アコちゃん出張所、はじまる

 保健所の認可もおり、新生「三国ベーカリー アコちゃん出張所」の移動販売が始まった。


 晴飛先輩には連絡できていなくて、なんだか気落ちした日々を過ごしていたけど、移動販売が始まるとなれば気合が入る。


 初回は、老人ホーム。夕方三時に販売が始まるよう、誠さんの運転で訪れた。智枝美さんはお店の方に残っている。


 こんなに売れるかな……。番重と呼ばれるパンを運ぶケースが積まれている。心配になる量が車に積まれていて、不安になってくる。誠さん、気合入れて作りすぎてしまったらしい。


「誠さん、ドキドキするね」


「うん……」


 誠さんも、さすがに顔がこわばっている。


「大丈夫、三国ベーカリーのパンは美味しいんだから!」


 私の声に、誠さんはぎこちない笑顔を浮かべた。


 パンを車からおろしていると、職員さんが出迎えてくれた。


「お待ちしてました! みなさん、お待ちかねですよ」


 パンを施設内に運ぶと、食堂に集まっていた利用者さんが一斉にこちらを向いた。


「おっ、来た来た!」


 足腰の元気そうな人も多いけど、車いすの人、杖をついている人もいる。


 机の上にパンを並べている間も、物珍しそうに利用者さんが覗き込む。並べ終え、私が声をあげる。普段大きな声なんて出さないから、声がかすれてしまった。


「お、お待たせしました! 三国ベーカリー アコちゃん出張所のパン販売を行います」


 事前に職員さんから「おやつ替わりに食べる用のパンが良い」とのリクエストがあったから、菓子パンと惣菜パンを用意した。


「この四角いアンパン、可愛いね」「どっちにしよう、迷うわね」「俺は二個買うぞ」などと、わいわい楽しそうに選んでくれている。


 おやつは決まったものを配ることが多いから「自分で選ぶ」「お金を払う」という行為が楽しいイベントであると、職員さんが言っていた。これがネット注文では味わえない、目の前で商品を選ぶ楽しさにつながるんだと思う。


 パンはどんどん売れていく。売れたそばから食堂のテーブルに腰かけ、「うまい!」と言いながら食べてくれるから、誠さんも嬉しそう。


 順調である一方、パンを見ても購入せず立ち去る人もいる。興味はあっても、買わない人もいる。どうしてだろう……。


 気になるけど、パンを売ることで精一杯で頭が回らなかった。だって私、バイトしたことないから、お金のやりとりをこんなにするなんてもう大変で!


 商品の値段も記載しているけど、すべて暗記している誠さんとは違っていちいち確認している私は、とても時間がかかる。けど、お金の間違いは避けなくちゃいけないから、ゆっくりでも確実にやる。


