ゼラニウム

 尊敬する、先輩がいる。

 私の通う中高一貫校では六学年が部活に所属し、活動する。一年生から三年生が中学生。四年生から六年生が高校生。私が所属する吹奏楽部では前者を中吹、後者を高吹と呼び普段は分かれて活動し、定期演奏会や文化祭といった大きな行事では一緒に演奏することもある。

 分かれて活動するといっても楽器ごとに同じ教室で活動するから、同じ楽器の先輩とはほとんど毎日顔を合わせる。私は今日も四つ上の先輩、藤松先輩の奏でる音色に聴き入っていた。

 私が担当する楽器はユーフォニアム。柔らかで円やかな優しい音が魅力の主旋律から副旋律、リズムまで何でも担当する万能楽器だ。私は中学生になった今年からユーフォニアムを吹き始めたから、まだまだ音や技術が未熟で課題も多い。毎日一生懸命練習しているけれど、自分の下手さに落ち込む時もある。そんな時、一緒の部屋で練習している藤松先輩の音色を聴くとその滑らかで力みのない理想のユーフォニアムの音に心がすっと浄化されるような気がするのだ。

 例えるなら滑らかな手触りの毛布のような。蕩けるように馴染んで心と体を温めてくれる極上の音。こんな音で演奏したいと思わせてくれる、私の身近で一番の憧れ。

 今日も藤松先輩の音に元気をもらって練習する。曲の練習も大事だけれど、一番大事なのは基礎練習だと優しく私に教えてくれたのも藤松先輩。藤松先輩から教えてもらった練習法を自分にできる範囲で今日もこなしていく。

 熱心に練習していると、私を含めた後輩たちに藤松先輩が声をかけてきた。

「今日は中高合同の合奏があるけれど、そこで僕が担当しているソロパートを、今回は合奏中に皆さんに一回ずつ吹いてもらいます」

 突然の決定に面食らう。中高百人近い先輩方の前で、ソロパートなんて……! 先輩が言うには経験を積む大事な機会らしいが、私の心には暗雲が立ち込め、顔から血の気が引いていくのを感じる。ぼうっとしていても仕方がないから、そのまま自分なりに頑張って必死に練習して合奏に挑むことになったけれど、音楽室に着いて準備をして合奏が始まるまで普段以上に生きた心地がしなかった。

 まずは曲のはじめから通して演奏する。中間部に差し掛かり、先輩がお手本を見せるかのようにソロパートを吹く。その音はいつも通りとても素晴らしくてなんで私なんかが吹かなきゃいけないのだろう……と泣きそうになる。私の音は、先輩とは天と地ほどの差があるのに。

 自分に回ってこないことを祈ったけれど、ちょうどソロパートがある楽章を何回も先生が指摘を出して先輩数名が吹き終わって自分の分が回ってきてしまった。

 震える指先、汗ばんだ手のひら、まったく吹ける気がしなくて恐怖感に苛まれる。申し訳ないと思いながらも無理だと藤松先輩に申し出ようと先輩の方を向くと、私の緊張を察したのか先輩がゆっくりと温かく微笑みかけてきて、口パクで「大丈夫だよ」とおっしゃってくれた。

 大好きな尊敬する先輩のその笑みと言葉に、単純な私はなんだか途端にやれるような気がして背筋がすっと伸びた。大丈夫、私が今できる全てをぶつけよう。そう思って譜面と向かい合った。

 私が奏でた音は先輩には遠く及ばないけれど、それでも何とか吹き切った。私が演奏した後、藤松先輩をはじめとする先輩方が嬉しそうに微笑みかけてくれたからもう十分だ。やった! 初めてのソロをやり遂げたんだ!

 喜びでいっぱいで破顔する私に、先輩たちは優しい眼差しを向けていた。

 窓辺のピンク色のゼラニウムが、そっと私に微笑みかけてくれている気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る