第4話

 人間を恐怖に陥れる怪物の特徴を挙げるとしたら、次の三つに分けられる。

 ひとつ、不死身であること。

 ひとつ、正体が不明であること。

 ひとつ、言語が通じないこと。

 イデアは、そのどれもが当てはまらない。彼女の母親や同類に照らし合わせれば、まず間違いなく生命活動が停止する生物だろう。つまり、彼女はいつか死ぬ。現に私は生まれた直後のイデアが弱っている姿を目撃したし、空腹を訴える以上は餓死の概念にも囚われているのだろう。姿形が人間の少女に近いことからも、彼女には怪物としての威厳が薄い。

 しかも言葉が通じるのだ。世間話の出来る相手を、ヒトは怪物とは呼ばない。

 彼女に対して恐怖することがあるとしたら、それは人類の英知を結集しても届かない高出力障壁バリアを自在に操る、その特異性のみである。彼女のバリアによって救われてしまった私は、今や、イデアを恐怖することが出来なくなってしまっていた。

「……果たして、どうしたものか」

 私の独り言に同調して、揖斐が言葉を紡ぐ。

「逃げてきたはいいけど、どこへ行けばいいんだろうね」

「やちーの友達にでも会いに行く?」

「いないよ、そんな奴」

 知り合いのほとんどは、お前の母親を殺すために死んだんだ。

 そう言い掛けて、ぐっと言葉を飲み込む。今は、それを言っても仕方がない。

「揖斐の知り合いは?」

「くはっ。全員、研究所勤めだぜ」

「他の研究所に知り合いがいるの?」

「んなわけないじゃん。173連勤してたんだぞ」

「……悪かったな」

 どうやら、私達には頼れる友達もいないようだ。

 研究所からヘリを盗んで逃げ出した私達は、様々な場所を転々としている。揖斐の預貯金をATMから引き出せるだけ持ち出した。居場所を変えてから二度目の挑戦を試みたが、その時には口座が凍結されていた。事前の策は万全でなくとも、臨機応変に対応してくる点においては、やはり侮れない相手なのだろう。

 逃げ場がなくなりつつあることを自覚して、私は溜め息を吐いた。

「矢矧くん。お疲れのトコ悪いが、次の移動はいつにする?」

「明日の昼まで待とう。それまでに動きがなければ一週間は滞在したい」

「……分かった。行き先はどうしたものかねぇ」

 お弁当を食べ終え、すやすやと眠るイデアに視線を落とす。

 彼女が人類にとって有益だと分かれば、迂闊には手が出せなくなる。だが現状、イデアの存在は秘匿されている。イデアの存在を知るのは、研究所の関係者と、一部の政府高官のみ。つまり、彼女は存在そのものが機密事項なのだ。もし仮にイデアを捕縛できたとしても、単純な重火器で彼女を殺せないことは先の暗殺で露見しているだろう。彼女を殺すために母親と同等の爆薬が必要になるとしたら、地方に逃げ込むよりも都心部に残っていた方が良い。一般市民を人質に、私達の安全を買うのだ。それでも相手が過激な思想の持ち主であれば、イデアの殺害を企てる可能性は否定できないけれど。

 不安、焦燥、微かな絶望。

 それらが胸を焦がし、睡眠不足に陥りかけていた。

「……揖斐。今夜も話に付き合ってくれよ」

「いいとも。お酒は必要かい?」

「私は下戸だ。このやり取り、何回繰り返す気だ?」

「だからこそ、だよ。明日には死ぬかもしれないんだ。いつ矢矧くんの気が変わっても良いように、毎晩繰り返すつもりだよ」

 スーパーで購入した安いウォッカの瓶を傾けて、紙コップへと注いでいく。啜ればなくなりそうな、僅かな量だった。無色透明なアルコールへ、今度は大量のオレンジジュースを混ぜていく。軽く紙コップを揺すって、揖斐特製の、アルコール度数の低いカクテルが完成した。酔うために飲むなら、もっとウォッカの量を増やせばいいのに。

 私の視線に内心を透かしたのか、揖斐は微かな笑みを浮かべた。

「緊張を解したいだけなんだ。私も下戸だしね」

「そうか。それを油断とも呼ぶのだぞ」

「矢矧くんは真面目だねー。気を張り続けても良いことはないぞ。それに、国が総力を挙げてきたら手も足も出ないだろ?」

「…………そうだな」

 渋々ながら、同意せざるを得なかった。兵器を持たない私は、戦闘において無力だ。

 イデアを膝に眠らせたまま、私はテーブルを挟んで揖斐と向かい合う。彼女の視線は、私の膝元で眠る少女へと注がれていた。生まれた頃は白かった髪も、今ではすっかり鮮やかな水色に染まり、寝息で上下する肩に合わせて微かな煌めきを放っていた。肌は真珠のように白く、頬の紅潮が薄暗い部屋の中で際立っている。まるで精巧な人形のようだ。

