新しいアイデア

 水族館からの帰り道。夕方の薄曇りの中、晴飛先輩は私を家まで送ってくれることになった。


 いろいろ話せたことで、私たちの絆が深まったような……そんな気がする。


「まだ暑いですね」


 午後五時前でも、外出するのは大変な暑さ。これでは、お年寄りだけじゃなく、赤ちゃんがいる人や身体の不自由な人は外出したくないよね。


「熱中症には気を付けないとね」


 駅から徒歩十分ちょっとの自分ちに帰るのも、結構シンドイ。手で汗をぬぐう。

 前からこちらに歩いてくるおじいさんもいるけど、なんだかふらふらしているようだ。


「大丈夫かな」


 晴飛先輩もそのおじいさんを見たようで、ぼそりと心配の声をあげた。お散歩かな? 手に袋を下げているから違うかな。

 心配になって様子を見ていると、おじいさんはそのまま地面にへたりこむようにゆっくりと倒れてしまった。


 倒れた!?


 晴飛先輩と私は、慌てておじいさんのところへ駆け寄った。


「大丈夫ですか」


 大丈夫なわけないのに、ついそう言ってしまう。


 おじいさんは、手に三国ベーカリーの袋を持っていた。お客さん? お店からの帰り道?


「暑い……」


 顔が真っ赤なのに、汗をかいていない。視線はぼんやりとしていて、抱きかかえている晴飛先輩を見つめている。身体に触れると、異常に暑かった。

 症状から、熱中症を疑う。


「家はどこですか? 話せますか?」


 晴飛先輩の問いかけに、おじいさんは指さして「あそこの、黒い壁の家……」と言った。歩いて数十メートルのところにある家がおうちみたい。意識はしっかりしているようで少し安心する。


「一度、おうちに戻りましょう。僕が抱えますが、良いですか?」


 おじいさんはうんうんと頷いたので、晴飛先輩が抱え上げた。私は三国ベーカリーの袋を持ち、ついていく。表札に「大湯おおゆ」とある黒い壁の家に連れていき「おうち、入りますよ。鍵は?」「開けっ放しだから」とやりとりし、私が玄関をあけた。


 古い家だけど、中は掃除が行き届いていてきれい。私はおそらくリビングであろう部屋をあけると、わずかにエアコンがついていたのか少しだけ涼しい空気が流れた。リモコンを探すと、設定温度はなんと三十度。急いで設定温度を二十度までさげる。


