2 世界に色がなかった頃

 朝、いつもと同じ時間に目が覚める。顔を洗い、歯を磨いて朝食を摂り。制服に着替え、電車に乗り学校へ向かう。学校では毎週同じ時間割で、同じような内容の授業をただひたすら聞き、つまらなければ寝る。昼は食堂でうどんを食べる。うどんに飽きたら別の日はカレーを食べ、午後もまた同じことの繰り返し。学校が終わればバイトをし、終わったらすぐに家に帰る。その日の気温によって部屋のエアコンをつけたりつけなかったりする。夕食を摂って風呂に入り少し勉強して、することが無くなればネットサーフィンをして、十一時半頃に寝る。寝ている間、夢は見ない。


そんな生活を一年ほど続けた高校二年の春、僕の目に映る世界は色を失った。代り映えのしない世界の中で、自由と言うものが何だったのかを見失っていた。自分で決めるのはせいぜいうどんかカレーの二択と、エアコンを付けるかだけ。他は全部、世間体や周りの目のようなつまらないものに決定されていた。


このままきっと、「みんなそうするから」と言う理由で大学に入り、同じ理由で特にやりたい訳でもない仕事に就き、普通に結婚し、普通に子供を育て、そしてごく普通に一生を終えるのだろう。探せばいくらでも見つかるようなエピソードを描いて、普通に死ぬ。

そんな人生に嫌気がさし、ある日、眠りに落ちる数分前に僕は家を飛び出し、雨降る夜の街を駆けた。


彼に出会ったのはその時が初めてだった。


河川敷の東屋の下に彼はいた。彼はただベンチに座って、屋根から落ちる水滴が街灯に反射して光るのをぼんやりと眺めていた。同年代くらいの見た目の彼は、僕に気が付くと手招きし「風邪ひくぞ」と東屋の中に入り隣に座るように言う。

「眠れないのか?」

そう尋ねられた。

「少し、考え事をしていて」

「そうか」

僕の方を見ずに、彼はそう言った。

「君は? 君も眠れないからここに?」

僕がそう言うと、彼は大きくため息をついて

「まあ、そんなところだ」

「そっか。同じか…」

彼の胸中は読めないが、少なくとも分かり合えそうな気がした。

「なあ、聞かせてくれないか? この雨じゃ誰も来ないだろうし、どのみち夜は長いんだ。暇を潰すには丁度いいだろ」

彼は再びそう尋ねる。

僕は家を飛び出した経緯を洗いざらいすべて話した。途中、何度も言葉に詰まったが彼は最後まで聞いてくれた。

「…もう嫌なんだ。毎日同じことの繰り返しで変わらない日々に、うんざりしてる」

「だから家を飛び出した?」

「そう。でも自分でも分かってるんだ、これが現実逃避にしかならないことくらい。家に戻れば、きっと明日もまた同じことの繰り返しが始まる。けど、もう息が詰まりそうなんだ」

僕が話し終えると、小さくため息をつき

「なるほど。つまりお前は変化を求めている。自由をもたらすきっかけを欲している。そういうことだな?」

彼はそう言った。僕もそう思う。

「変わりたい。自分の生き方は自分で決めたい。皆が通ったレールの上をただ歩くだけの人生なんて、もう耐えられない」

僕がそう言うと、彼は口の端を少しだけ上げて

「気に入ったよ。そんなことを言う奴を俺は探していた。俺は慧伍。お前の名前は?」

「僕は、北斗」

「いい名前だ、北斗。この時間なら俺は大抵ここに居るから好きな時に来ればいい」

慧伍と名乗った彼がそう言って僕に手を差し伸べてきたので、僕はその手を掴んだ。なぜそうしたかと言うと、真夜中の河川敷で出会ったこの素性も分からない男に、どうしてだか希望を見出していたからだ。このままのつまらない人生と、これからの彼と過ごす時間とを天秤にかけた時、心が後者に傾いた。彼についていけば、人生を変えられるかもしれない。何の根拠もなかったがこの時の僕はそう思った。


こうして、僕と慧伍の新しい非日常が始まった。


慧伍と会うのはあの時間の、あの場所だけでだった。夜、家族に気付かれないように家を出て河川敷で彼と二時間ほど話す。程よい時間になったら帰って、また気付かれずに家に入り、寝る。そんな時間が、僕にとってはかけがえのない時間になっていった。彼と話しているときだけは、自分の行動を自分で決めている気になれたからだ。


慧伍は自分のことについて深くは語らなかった。僕が何度か「君はいったい何者なんだ?」と尋ねた時も

「俺はお前と同じ志を持った男だ。その質問にそれ以上答える必要があるか?」

と、少し不機嫌そうに答えるだけだったので、僕はそれ以上の質問をやめた。



「イカロスって知ってるか?」

それは、慧伍との夜中の密会を始めてから二か月ほど経った頃だった。その日は丁度、例年より少し長い梅雨が明け、久しく見ていなかった月が綺麗な夜だった。慧伍は僕に対してそんな疑問を投げかけてきた。

「イカロス? イカロスの塔なら知ってるけど」

そう答えたように僕は塔の名は知っていても、その名の由来については知らなかった。それを聞くと慧伍はそのイカロスについて話し始めた。


それはギリシャ神話に出てくる、蝋でできた翼を与えられた男で、彼はその翼で囚われの身を脱し自由を求めて空へと駆けたそうだ。


「お前に似てるよな」

慧伍はそう言って笑った。


言われて確かにそうだと思った。イカロスと同じように、僕は言うなれば、不変の日常に囚われている身だ。自由は窓の外に見えているのに、手を伸ばしても届かない。彼のように翼があれば良かったのにと、無いものねだりのため息が出る。


「北斗、行ってみないか?」

「…え?」

「イカロスの塔にさ」

突然そんなことを言われて、僕は面食らった。

「行くって、あそこは確か関係者以外立ち入り禁止だろ?」

「普段なら、な」

そう言うと彼は自分の携帯の画面を僕に見せた。そこには


【 イカロスの塔・最終一般公開  】


そう書かれた記事が載っていた

「これって……」

「期限は今月末まで。さあ北斗、お前はどうしたい?」


それを聞いて確信した。これはきっと僕の人生最大の転機、そこに行けば何かが変わるかもしれない。そんな期待を抱いてしまうのは、この時の慧伍がさながらイカロスに翼を与えた神話の世界の人間のように見えたからだった。


だとしたら、この誘いに乗らない手はない。飛べるのならば僕は飛んでみたい。


「行こう。イカロスの塔へ」

「お前ならそう言うと思ったよ。北斗」

彼は豪快に笑った。彼の目線の先には川面に映る歪んだ月と、その向こうに月明かりでほんの少し照らされて見えるその塔のシルエットがあった。

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