 イデアを見つめたまま、揖斐は口を開いた。

「この前、襲撃された日のことだけどさ」

 カツン、と空のコップをテーブルに置く。私は何も言わず、揖斐に続きを促した。彼女は声を震わせるでもなく、真っ直ぐに私の瞳を射抜いて話す。

「矢矧くんは、イデアの能力を知っていたんだね?」

「あぁ」

「そして、彼女の発する高出力障壁も目視している」

「……何が言いたい?」

「イデアちゃん、起きてくれ。確かめたいことがある」

 揖斐に声を掛けられ、イデアの瞼が震えた。ゆっくりと開いた双眼は、焦点が定まらずに虚空を彷徨っている。ぼんやりとした表情のまま、イデアは身を起こした。大きな欠伸を漏らしながらも、両手を上に伸ばして背筋を反らす。もう一度欠伸をして、イデアは私の膝にぱたんと倒れた。顎の下をくすぐってやると、身をよじりながら身体を起こした。やはり甘えたがりな子供である。

「揖斐、イデアに何をさせる気だ?」

「まぁ見てな。イデアちゃん、小さくバリアを出せるかい」

「ん、どのくらいの?」

「そうだな、このくらいがいい」

 親指と人差し指で輪を作り、揖斐がサイズの指定をした。

 こくりと頷いたイデアが、念を込めるような顔で宙にバリアを展開する。淡い光を放ちながら浮かぶそれを、彼女は揖斐に指示されるまま左右へと振った。それを視線で追いながら、私はぼんやりと時間を潰す。

 バリアを人類の持ちうる知識で実現するなら、やはりプラズマを用いるのだろうか。怪物が身を守るために使ったバリアは高熱だったと記憶しているし、私が使用した兵器もそれを前提にして調整が施されていた。

 しかし、イデアのバリアは熱を持たない。目の前にある青く光るガラス片みたいな障壁は、熱くもなく、冷たくもなく、ただそこに存在していた。バリアの動きを止めると、イデアは揖斐の顔色を窺うように首を傾げた。彼女が満足そうに頷いたから、バリアを解いたイデアが私の膝へと転がり込んでくる。仕方ないから、撫でてあげた。

「揖斐は何を確かめたかったんだ?」

「私が気になっていたのは、矢矧くん、君の方だよ」

「私?」

 意味深長な言葉に、思わず眉をひそめる。私にはイデアのような特殊な能力はない。そんなことは彼女も知っているはずだ。私の考えを読み取ったのか、揖斐は自信に満ちた笑みを浮かべる。その笑みは、まるでテストで満点を取った子供のようだ。

「私の考えが正しいと証明するために、もう少しだけ手伝ってもらおう。今度は、矢矧くんにね」

「……妙なことを考えてないだろうな」

「別に、何も。私が指示した通りに、イデアちゃんの特徴を紙に記してもらえるかい」

 それで何が分かるんだ、と文句を言いたいのを堪える。揖斐の言う通りに、私はイデアについての情報をノートへと記載していった。

 髪は? 長くて、色は鮮やかな青。肌は? 雪みたいに白くて、幼い風貌をしている。外見年齢は? 十代半ばと言いたいが、服装によっては中学生になりたてと言われても信じるだろう。身長は……など、とっくの昔に揖斐が調べつくしたはずの事項を、私は改めて書き連ねる。その様子を眺めていたイデアは、ふと思いついたように手を挙げた。

「どうした」

「歯、磨いてなかった!」

「……ハブラシは洗面台に置いてある」

「分かった。お掃除してくるね」

「あ、おい。お前のは柄が青色の奴だぞ」

「はーい」

 分かっているのか、いないのか、元気な空返事をしたイデアが洗面所へと駆けていく。

 残された私は、揖斐と静かに向かい合う。彼女は真剣な表情で、私の書いた文字を目で追っていた。洗面所から聞こえてくる水の音と、イデアの鼻唄だけが部屋に響く。聞き覚えのない歌だ。きっと即興で作ったものだろう。それでも元になるメロディがあるはずで、記憶をたどっていく。ふと、研究所で一緒にシャワーを浴びていた日のことを思いだした。よく聞いてみれば、私が好きだった流行歌を、彼女なりのテンポで歌い直しているだけのようだ。

