3 忘れていた感覚

「間もなく、三番乗り場に五時五十六分発、急行大阪行きが八両で参ります」


僕と慧伍の旅の始まりは明け方の駅のホームだった。僕らは旅の荷物を入れた鞄を背負って、電車が来るのを待っていた。ホームに滑り込んできた電車は、幸い朝の早い時間帯だったので車内に人はほとんどおらず、いつもは座れない座席に堂々と座ることができた。電車が動き出すと旅が始まった実感が徐々に湧いてきて、僕は高揚感でいっぱいになり、不思議といつもは気に留めないはずの車窓を流れる景色がいつものそれではないように見えた。

そのまま十数分電車に揺られていると、僕の学校の最寄り駅に到着したので、反射的に降りようとしてしまった。立ち上がった僕に対して

「何してんだよ、ここじゃないだろ?」

「あ、そうだった。ごめん」

彼が言った、「ここじゃない」という言葉を心の中で反芻していると、何だか「お前の進むべき道はここじゃない」と言われているような気がして、妙に心が躍った。

「何はしゃいでんだよ。朝から元気だな」

呆れて笑いながら慧伍は言う。しかし、実際嬉しいものは嬉しいのだ。

「だって、嬉しいし!」

「分かったから静かにしろよ。俺は寝るから、着いたら起こしてくれ」

そう言って目を瞑ると、数分経たないうちに寝息を立て始めた。

話し相手がいなくなったので、僕は朝日の差し込む車窓を眺めながら、今日の行程を確認することにした。


 まず、この電車に乗ったまま終点の大阪駅で降りる。ホームを変えて、次は新快速に乗り換えて敦賀まで行き、そこからまた二回乗り換えて、正午過ぎに金沢に到着する。金沢で昼食を摂った後、十四時ごろにローカル線に乗り二時間弱かけ、イカロスの塔の麓にある和倉温泉に到着する。その日は既に予約している温泉宿で一泊し、次の日に塔に向かうのだ。

 

 かなりの長旅になる予感がしたが、むしろまだ見ぬ景色に心を躍らせていた。

やがて車窓の景色から緑が少しずつ減っていき、代わりにビルが所狭しと立ち並ぶようになってきた時

「次は終点大阪、大阪。新快速をご利用のお客様は、向かい側ホームにお並びください」

「慧伍、着いたぞ」

車掌が終点のアナウンスをする。僕は隣で眠っている彼を起こして、電車を降りた。



「あ、そうだ。イカロスの塔がどうやってできたか、知ってるか?」

金沢駅で電車を降りた後、慧伍に勧められたハントンライス屋で昼食を食べていた時、何かを思い出したように慧伍が聞いてきた。

「いや、全然知らない」

僕がイカロスの塔について知っている情報と言えば、現在世界で最も高い建物で、そこからパラシュートを持って飛び降りるのが流行っているということくらいで、それ以上詳しくは知らなかった。

「あれは、かつてここ金沢に住んでいたとある若い建築家が自由の象徴として、その生涯をかけて作った建物なんだ。彼の名前は……忘れたけど、今でも頂上に建てられた石碑には彼の名前が刻まれている」

白身フライをかじりながら彼は言う。それを聞いて合点がいった。

「だから、イカロスの塔なのか……」

チキンライスをかきこみながら、僕は言う。あまりに美味だったため、すぐに食べ終えてしまった。

「…美味しかった」

「だろ? やっぱり金沢に来たらこれを食べないとな」

慧伍がガイドのようなことを言ったので、僕は一つ疑問に思った。

「さっきから思っていたんだけど、君は金沢に来たことがあるの? 何かやたら詳しいし」

「ああ、勿論。……けど、かなり久しぶりだな。駅前もあの頃とは見違えるほど変わっていて驚いた」

「なんだ、そうなのか」

彼がそう言って、ようやく納得がいったので、食べ終わった僕らは店を出て、再び電車に乗り、再び目的地を目指し始めた。


「次は和倉温泉、和倉温泉」


十七時頃に電車を降りて駅の改札を抜けると、うっすらと茜を帯び始めた空に、塔がこれまでで最も大きく見えた。

「…凄い。これが、この旅の……終着点」

圧巻だった。追い求めたものはレールを進んだ先、確かにあった。あんなにも遠く感じたイカロスの塔は自分たちの街からたった数本で繋がっていた。

「怖いのか?」

彼にそう言われて初めて、体が震えていることに気が付いた。初めて間近で見るその塔の迫力を前に、息をするのも忘れるくらいに心を奪われていた。体の中で何か熱いものがうごめいているような感覚がする。恐怖とは違う何か。その答えを僕は知っている。

