川のように澄んだその声は、激しい嵐の中でも不思議とよく聞こえた。


 雨にぬれた冷たいプラスチックのケースが、ピタッと右手の甲に触れる。声の主は俺のスマホを拾ってくれたようだった。


「…あ、りがとうございます」


 突然のことに、変なところで言葉が途切れる。受け取るときに微かに触れた小さな手は、氷のように冷たかった。


 スマホの電源ボタンを押す。……つかない。もう一度押してみる。つかない。何度ボタンを連打してみても、画面は暗いままだった。


「嘘だろ。……壊れた」


 雨風の中、相手にどれだけ俺の呟きが聞こえたかはわからない。だけど情けなくもれた俺の声に、暗闇の向こうで相手がふっと笑うような気配がした。


「……すごい嵐ですね」


 雨のあいだをくぐって、右側から落ち着いたトーンのソプラノが聞こえた。どぎまぎしながら相槌を打つ。


「…っすね」

「なんか、ちょっと怖かったので、人が増えて安心しました」


 大人っぽい声が照れているように響いて、少し幼く聞こえた。


「…俺も、ひとりじゃなくて、ちょっと安心しました」


 ひゅうん、と風が雨を巻き上げる音がした。いつもより速い自分の鼓動が、耳の近くでやけに大きく鳴っていた。相手がまた口をひらいた。


「…体、拭かないと冷えませんか」


 ……そういえば。スマホに気を取られて忘れていた。


「あー…タオルが、暗くて見つかりそうにないので、諦めます」

「…携帯つけたら、明るくなりませんか」

「さっきので壊れました」


 あぁ、というかわいらしい呟きと少しの沈黙のあとに、ご愁傷様です、と神妙な声音で言われた。


「…あの」

「はい」

「タオル…わたしのでよかったら、使い、ます?」

「……え」

「あ、ごめんなさい。さっきわたしも使っちゃったやつなので、嫌だとは思うんですけど。……でも、風邪ひいちゃわないかな、って」


 裏側は使ってないです。焦ったように付け加えられた。こんなに雨が降り続いている中では、服が乾くわけもなく、夏だとはいえ、確かにこのままでは体が冷えそうだ。けれどだからといって、初対面の女の人にタオルを借りるのは、いかんせん申し訳ない——し、多少は緊張する。


「いや、俺なんかが使うわけには。汗もかいてるし」


 しばらく迷ってからそう答えると、


「そんなの、全然気にしないです。それよりも、体が冷えることのほうが」


 謎の剣幕で返された。……数秒間、考える。


「……じゃ、あ、お言葉に、甘えて」


 少しの間のあとに、ふわりとしたものが手に触れた。


「はい」

「ありがとうございます」


 裏側、裏側、と思いながら四つ折りになっていたらしいタオルを広げて、そっと顔にあてる。柔軟剤のいい香りがして、それから、俺は何をしているんだと慌てて離した。雫を滴らせている髪と、袖から出ている両腕にもそろそろとタオルをあてていく。友達に借りたタオルなら、何も考えずに頭だろうが足だろうが平気で使えるが、さすがにそういうわけにはいかない。というか、できない。


「——助かりました。ありがとうございます。……洗って、返しますね」

「わたし、持って帰って洗うんで、大丈夫ですよ」

「や、さすがに、そこまでしてもらうと申し訳ないです」

「…そう、ですか?」


 じゃあ。小さく呟くのが聞こえた。思いがけずもう一度会う口実ができたことに、内心ガッツポーズをする。


 雨の音が会話の空白を埋めていく。なんとなく気恥ずかしくなって、闇の向こうの雨雲を見上げていると、突然、空にピカッと稲妻がはしって、一瞬あたりが昼間のように明るく照らされた。


「学生、ですか?」


 なんとなく大学生くらいかな、と思い、聞いてみる。


「あ、そうです。今高二で」

「高二?」


 これには驚いた。俺もです、と言うと相手も驚いたようで、偶然ですね、と楽しげな声が返ってきた。


「学校は?」

「沢谷高校っていうとこです」

「えっ、俺も沢谷です」

「ええっ?!…じゃあ、同じ学校の、同じ学年、てことですか」

「そうみたい、ですね」

「ほんとに偶然ですね……」

「お名前、は?」


 俺のクラスに、こんな声の女子はいない。——加えて言えば、学年にこんな際立って綺麗な声の女子がいるという噂も、聞いたことがなかった。いれば、目立ちそうなものなのに。


