3 シェーディング

 ちゃんと部屋片付けたっけ。ジュースとお菓子あるかな。

 家の前に到着し、カバンから鍵を取り出す。

 急に不安になってきたが、ここまできてやっぱりやめたなんてできない。


 私が鍵を開けるのを待っている茉莉子からはワクワクしているのが伝わってくる。

 大丈夫。普段からなるべく綺麗にしているし、お菓子と飲み物もこの間買った気がする。

 鍵を開けてドアを開けると、中を覗いた茉莉子は関心したような声をあげた。


「うわー日華梨の家めっちゃ綺麗だね!散らかり放題のうちとは大違い。」


 茉莉子が「お邪魔しまーす」明るく言って中に入るが、誰もいないので返事はない。

 明かりをつけると寂しさはマシになったが、やっぱりどこか殺風景だ。

 大好きなまりりちゃんが自宅にいるという夢のような展開なのに、緊張でそれどころじゃなかった。


「ご両親は?」


「仕事。共働きだから夜まで誰もいないんだ。」


 丁寧に脱いだ靴を揃えた茉莉子は物珍しそうに見回しながら私の後をついてくる。

 洗面所で手を洗い、私の部屋に案内する。

 ほとんどシンプルなデザインの家具しか置いていない殺風景な部屋は女子力のかけらもなくて、何だか恥ずかしい。

 本棚の上に飾ってあるまりりちゃんの写真集をはじめとしたほんの少しのグッズがこちらを見ている。


「あっ!私だぁ。」


 部屋に入った茉莉子はすぐさまそれらを見つけて駆け寄っていく。


「すっごく大事にしてくれてるんだね……。嬉しい。」


 100円ショップで買ったカバーや保護フィルムが貼ってあるのを見て、ぱっちりとした目を細めて愛おしそうに微笑んだ。

 これは去年の、これは半年前の、こっちなんて2年も前のだ!と目を輝かせて眺めている茉莉子に一声かけてから茶菓子を取りにキッチンへ向かう。


 冷蔵庫にはオレンジジュースが、戸棚を開けてみるといい感じのクッキーを見つけた。

 家にある中で1番綺麗で気に入っている、網模様のついたグラスを2つ出して、似たデザインの皿と一緒にトレイに置く。


 ペットボトルの蓋を開けると甘酸っぱい柑橘の香りが鼻腔を撫でる。

 傾けると太陽の色をした液体がリボンのようにしなりながらグラスに落ちていく。

 なるべく同じ量になるように入れ、オレンジジュースを冷蔵庫に戻した。

 白と黒の2色のクッキーをバラバラと皿に出すと、なかなか素敵なセットの完成だ。


 自室に戻ると茉莉子は荷物を置くこともせずにまだ写真集を眺めていた。

 ミニテーブルにトレイを置いて、そっと茉莉子の肩を叩いた。


「ごめん、暇だった?荷物適当に置いて座ってくれてよかったのに。」


「ううん!こんなに大切にしてくれてる本にサイン書くなんてすっごくありがたいなって、ワクワクしてたの!」


 振り返った茉莉子はキラキラと瞳を輝かせていて、その言葉が嘘じゃないのがよくわかる。

 重たそうな鞄を置いて座った茉莉子に座布団代わりのクッションを渡す。


「オレンジジュースとクッキー食べれる?」


「大好きだよー!ありがとう。」


 座る前にペンケースからサインペンを取り出し、写真集と共に机に置く。

 写真集に被せた透明のブックカバーを丁寧に外すと、箔押し加工でざらざらとした質感と、それ以外のツルツルとした質感が指に心地よかった。

 2つを綺麗に揃えて持ち、茉莉子に差し出す。


「まりりちゃん、サインください!」


「喜んでっ!気合い入れて描くね!」


 茉莉子はよく目立つ、けれども表紙のまりりちゃんの邪魔をしない右下にペンを走らせた。

 きゅっ、きゅっと音を立てて一画ずつ丁寧に書いていく。

