第2話 -後-
怪物の娘に、イデアと名前を付けた。
深く関わるまいと決めていたのに、名前のせいで愛着も沸く。
「最悪な気分だ……」
「どうして?」
「本当に、娘が出来たような気分だから」
「いいじゃないか。私が旦那役をしてやろうか?」
「バカ野郎め」
古い家族観に縛られた揖斐の頭をぽこすかと叩いた。
軟禁が続く私とイデアには、研究施設の一室が与えられていた。元々は危険物を保管するための倉庫だった場所を、急ごしらえで居住用に改造したものだ。十畳ほどのスペースに、生活に必要なものが詰め込まれていた。求めれば大抵のものは用意してくれるし、不自由も感じなかった。
寝食をともにした期間が長くなってきたせいで、否が応でもイデアに愛着を抱く自分がいる。複雑な気分だ。
「はぁ。おい、揖斐。そこの菓子を取ってくれ」
「私は小間使いじゃないんだぞ。ほれ」
「ん、ありがとう。だって、今は動けないし」
「くはっ、それもそうか」
笑った揖斐の視線の先には、イデアがいた。
美しい少女の外見をした怪物は、私の膝に座って参考書を読んでいた。私の言葉を理解した彼女は、今や高校レベルの文章も難なく読みこなす天才と化している。彼女の学習能力の高さには、ただ驚かされるばかりだ。
だが。
「……おい、イデア」
「なぁに?」
「姿勢が悪いぞ」
少女が猫背になっていたのを注意する。こういう部分は直そうとしない、妙に間の抜けたところも持ち合わせていた。いや、分かっている。これは、イデアなりの甘えたがりなのだと。
「ほら、猫背なのを直せ」
「やちーが動くからだよ?」
「私のせいにするな」
「えー。けち」
瞬く間に会話を覚えた怪物生まれの少女は、頬を僅かに膨らませつつ私へと背中を押し付けてきた。これだけ反れば猫背とは言わないだろうとばかりに。丸みを帯びたツノで、私の胸元を押してくる。痛いんだよな、それ。
ィャデェィラと名乗った少女の髪が、私の顎をくすぐる。怪物独特の感性によって彼女が自らに与えた名前は、私には発音が難しくて、イデアとだけ呼んでいる。しかし彼女は、その音を気に入ったようだった。
イデアと押し合っていたら、揖斐が楽しそうに肩を揺する。
「君達、本当に仲良しだね」
「そう見えるのは、揖斐の目が節穴だからだよ」
「そんなことないよー。私はやちーのこと、大好きだし」
勉強の手を止めて、イデアが私に甘えてくる。
彼女が興味を示したこともあって、私達が居を構える部屋には大量の書物が並んでいた。彼女を活かしたまま研究しようと目論む一派が、色々と融通を利かせてくれているのだろう。
イデアへの教育は、彼女にせがまれるまま、幼稚園児が読むような絵本を読み聞かせるところから始まった。喉が痛くなるほど読み倒して、面倒になった私が小学生向けの教科書を押し付けて仮眠を取ったら、そこからは自力で本を読み耽っている。
知識欲が強いのか、イデアは勉強にハマってしまったようだ。
気付けば高校レベルの参考書を読み耽るイデアは、私よりも賢さの才能に溢れている。テスト勉強が大嫌いだった私にとって、彼女の勤勉な態度は信じがたいものだった。
「ねぇ、やちー」
「どうした。また読めない字でもあったのか」
「ううん、違うよ」
「じゃあ、なんだ。腹でも空いたのか」
「あたま、撫でて?」
にひー、と惚けるようにイデアは笑う。
……困った奴だ。勉強を頑張ったご褒美を、定期的に求めてくる。
人類のためと言い訳を繰り返して、私は彼女の頭を撫でた。指に絡むイデアの髪は、日を追うごとに濃い青へ変色している。栄養状態によって変化するのか、それとも時間経過による変化なのか。興味は尽きないが、揖斐を含めた研究員たちは山積みの仕事で忙しい。私の個人的な関心を解決するために、貴重なリソースを消費したくなかった。
伸びる速度のはやい長髪を指で梳く。触り心地が良いのも曲者だ。
「髪、目に入らないのか?」
「入る前にあたま、ぶんぶんする」
「やっぱり邪魔になってんだよな」