 そういえば誠さんも、エアコンをつけるとすぐ「寒い」っていう。エアコンの冷たい風が気に入らないらしい。


 リビングの絨毯におじいさん……大湯さんを寝かせた晴飛先輩は、冷蔵庫をあけて経口補水液を持ってきた。


「自分で飲めますか?」


 上体を起こして、おじいさんにボトルのキャップをとった経口補水液を渡す。晴飛先輩が手でサポートしながらも、大湯さんは経口補水液をごくごくと美味しそうに飲んだ。


「うめぇ~」

 表情に元気が出て、汗がにじんできた。私と晴飛先輩は顔を見合わせて、ほっとする。


「救急車呼びましょうか?」


「ン、大丈夫そうだ。助かったよ若者」


「いえ。経口補水液があって良かったです」


「年寄りだから、こんなこともあろうかと買っておいたんだよ。ちょっとふらついただけだから、もう心配無用さ」


 かっかっか、と朗らかに笑う。


「あの、三国ベーカリーからの帰り道だったんでしょうか」


 私が袋を差し出すと、大湯さんは驚いたように袋と私を見比べた。


「あ、三国ベーカリーのお嬢ちゃんじゃないか。次に行ったときはたっくさん買わないとな」


「それは気にしないでください。でも、こんな暑い中来てくれたのに、体調を崩されてしまってなんだか申し訳ないなって……」


「どうしてもアンパンが食べたかったから。いいんだよ、お嬢ちゃんが気にすることじゃない」


 そこで、私は何かひらめきそうになった。


 三国ベーカリーのお客さんは、高齢者が多くて、赤ちゃんを連れた人もいた。気軽に外出できない人たちが多い。


 じゃあ……だったら。


「もし三国ベーカリーに、宅配があったら……多少高くても、購入してくださいますか?」


 私の提案に、晴飛先輩がはっとする表情が見えた。


「宅配、ねぇ。それだと、目の前で商品を選ぶ楽しみがないじゃない。欲しいのはアンパンだけじゃないから」


 確かに、今はネットで服でも本でもなんでも買える。けど、わざわざ店舗に足を運ぶのは、手に取って選んだり、興味のなかったものに触れる楽しみがあるからなんだ。


「それに、今流行りのなんとかイーツみたいに、ネット注文だと無理だな。スマホでは電話とちょっとしたメッセージのやりとりしかできないから」


「なるほど……」


 そうか、宅配サービスはすでにあるけど、利用したい人すべてに届かない可能性があるのか。


 難しい。私は頭の中でいろんなアイデアをぐるぐる考えてしまう。

「それに、アンパンより送料が高くなったら困るな、年金暮らしだから贅沢はできない」


 大湯さんは袋からアンパンを取り出し、美味しそうに食べ始めた。


 袋の中をちらっと見ると、食パンとコロッケパンと焼きそばパンが入っていた。


「お昼ご飯を買いに行くのも暑くて何も食べてなくて。お腹すいちまったよ」


 私は、幸せそうな顔でアンパンを頬張る大湯さんを見ながら、アイデアがそこまで来てくれていることを感じた。


 経営とかマーケティングだけじゃない。商売は、人の役に立てる機会なんだ。困っている人の手助けができる。


 SNS映えという価値が欲しい人も、いつでも好きなパンを食べたい人もいろんな人がいて、そういう人の役に立つことでお金をいただける。じゃあ、三国ベーカリーにできることは何?


「ところで兄ちゃんは、お嬢ちゃんの彼氏かい?」


 アンパンを食べ終えて経口補水液で口を潤す大湯さんは、ニヤニヤと悪い笑みを浮かべている。


「あっ、その、友達です……」


 かっかっかと笑う大湯さんは、とても楽しそうだ。


「いいね。若者としゃべると、なんか元気が出るよ。ここにひとり暮らししてると、やっぱり孤独でね」


 経口補水液はもう美味しくないとテーブルに置いた。大湯さんは自分でしゃきっと立ち上がり、台所で蛇口から直でコップに水を注ぎ、ぐびぐびと飲む。さらに冷蔵庫を開き、二リットルペットボトルのお茶とコップを三つ持ってこようとした。


 晴飛先輩が慌てて立ち上がり、手伝う。さすがにまだ心配。


「若い子が好きそうな飲み物なくてごめんね」

「おかまいなく」


 おかまいなく、という言葉が晴飛先輩からするっと出てきた。大人の世界では聞く言葉だけど、歳の近い人が使っているのを初めて見た。


 晴飛先輩はコップにお茶を注ぐと、まず大湯さんに手渡した。


「悪いね、お客さんなのにもてなしてもらっちゃった」

「いえいえ」 


 それから、「僕たちもいただいていいですか?」と尋ねて了承を得てから、先に私にお茶を注いでくれる。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 晴飛先輩、大人だなぁ。


 大湯さんのこともパニックにならず助けられたのは、晴飛先輩がいたから。熱中症疑いの人がいたらどうするかって学校で習ったけど、私ひとりじゃ実践できなかったもん。


「ばあさんが死んでから、ここにひとりでさ。たまに囲碁を打ちに行ったり河原で魚釣ったりして、そこで合う近所のジジイどもと話すことはあるけど……暑いとみんな出たがらないから、最近は誰とも話してないんだ」


 ご近所だけど、大湯さんの人生はぜんぜん知らない。でも、寂しい今を送っているのはわかった。


「私で良ければ、またおしゃべりしましょう」


 放っておけなくて言った。でもおじいさんは、首を横に振った。


「こんなじいさんと話すヒマがあるなら、彼氏とデートしな」


「ですから僕は彼氏ではなく……」


 晴飛先輩は否定しかけたけど、それ以上は言わなかった。


「俺はもう大丈夫だから、暗くなる前に帰りなさいな」


 言葉とは裏腹に、強がっているような、寂しそうな顔が印象的だった。


 こういう人を、三国ベーカリーが救うことってできるのかな?

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