金木犀

 初恋は金木犀の香りと共に訪れた。

 まだ夏の暑さが抜けきらない秋、僕は大学の夏休みが明けて忙しい日々を過ごしていた。授業やレポートに追われ、みっちり詰まったスケジュール。のんびりと夏休みを過ごした身にはずいぶん堪えて夏バテならぬ秋バテ気味でヘロヘロになっていた。

 今日も鈍った体に鞭を入れながら大学までの道を歩く。暑さは少しマシになったといっても日差しは容赦なく肌を刺し、汗はとめどなく噴き出る。ハンカチはもうびしょびしょだ。暑さに耐えながら何とか最寄りの駅に着き、一息ついてふと隣に目を向けた刹那、この暑さに似合わない清涼な風がすっと吹き抜けた。

 背中まで届く長く艶やかな髪と凛とした瞳、まろい頬。この暑さがまるで嘘かのように楚々として美しく佇む彼女に、僕は目を奪われた。

 一息ついて緩やかに鼓動していた心臓が、どくどくと鳴り始める。体中を巡った熱い血潮は、僕の頬を真っ赤に染め上げた。

 そのまま数秒惚けていたが、じっと見ているのはなんだか変質者みたいだとふと我に返り、慌てて目をそらしてちょうど到着した電車に一目散に駆け込む。電車が発車しても、この鼓動は収まる気配がなくて狼狽する。今まで、こんなことはなかったのに!

 ほどよくきいた冷房も僕の頬の温度を冷やしてはくれなくて、その後もしばらく頬を真っ赤に染め上げて落ち着かない挙動不審な僕がいた。

 嗚呼、もう出会えないかもしれない彼女に人生初めての恋をしてしまうなんて! ハードモードもいい加減にしておくれよと心の中で独り言つ。

 たまには神様なんてものに頼ってみようか、授業後に近くの神社に立ち寄ろうなんて思考はめちゃくちゃなままいつもの駅に着く。電車を降りると、なぜか彼女の姿が前にあって思わず固まる。エスカレーターに乗っているから身長差ができて、彼女の丸い頭とつむじが見える。つうっと汗が一筋流れて、それがいやに煽情的でなんだか見てはいけないものを見たような気がして目をそらす。

 自分一人で慌てていたから気が付かなかったが、そういえば彼女は隣にいたのだから同じ電車に乗っていたはずで、しかも同じ駅で降りて……。なんとなく運命めいたものを感じてしまう自分に呆れる。

 ああ、どうか初恋は実らないなんて言ってくれるなよ。僕の前途多難な恋が幕を開ける音がした。

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