「えっと、——」


 言葉の先は、雷の落ちる派手な音でかき消されてしまった。


「「わあっ」」


 声がそろい、右腕に小柄な誰かがぶつかってくる。お互いにもう一度わっと叫んで、反対側に飛びのいた。


「「すみません……!」」


 またしても重なった声に、俺は思わずふき出した。向こう側からもくすくすと声がおこっている。ひとしきり笑ったあとに、ふうと息をつく音が聞こえた。


「すみません。わたし、雷が大の苦手で」

「そうなんですか。……俺は、全然平気ですよ」

「嘘。さっき思いっきり叫んでたくせに」


 ふふっという笑い声が、小鳥のさえずりのようにはねた。なんの話をしていたんだっけ。そうだ、名前が雷のせいで聞こえなくて——聞き直そうとして、思いとどまった。……やっぱり、やめておこう。


「なんか俺ら、似てますね」

「ですね。……実は」

「はい」

「わたしもさっき、同じように携帯落として」

「落として」

「壊しました」

「……なんで真似するんですか」

「わたしのほうが先ですよ」


 嵐の夜はスマホを壊しやすいらしい。覚えておこう。俺と彼女にかぎった話かもしれないが。


「……この状況って、なんだか『あらしのよるに』みたいですね」


 ぽつりと声がして、聞き返す。


「『あらしのよるに』?」

「小さいときに読んだ、絵本のタイトルなんです。ヤギとオオカミが、嵐の夜に、同じ場所で雨宿りをしていて。真っ暗で姿が見えない中、おしゃべりをするんです」

「まさに今の俺らじゃないすか」

「面白いのは、ヤギもオオカミも、お互いに相手のことを自分と同じ動物だと思って話しているところなんです。本当は『食べる』と『食べられる』の関係にある敵どうしなのに」

「なるほど」

「……わたし、あの話好きです」


 相手はしみじみと言った。過去を懐かしむ声は耳に染み込んでくるような響きで、不思議な魅力があった。胸がどきりとする。『あらしのよるに』。スマホが直ったら調べてみよう。


「……それって」


 不意に気づいた。


「もしかしたら、俺らも敵どうしかもしれないってことですか」

「そうかもしれないですね」

「敵……います?」

「…どうでしょう」


 楽しげにはぐらかされたが、むやみに敵をつくるタイプとは思えない。いや、その印象が間違っているかもしれないっていう話だけど。


「いますか?敵」


 今度は俺がいたずらっぽく聞かれる。


「……しいて言うなら、母親ですかね」

「あははっ」


 穏やかな声。やっぱり、人と敵対することなんてなさそうだった。


 ちょっと真剣に考えてみる。同じ学校の、同じ学年の、話したことのない女子。そして、こんなに綺麗な声をしているのに、まったく噂にならない人。隣にいる人物が誰だったら、俺はいちばん驚くだろうか。


 唐突に、山木真白、という名前を思い出した。


 隣のクラスにいる、いわゆる不登校だ。今年に入ってからは一度も教室に来たことがないらしく、俺はその顔も、声も知らない。——もしか、したら。


 聞いてみようか、と思い、いや、違っていたら悪いと思い直す。……だけど。


 結局好奇心が勝ってしまい、俺は少し、探りを入れることにした。


「今度、合唱コンあるじゃないですか」

「はい」

「うちのクラス、『深緑』っていう曲を歌うんですけど——」

「『砂漠のきりん』の曲ですよね?!」

「…え、はい」


 予想外にも、ワントーン高くなった声に遮られてしまった。……彼女が山木真白なら、自分のクラスでどの曲を歌うか、知らないかもしれないと思い、聞いてみて反応を見るつもりだったのだが。


「わたし、あのバンドがいちばん好きなんです!」

「そう、なんですか。……俺も好きですよ、砂漠のきりん」

「本当ですか?!」

「『十一時に君を待つ』とかが特に」

「いいですよね十一時!けっこうマニアックじゃないですか」

「一応、ライブとかも行ったことあるんで」


 念のために言っておくが、これは決して、彼女と仲良くなるためについた嘘なんかではない。砂漠のきりんは本当に俺がいちばんよく聞くバンドで、俺のスマホに入っているのは彼らの曲ばかりだ。実は合唱コンの自由曲に『深緑』を提案したのも俺だったりする。まさか通るとは思わなかったけど。