「矢矧くん」

「ん? おう」

 声を掛けられて、我に返る。

 資料を読み終えた揖斐の瞳は、確信に満ちていた。

「君には、私に見えないものが見えている」

「……は?」

「イデアは白髪だ。純白だよ、真っ新な画用紙みたいにね。取り調べの当初からキミが指摘していたような、青い光など誰にも見えていない」

「それは……なぜ?」

「分からない。君が錯乱しているのかも、とか、色覚の異常も疑ってみたんだけどね」

 そうじゃない、と彼女は小さく指を振った。

 揖斐に促されるまま、洗面所にいるイデアへと視線を送る。未だ私には、彼女の長い髪が青白く見えている。彼女の周りに漂う、微かな青い粒子も。しかし、揖斐の目には何も映っていないらしい。ただ白い髪の少女が、歯を磨いているだけだと言う。

「決め手はバリアだよ」

「……何?」

「この前の襲撃で、確信した。イデアちゃんのバリアは無色透明、いつ、どこに張られたかも私には分からなかった。でもキミには見えていたんだろう?」

 私達を守るバリアを、私は確かに視認した。

 それが、人間の目には見えないはずのものだとしたら。

「……私が、人間じゃないとでも?」

「そこまでは分からない。矢矧くんの身辺調査はしていないからね。いや、したけれど、諜報部を使ったわけじゃないんだ」

 ここまで言えば分かるだろう? と揖斐は話を締めた。

 孤児院出身で、幼少期の記憶がない私。年齢と来歴に比して、出世が早く上官からも篤く信頼されている私。そして、怪物の娘という爆弾を抱えながらも研究機関へと護送された私。全てが仕組まれていたことだとしたら? イデアのような怪物の娘が、既にこの世に存在していたとしたら?

「……だけど、私はバリアなんて張れないぞ」

「張ろうとしたことがあったか?」

「いや、それは」

「無理にとは言わない。だが、もしもキミが人類の味方になれるなら――」

 暗殺を企てる輩が手を出せなくなるほどの、強烈な理由になる。

 バリアの張り方なんて分からない。でも、あの美しい障壁が、私も自由に扱えるのだとしたら。私は、人類の味方になれる。

「……やってみるか」

 指先に全神経を集中する。

 何も見えない。だが、出来ると信じてみる。

「……おっ」

 薄っすらと、青白い光が見えた。揖斐には見えていないのだろう、固唾を飲んで見守ってくれているけれど、私に起きている変化に気付く様子はない。指先の光が強まるにつれ、息が荒くなってきた。集中を解けば光が消えてしまう。そんな予感がある。精魂込めて、指先に力を込める。やがて、汗が滲むように、指先からバリアが広がっていく。それは熱くもなく、冷たくもなく、ただそこにあるだけのもの。

 気付けば、私の身体を覆うように、薄い膜が浮いていた。

「出来たぞ、揖斐」

「……私には見えないな。試していいか?」

「あぁ」

 バリアに向けて、揖斐がボールペンを投げた。

 パチリと静電気が爆ぜるような音がして、ボールペンが揖斐の元へと転がっていく。何度か繰り返して、揖斐は私へと手を伸ばしてきた。

 肌に触れることなく、揖斐の指先が私のバリアに押し返される。

「……すごいね」

 満足したように、揖斐は笑みを浮かべた。ほっと安堵してバリアを解いた私の隙をつくように、彼女はもう一度ボールペンを投げてくる。私は叩き落とそうと手を伸ばし、手よりも先に無意識で張ったバリアがボールペンを弾くのを見た。

「すごいね。慣れれば一瞬で展開できるのか」

「……慣れるほどもやってないけどな」

「くはっ、それもそうか」

 いつもの笑い声を漏らした揖斐が、隙をついてはボールペンを投げ込んでくる。

 反射的にバリアを張るものの、何本かを打ち落とし損ねてしまった。これが銃弾だったら死んでいるな、と実戦には使えない水準であることを恥じた。これでは人類の守護者になどなれそうもない。味方の戦力として数えるには不十分だ。

「ただいまー。なんか面白そうなことしてるね」

 長いハミガキを終えて帰ってきたイデアが私の膝へと寝転がる。揖斐も飛び込んでこようとしたが、バリアに阻まれて不格好に床へ落ちた。痛そうに腰をさすりながら、恨めしそうにこちらを見上げる。

「くそぅ、これが心の壁か」

「自業自得だろ」

 ため息を吐きつつ、イデアの頭を撫でる。彼女は嬉しそうに頬を緩めて、私の太腿に顔をうずめた。

「なぁ、イデア。バリアにコツってある?」

「ん? んー。にゅって出すの」

「そうか。分かった」

 何も分からない、ということだけが。

 バリアについては検証を重ねる必要もあるだろうが、イデアの穏やかな時間を守るため、手段は選びたくない。人類も守りたいが、目の前の少女も守りたいのだ。非力な私では何も出来ないが、私にイデアと同等の力があるのだとしたら、やれることは格段に増える。このバリアは、文字通りに私達の命を守る盾になってくれるだろうか。

「……揖斐。作戦変更だ」

「オーケー。で、どうするの」

「隠れるのをやめる。交渉をしに行くぞ」

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