「怖くなんてないよ。これは、武者震いだから」

「怖いんじゃねーかよ」

慧伍はそう言って、僕の頭を軽く小突いた。

「さあ、ようやくだな北斗。地に足つけて、しっかり歩け!」

「ああ、行こう」

追い求めていたものへと、確かな感覚を持って一歩ずつ進んでいる。心なしか、その音はいつもよりずっしりと重く体に響いているような気がした。



「しかし、いい宿だな。こんな所に泊まって本当に大丈夫なのか?」

畳の上であぐらをかき、辺りを見渡しながら慧伍がそう言った。

「大丈夫だって。お金ならちゃんと持ってるから」

確かに、僕らが今日泊まるこの旅館は、最上級とはいかなくても高校生が泊まるには十分すぎるくらいに良い部屋だった。ベランダからは綺麗な日本海が見えるが、その中でもひと際目立つのは、やはりイカロスの塔だろう。

 少し奮発していい部屋を予約して本当によかった。更に言えばここは温泉街なので、ただの観光旅行だとしても十分すぎるくらいに満足できる程コンテンツが充実していた。ずっと座っていたとはいえ長時間の移動はかなり足にきていたようで、肌に伝わる熱い湯の感覚が足に触れると、硫黄の香りとマイナスイオンも相まって幸福感が体に染み込んでくるのが分かった。

 夕食は海鮮料理の数々がテーブルに並べられた。特に鯛の活け造りが絶品で、これまでの人生で一番美味しい食事だった。

腹が満たされた頃には、もう夜もとっぷりと深まっていて、時計の針は午後十時を指していた

「俺、また風呂入りに行くけど北斗も来るか?」

と聞かれたので、僕はついていくことにした。

彼の少し後ろをついて、旅館の廊下を歩く。木材の優しい香りに心が安らぐ。


その時、あることに気が付いた。目の前の景色が、この世の言葉ではとても言い表せないほどに色鮮やかに僕の目に映っている。変わりゆく車窓の景色、味気なかったはずの料理、木の温もりでさえ今の僕には美しく色鮮やかに見えた。それは、例えるなら曇った眼鏡を拭き取った時のようで、世界がこんなにも美しく見えることを思い出させてくれた慧伍に、伝えなくてはならないことがあることにも気が付いた。


「いやあ、やっぱり和倉の湯は良いな!」

露天風呂はとても空いていた。どうやら客は僕と慧伍の他に数人しかいないようで、湯が流れる他に音は無く、空には視界に収まりきらないほど夜空に散りばめられた星々が輝いているのが見える。あまりにも美しい景色を前に、僕は自然と言葉を走らせていた

「……輝く星がこんなにも綺麗だったことを、君は思い出させてくれた。誰かと食べる料理があんなにも美味しいことを、君は思い出させてくれた」

「……北斗?」

怪訝そうな表情を浮かべる彼に僕は続ける

「何より、世界がこんなにも色鮮やかだったたことを、君は思い出させてくれた。それもこれも慧伍、君に出会ってこの旅路を経たから思い出せたものなんだ。こんな大事な事すら忘れていた僕を救ってくれた君に僕は言葉じゃ言い表せないくらい感謝してる。本当に、ありがとう」

僕は立ち上がって、深々と礼をした。彼はそんな僕を「湯冷めするからちゃんと湯につかれ」と軽く諫めてから

「別に俺は大それたことはしてない。……けど人からの感謝を無碍にするほど性根は腐っていない。お前からの感謝はちゃんと受け取ってやる、どういたしまして。ところで、そんなお前に一つ聞きたいことがある」

「聞きたいこと?」

「初めてお前と出会った日のことを、覚えてるか?」

初めて出会った日、あの夜のことだろうか。

「もちろん、ちゃんと覚えてる」

「そうか。それならお前の望むものはあの頃と同じか? 世界が色鮮やかになった今、それでも同じなのか?」

そう問われた。僕はその問いに答えられる

「ああ。変わってないよ」

はっきりと、そう言い放った。こんなにも美しい世界でなら、尚更自分の生きる道は自分で決めたい。強く、そう願う。

「……そうか」

彼はただ一言そう言った。その言葉にはらんだ意味を考える間もなく

「あ、流れ星だ」

彼が呟いた。僕が確認する頃には既に空を駆けた後だったが、再び流れたそれを見つけることができたので、


どうかこの旅が終わった後、望むものが手に入りますように


心の中で、ただ祈るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る