 可愛らしい丸字で“まりり”と書いた文字を沢山の星やハートで飾り、最後に可愛い猫の顔を描いた。

 ふぅっと息をついた茉莉子はペンに蓋をして、本と一緒に私に返してくれた。


「はい、いつも応援ありがとう!なんてね。」


 ニコッと動画や写真で見たまんまの笑顔で笑う茉莉子から、震える手で写真集を受け取る。

 まだほんのりインクの匂いがするサインに触れないように気をつけながらじっとそれを眺めた。

 嬉しい。宝物がもっと素敵な宝物になった。

 カバーは完全に乾いてから付け直すことにして、写真集をそっと勉強机に置いた。


「ありがとう。とっても嬉しい。」


「あはは、いい笑顔。そんなに喜んで貰えると、私も嬉しくなっちゃうよ。」


 そう言ってオレンジジュースを一口飲んだ茉莉子は「あっ、」と声をあげる。


「口に合わなかった?」


「ううん、美味しいよ。ごめん、グラスにリップついちゃった。」


 言われてグラスを見ると、茉莉子が口をつけたところが桃色になっていた。

 ティッシュを取り出して口紅を拭う茉莉子に「大丈夫。」と言う。


「ありがとう。今日のリップ、色味可愛いし発色いいんだけどすぐ色移りしちゃうんだよね……。他のリップにするか、せめてティッシュオフすればよかったーごめんね。」


「拭いたらすぐに落ちるんだから気にしなくていいよ。口紅だけでも色々持ってるんだね。」


 口元をティッシュで拭き取っている茉莉子は「そうなの!」と食い気味に返事をしてくる。

 可愛い顔がより一層輝いた。


「リップはリップでもー、口紅って呼ばれるようなリップスティックだけじゃなくて、リップグロスとかリキッドルージュとか色々あってね、どれもそれぞれの良さがあるんだぁ。同じタイプのリップでもブランドとか商品によって全然違うし、色んな色があるからついつい集めたくなっちゃうの!!」


 頬に手を当ててまるで恋する乙女のように語った茉莉子は鞄からメイクポーチを取り出す。

 女の子らしい淡いピンク色で、沢山のフリルがついたポーチのファスナーを開けてひっくり返した。

 ガラガラ……とパンパンに入っていた中身が机の上に散乱する。

 散らばった中身は8割ほどが口紅と思われる赤やピンクの太短い棒で、本当に沢山持っているんだ(しかも持ち歩いてるんだ……)と驚かされた。


「ちょっと恥ずかしいんだけど私コスメオタクで、これ全部リップなの……。買うだけ買って使ってないのもあるんだけど……。」


 少し恥ずかしそうに頬を染めながら茉莉子が言うので、「え!?」と思わず声をあげてしまった。

 沢山持っているんだなとは思ったが、まさかこれ全部同じ用途の物とは。


「え、そうなの?これも?」


 私は興味本位で口紅とは似ても似つかない形のものを手に取る。

 コンパクトミラーのような四角くて薄い板に薔薇色の絵の具のようなものが張り付いている。


「それはリップ&チークパレットだよ!アイシャドウとかは大体パレットだけど、リップのパレットも素敵だよね!しかもチークにも使えるから統一感が出るの!」


 キラキラと目を輝かせて語りながら大量の口紅を綺麗に並べていく。

 全部で何本あるのか数え切れないが、20本以上はありそうだ。


「そうなんだ。すごい。」


「日華梨は普段メイクする?おすすめのコスメあったら教えてよ!」


 キラキラと期待で輝く目を向けられて、なぜだか言葉が詰まった。

「しないよ。」って言えばいいだけなのに言えない。言いたくない。

 なんでだろう。どうして今、こんなに泣いてしまいそうな気持ちになるんだろう。

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