 わずか三十分で、パンはほぼ売れて購入の列も途絶えた。残ってしまったけど、欲しい人の手すべてに渡ったことが嬉しい。


 販売を終え、後片付けをする。


 番重をミニバンに運び込み、三国ベーカリーに帰る。短い時間ながら、目の前で喜んでパンを買ってくれる人がたくさんいて、充実感があった。


「誠さん、良かったね」


「本当に。お金どうこうじゃなくて、俺のパンを必要として、美味しいって食べてくれる人がこんなにいることがなにより嬉しいよ」


 この前までの、なげやりな姿とは違ってイキイキしている。


「朱琴ちゃんが、最初に「社長になる!」って言った時は、子どもが何言ってんだと思ったけど……。ありがとうな」


 目の前の赤信号を見ながら、誠さんは照れくさそうに呟いた。


「お小遣い、増えるかなぁ~」


 私も照れ隠しで、ちょっとふざけてみせた。


「それはもう、期待していいぞ」


 真顔で誠さんは言った。やったね。


 でも、課題が残った。


 買ってくれない人はどうして買ってくれなかったのか。

 その理由を知りたい。「お客様アンケート」が世の中にあふれかえっている意味をちょっと理解できた。



 翌日の朝七時。

 大湯さんが紹介してくれた人の家に、番重を抱えて徒歩で智枝美さんときららと向かった。八月も終わりになり、朝七時はだいぶ過ごしやすくなってきている。


「こんな朝早くからお仕事なんて、楽しみすぎるー!」


 きららはわくわくした声で番重を抱えている。


「仕事って、楽しいことばかりじゃないよ」


 私が先輩風を吹かせて言うと、「まだ一回しかやってないくせにー」と笑った。


 移動販売は一回しかしていないけど、ここまでの準備はとにかく大変だった。アイデアが浮かぶまでも大変だし、実現するためにいろんな許可を取らなきゃいけないのも。


 でも、お客さんの笑顔があれば、苦労なんて全部吹っ飛ぶんだけどね!


 約束のお宅に到着した。


 しかし、約束の家に向かっても、誰もいない。


 二人と顔を合わせて、きょろきょろとあたりを見るけど、朝の住宅街はしんとしている。血の気が引いて、番重を持つ手が震える。


 約束、したのに。やっぱりパンはいらないって思われたのかな。


「朱琴ちゃん、大丈夫よ。もしかしたら寝坊してるだけかも。ピンポンしてみましょう」


 智枝美さんがインターフォンに手を伸ばすと……。


「三国ベーカリーさーん!」


 遠くから声がする。静かな住宅街で異様に響く声で、私は別の意味で焦る。苦情が来たら困る! 移動販売では、近隣住民の理解が必要って書いてあったからね。


 声の正体は、大湯さんと、もうひとりのおじいさんと、小学生くらいの男の子の三人組だ。三人の手には、会議室にありそうな折りたたまれた長テーブルがある。


「パン置くとこないねって話で、公民館に取りに行ってきたんだよ。あ、この人町会長だから大丈夫」


 大湯さんは、庭先を貸してくれたおじいさんを指さす。


「人を指さすなジジイ。……そういうことで、孫に手伝ってもらって持ってきたわけ。どうぞどうぞ」


 庭先に長テーブルを組み立てながら、おじいさんはニコニコ言う。大湯さんに対しては結構厳しめだけど。仲が良い、ってことかな。 老人ホームのあとだと、二人ともとっても元気な老人に見えた。先日はたまたま、暑さでふらふらしただけみたい。


「わざわざありがとうございます。ではこちらに」


 智枝美さんが番重を乗せる。


 店頭販売しているものにプラス十円で販売するのは惣菜パンや菓子パン、+二十円の一斤の食パンも準備した。その間に、近所の人もやってきてくれた。当初利用すると言っていたのは五人ほどだと言っていたが、なんだかんだでアパートに住んでいる子どもたちも含め十人以上集まってしまった。夏休みで朝からヒマしているみたい。


「昔の夏祭りみてぇで楽しいな」


「ママー、僕、これ食べたい」


 たくさん売れるのは嬉しいけど、持ってきたパンがまるで足りない。


「智枝美さん、私、走って追加持ってきます」


「そうね、朱琴ちゃんお願い」


 私と智枝美さんの話を聞いていたお客さんから、リクエストの声があがる。


「追加あるなら、三斤サイズの食パンが欲しい!」


「アンパンあと四つ!」


 朝七時にしては賑やかすぎる。私は「もう少し声を落として……」と言いつつ、リクエストをメモする。走れば五分とかからないけど、パンをたくさん持ってくるとなると時間はかかる。


「きららも来て」


「おっけー!」


 涼しくなったとはいえ、まだ真夏で暑い。私たちは大汗をかきながら三国ベーカリーに戻った。


 大変だけど、必要とされている喜びを実感できて、めっちゃ楽しい!


 三国ベーカリーに戻って追加分を番重に乗せつつ、誠さんにパンがたくさん売れたと報告する。誠さんはパン作りの手を止めてまた泣いてしまった。最近はとっても涙もろい。

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