 ライブかー、全然当たんないんですよね…とぼやいた彼女は、今度はバンドの魅力について、楽しそうに語り始めた。あいまあいまに相槌を打ちながら、彼女の声に耳を傾ける。のびやかなソプラノは興奮でトーンが上がっても甲高くなることはなく、依然として耳に心地良い。弾んだ口調からは、彼女がバンドに向ける情熱が伝わってきて、姿は見えずともかわいいと思わずにはいられなかった。


「なんだかわたしたち、気が合いますね」


 突然話を振られて、慌てて答える。


「同じこと思ってました」


 嘘ではない。本当に、初対面の相手とこんなに話が弾むとは思わなかった。


「嬉しいです。こんなに話が合う人、はじめてかも。……あ」


 雨やんでる、と言われて気づく。いつのまにか、雨も風もやみ、あたりにはただ、夜の静けさが広がっていた。


「……帰らなきゃ」


 彼女のもらした声には、心なしか、寂しさがにじんでいるような気がした。俺の願望かもしれない。だけど名残惜しいのは俺も同じで。


 そこで思い出した。


「あ、あの、タオル」

「はい?」

「返したいんですけど、今度、また会えませんか」


 んんー…と返ってきた声はどうやら渋っているようで、あ、これは断られるかも、と身構える。


「別に、返さなくていいですよ?」


 やっぱり。


「いや、そういうわけには」

「たいしたものじゃないですし」


 やばい、いけると思ったのに。どうしよう、他に何か、彼女に会う理由はないか。他に——。


 ……なんで俺、こんなに必死になってる?


「……俺が」


 もう会えないかもしれない。


「あなたに会いたいから。……だから、返させて、ください」


 それは嫌だと思った。あんな嵐だったというのに、それも忘れて話していた。楽しかった。面白かった。素敵な人だと思った。——彼女と話せるのが、今夜だけだなんて。声だけじゃなくて、顔も、好きなものも、嫌いなものも、もっと、知りたいと思った。


「……わたし、かわいくないですよ」

「そんなの、どうでもいいです」

「幻滅するかも」

「しません。……俺は、今日、俺が話したあなたに、会いたいと思ったんです。今見えていないものなんて、本当に、どうだっていい」


 沈黙。あと一押しか。


「……ヤギとオオカミは、どうなるんですか」

「えっ」

「『あらしのよるに』のヤギとオオカミは、嵐のあと、どうなるんですか」


 一拍おいたあと、彼女はゆっくりと口をひらいた。


「……ヤギとオオカミは、相手と気が合うことがわかって、もう一度会う約束をします。そこで、お互いが敵だと知りますが、それでも、その壁を乗り越えて、親友になるんです」

「じゃあ」


 暗闇の中ではわからないだろう。だけど俺は、精いっぱい目じりを下げて、できるかぎりの柔らかい笑顔で言った。


「じゃあ、俺らもきっと、大丈夫ですよ」


 俺がきっと「親友」以上の関係を望んでいることは、まだ言わないけど。


 はあっと観念したようなため息が聞こえたあと、闇を隔てた向こうで、確かに彼女が笑った。


「合言葉は、『あらしのよるに』ですよ」


***


 「あらしのよるに」出会った彼女とは、今日の三時に待ち合わせている。場所は学校の近くの公園。この前の嵐が嘘のように、頭上にはどこまでも青い空が続いていた。公園が近づいてくるにつれ、自分の鼓動が速くなっていくのがわかる。……そういえば、山木真白は、あのあとも学校に姿を現すことはなかった。


 遠くに見え始めた公園に、人影があった。小柄で、くせ毛で、大きな眼鏡をかけていて——。公園のベンチに座っている相手がはっきりと見えて、思わず足を止めた。面倒くさい奴に会ってしまった。後藤陽太だ。


 後藤は休日だというのに制服を着て、ぼーっと空を見上げていた。何してるんだ、あいつ。気にとめるほどの相手でもないが、できるだけ人のいなさそうなところを選んで、ここで待ち合わせたのに。……まあいい。


 後藤の他に人はいない。時刻は二時五十二分。あと少しで彼女も来るだろう。そう考えながら、後藤のいるベンチの横を通りすぎる。なんとなく後藤がこっちを見ているような気がした。


