花言葉
間
紫陽花
しとしとと雨が降る、六月。梅雨の真っ只中のありふれた日に、私はどうすることもできず呆然と立ち尽くしていた。
事の始まりは彼と二人、少しばかり狭いベッドで体を交わし合った日だった。私が体の奥に残る熱の余韻にじんわりと浸りながら朝を迎えると、そこには彼――結城浩樹がいなかった。布団に残るほんのりとした温もりに浩樹が出ていってからまだ時間が経っていないことがわかる。
コンビニに何かを買いに行ったのだろうか。初めはそう思っていた。でも何故だか胸がざわざわした。だって、浩樹が情事の翌日に私をほったらかして出ていったことなんて一度もなかったから。いつも私のことを抱きしめながら寝て、「おはよう」と語りかけてくるふにゃふにゃした声が好きだった。
五分、十分、三十分……と時間は無情にもすぎていった。浩樹は帰ってこない。流石に連絡を入れようと思ってLINEを開く。どこにいるの、何をしているの、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。けれど、いつまで経っても既読はつかない。
思考は嫌な方へと流れていく。でも、私は浩樹のことを信じていたかった。疑いたくなかった。だって私はずっとずっと浩樹のことが好きだから。浩樹から知らない香水の匂いがしたって、最近会えない日が続いていたって、記念日を忘れられていたって、健気に浩樹のことを信じて家で待っていた。私に注がれた温かな愛情が嘘だと思いたくなかった。
生きた心地がしないまま数時間が経過した。何もやる気になれなくて、ベッドに引き篭もりながら浩樹からの連絡を待つ。そして、待ちつかれてうとうとし始めた時にロック画面に通知がひょっこりと現れた。
「ごめんね」
ただ一言、でもそれは私にとって死刑宣告のように思えた。多くを語らずとも、そこに全てが詰まっていた。
気がついたら家を飛び出していた。雨の中傘もささずに走った。けれども街のあちこちに浩樹の影があってより一層辛くなるだけだった。二人でよく行ったケーキが美味しい喫茶店、本が好きな浩樹がよく訪れていた馴染みの本屋さん、他愛無い話をしながら散歩した公園、走っても走っても浩樹の顔が消えなかった。
走り疲れて立ち止まり涙を流す私にすれ違う人が奇異な眼差しを向けていたけれど、そんなことも気にしていられなかった。最後に辿り着いたのは、浩樹とデートをした植物園。
「わあ、紫陽花が綺麗だね」
「鮮やかで美しいね。そういえば知ってる? 紫陽花ってこんなに綺麗なのに、毒があるんだよ」
「そうなの?」
「そうそう、だから散歩中に犬や猫が誤食して大変なことになることがあるんだって」
「そうなんだ。浩樹はなんでも知ってるね」
「ははっ、ありがとう」
そんな会話したことが思い出される。私はこの時、飲み込んだ言葉があった。口に出したらそうなってしまう気がした紫陽花の花言葉。
私を嘲笑うかのように紫陽花がいっとう美しく咲き誇っていた。
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