 そのとき、


「魚崎くん」


 後ろから名前を呼ばれた。澄んだ声だった。あのとき、雨風を通り抜けて俺の耳に届いた、透き通った小川のような声が、俺の名前を呼んだ。そしてハッと気づく。


 ——なんで、俺の名前を。あのとき名乗らなかったのは彼女だけではない。それなのに俺の名前を知っているなんて、そんなことあるわけないのに。


 声がしたほうを振り向く。だが、後藤が相変わらずベンチに座っている以外には、誰もいない。


 後藤が、俺を見つめていた。


 ——まさか。


 後藤が口をひらいた。眼鏡の向こうから、まっすぐに俺を見すえて。


「あらしの、よるに」


 あの夜聞いたソプラノが、後藤の口からこぼれ落ちた。


***


 俺が後藤陽太をいじめ始めたのは、二年になってすぐのことだった。中学の頃からなんとなくガラの悪い連中と過ごすことが多く、高校に入ってからの俺はいわゆる「不良」だった。人目を盗んで煙草を吸ったこともあるし、気分によっては適当な奴らに喧嘩を売ることだってあった。


 だが進級すると、そう好き勝手もしていられない事態になった。共に医者である俺の両親は、俺に有名国立大学を受験させるつもりでいる。一方、俺は中学時代から、そんな両親に日頃の行いがばれないよう、上手く立ち回るようにしていた。あんまり目立つことをして、それが成績に響いてしまうようではまずい。今後のことを考えて、俺はしばらくおとなしくしていることにした。


 ところが、俺は自分が思っていたよりも、それまでの生活に慣れきっていたようだった。煙草は吸えないし、喧嘩はできないしで、単調な日常で溜まったストレスを発散する場所がない。そんなとき、目に留まったのが後藤陽太だ。


 後藤は同じクラスになる前から有名人だった。いわく、高校に入学してから、一度も口をきいたことがないらしい。クラスメイトに話しかけられようと、授業中教師にあてられようとそれは変わらず、返事は首を縦に振るか横に振るか、はたまた戸惑ったようにかしげるか。それ以外は、相手の目を覗き込むように見つめながら黙っている。


 ちょうどいいと思った。つるんでいた奴らを少し煽って、最初は無意味に絡むところから始めた。俺らが後藤に目をつけていることをクラスの連中に見せつけて、それから軽い暴力をぶつけていく。これ見よがしに足を引っかけみても、わざとらしくぶつかってみても、後藤は噂通りうめき声すらあげることはなかった。教師や親に告げ口する様子もない。ストレス発散には、本当にうってつけだった。


 それからはもっと大胆になった。ほとんど毎日人気のないところに呼び出して、腹やなんかの外からは見えないところを殴った。直接見たことはないが、あの頃の後藤の体には、一体いくつ痣があったかわからない。それでも、あいつは相変わらず貝のように口をつぐんだままだった。


 そんなある日のことだ。放課後、昇降口の近くを通りかかると、なにやら数名が後藤の靴箱のあたりをたむろしている。何かと思って見ていると、そのうちのひとりと目が合った。


「あっ、魚崎!」


 親しげに呼びかけてきたそいつは、一年のときから付き合いのある奴で、俺が後藤に絡むと言ったときも、いちばん積極的な反応を示した奴だった。


「何してんの?」

「ん?いやあ、ゴトーさ、マジでしゃべんねーじゃん」


 そう言って靴箱の中を顎で示す。そこには、油性ペンで真っ黒に落書きされた後藤の上履きがあった。書かれているのは、幼稚園児が思いつくようなレベルの罵詈雑言ばかりだ。


「どこまでやったらしゃべるかなーと」


 思って。にやにやと俺を見上げてくる。その瞬間、俺の中で何かがすっと冷えた。

俺が後藤に目をつけたのは、単にあいつが日頃の鬱憤を晴らすのにちょうどよかったからだ。俺にとっての後藤はそのための道具であり、それ以上でも以下でもない。


 なのにこいつらは、俺に便乗して勝手に後藤をそれ以下と決めつけ、更にはくだらないゲーム感覚で妙なことを始めている。こんな幼稚な奴らと同等に思われるのはまっぴらだ。加えて言えば、ここまでするとさすがに教師たちの目に留まる。このへんで手を引いておこう。


 ヒートアップした奴らのゲームは、どうやってか教師の目をくぐり抜けて、今もまだ続いている。だが俺は傍観しているだけで、その日以来、後藤には手を出していない。


***


 どうぞ、と彼女の声で言った後藤は、自分の横を軽く叩いた。まだ状況が飲み込めないながらも、おずおずと腰をおろす。


 何とも言えない空気の中、しばらくは沈黙が続いた。青い空の中を、白い雲がゆっくりと流れていく。鳥のさえずりが聞こえた。


「……魚崎くん」


 後藤が口をひらいた。出てきたソプラノは、心なしか震えていた。


「……砂漠のきりん、好きなの?」

「……あぁ」

「そっ、か……」


 また、沈黙。心の中では山のように疑問が渦巻いているのに、どれひとつとして言葉にはならない。できない。


 俺は今、どんな顔をしてここにいればいいのだろうか。彼女に言いたかったこと。後藤に聞きたかったこと。彼女に言わなければならなかったこと。……後藤に言わなければならない、はずのこと。


 何か、言わないと。気まずい空気に耐えかねて、俺は乾いた口をこじあけた。


「お前……なんでしゃべらないんだ?」


 あの夜の彼女と後藤が同一人物だというのなら。もし、そうだというのなら、後藤は全く話すことが不可能というわけではないのだろう。では、なぜいつも頑なに口をとざしているのだろうか。それは、当初から俺が後藤に抱いていた、最大の疑問だった。


「……」


 後藤は答えない。無視されるかもしれない、と思った。さっきまでは普通に話していたけれど、それだって奇跡みたいなもので、相手はとにかくあの後藤陽太に違いないのだ。


「……」

「……」

「……わたし」


 と、後藤は言った。


「声、こんなで……しゃべり方も、ずっと、こんなだから」


 声変わりは、きてるんだけど。たどたどしい話し方で、なんとなく察せられた。女子のように高い声に、男らしさを感じさせない話し方。しかし実際に話しているのは、小柄だが女子と見間違うことはない、冴えない男。後藤の中学時代が穏やかでなかったことは容易に想像できた。


 だからだったのだ。学校で、後藤が一言も言葉を発さなかったのは。中学であったのと同じ出来事が、高校では起こらないように。


 そこで、思い出す。


「タオル」

「……ん?」

「この前、借りたタオル。……返すわ」

「…ああ。持ってきてくれたんだ」


 返ってくる彼女の——後藤の声は細い。ウエストポーチをあけて、借りたときと同じように四つ折りにしたタオルを取り出す。そしてよく見れば、それがこの前、クラスの奴らによって泥水に浸されていた後藤のタオルであることに、気づいてしまう。


「ありがとう。……助かった」


 絞りだした声は、相手につられてか、妙に細く、うわずってしまっていて。


「……うん」


 受け取ったあいつは、なんだか泣きそうな顔をしていて、でもそう頷いて、微笑んだ。眼鏡の奥の瞳が細くなり、目じりがぎゅっと下がる。帰り際の彼女も、きっと、こんな風に笑っていた。そう思うと、目の前にいるのは少し前まで何の躊躇いもなく殴っていたクラスの弾き者なのに、眼鏡の向こうの大きな瞳と、あの透き通った声が発される薄い唇を見ていると、心臓がどくどくと鼓動を速めた。


「……わたし、帰るね」


 後藤が、ゆっくりと立ち上がる。——行ってしまう。


 気がつくと、その手首をつかんでいた。後藤が驚いたように俺を見る。


 後藤の話し方が何を意味するのか、俺は知らない。中学生だったときに何があったのかも、俺は知らない。好きなものも、嫌いなものも、まだほとんど知らないし、何より、これから自分がどんな顔をして後藤に会えばいいのかを、俺は、知らない。


 だからこそ——知りたい。


 後藤が固まっている。自分がつかんでいる手首が小さく震えているのを感じて、俺はバッと手を離した。


「また……会えるか?」


 数秒の間ののち、何とか発した俺の声は、ひどく小さかった。


「……会えるよ」


 後藤の声は、震えていない。その一言に、なんだか救われた気がしたのは一瞬だけだった。


「学校で、ね」


 眼鏡越しの瞳が、まっすぐに俺の目を射る。その真意に気づかない振りをすることは、できない。


 俺の手をはなれたところで行われる、ゲーム。いや、ゲームなんかではなかった。初めから。それを止められる人がいるとすれば、それはきっと俺で。でもそれがそんなに簡単でないだろうことは、後藤も、俺も、わかっていて。だけど、どういう意図でか、後藤はおそらく、俺に、最初で最後のチャンスを与えている。それで俺の罪が晴れるとは、微塵も思わないけれど。


 俺に、やれるだろうか。


 彼女は——後藤陽太は、笑っていた。泣き出しそうな、全てを諦めているような、そんな笑顔だった。眼鏡越しに俺を見つめる瞳は、あの夜の闇の何十倍も黒かった。


 それで、俺はようやく理解した。


 やれるかどうかじゃない。


 やらなければならないのだ、と。

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