イデアの長めの前髪は、普通のハサミでは歯が立たなかった。目元に掛かるのは不快感があるだろうと、少女の前髪をピンで止めてやる。勉強を再開した少女から目を逸らすと、揖斐がまた笑っていた。
「矢矧大尉。キミ、本当に独身だよね?」
「あぁ。恋人がいたこともないよ」
「そうか。家族は? 年下の従弟妹がいたりは?」
「親族はいないよ。物心ついた頃には孤児院にいたから」
「そうか。……研究対象との家族ごっこは厳禁だぜ?」
感情移入が過ぎると、関係を終わらせるのが難しくなるから。
揖斐が親切心からしたのだろう忠告は、私の神経を逆撫でした。
「冗談じゃない。こんな怪物の娘を家族と思ったことはない」
「ふぅん、そうか。ではキミはこの子を処分できるのか?」
「それは……」
すぐに肯定できない私は、人類の敵になるのだろうか。生まれたばかりの彼女を殺すことなく、研究機関への引き渡しを望んだ。その事実だけで、揖斐の質問には答える必要もなかった。
揖斐は分かっている、と手を横に振った。
「構わないよ、矢矧千春殿。これはキミへの聴聞ではなく、私が個人的に気になったことを尋ねただけさ。今の会話も調書に書くつもりはないからね」
「そうか。だが……」
私が言い淀んでいると、揖斐が近づいてくる。何をするのかと構えたが、彼女は手にしていたバインダーをひらひらと振った。そういえば、揖斐は報告書を作成するためにこの部屋を訪れたのだった。仕事から逃れる口実に世間話を好んでいただけじゃないのだ。
揖斐が私達の前にしゃがみこむ。
ちらりと顔を上げたイデアの瞳は、微かに赤い光を湛えていた。
「体調はどうかな。気になることはあるかい」
「特にないけど。あ、昨日食べたハンバーグ、美味しかった」
「そうかい。それは良かった」
少女の言葉に頷いて、揖斐がすらすらとメモを取っていく。通信機器の持ち込みは機密情報漏洩に繋がるから、と現場に持ち歩ける道具は限られていた。ハンバーグが好きと言う情報に価値を見出すのは難しいが、怪物が好む味や香りを知れば罠を作成するのに役立つかもしれない。まぁ、簡単なエサで釣れるのなら、こんな苦労はしないだろうだ。
「キミの名前は? 矢矧からも聞いてはいるんだが、報告書には正式な名前を書きたくてね。教えてくれるかな?」
「ィャデェィラだよ。やちーはイデアって呼ぶけど」
「やじーら? 発音しにくいな、キミの名前は」
「むぅ。やちー、おばさんがイジメてくる」
イデアが頬を膨らませ、私と同世代の女性をおばさん呼ばわりしている。まだ二十代だぞと言い出したいのをぐっと堪えた。私は生後一ヶ月の怪物と会話をしているのだ。人間の常識など、彼女が何も知るはずはない。試験勉強が出来ることと、賢いことは本質的には別なのだ。
「やちー、ぎゅー!」
「やめろ。甘え癖は抜けにくくて大変なんだぞ」
「いいじゃん、仲良くするだけなんだし」
「……だからダメなんだろ」
揖斐をダシに使って、イデアは私に甘えてくる。
私達が生きているのは彼女の気紛れに過ぎないのだ。強大な力を秘めた怪物の娘を無暗に突き飛ばすわけにもいかず、私は溜息混じりに彼女の頭を撫でた。
おばさんと呼ばれた揖斐は機嫌を損ねた様子もなく、むしろ楽しそうだった。
「キミ、自分の名前、文字で書けるかい」
「んー。やってみるけど、読めるかなぁ」
「うむ。善処しよう。書いてみてくれ」
揖斐が差し出してきたボールペンを握って、イデアが記名を試みる。ベギッと嫌な音がして、ボールペンが折れた。真っ黒に汚れた手のひらを呆然と眺めるイデアと、それを横から笑う揖斐とを私は静かに眺めていた。
身体をくの字にして笑う揖斐は、測定不能だったイデアの握力を思い出しているのだろう。事前にイデアが失敗することを予測していたようだ。意地悪な女だが、不思議と不快ではなかった。
「くはっ。力込めすぎだよ、怪物ちゃん」
「これ、柔らかいよ。おばさん、よく使いこなせるね?」
「おばさんじゃねーよ。ほれ、新しいペン」
手品師のように、揖斐が懐から数本のペンを取り出した。
そっと受け取ったイデアは、今度こそはとバインダーに相対した。
膝に抱いたイデアの手元を覗き込む。握力が強すぎて匙加減が難しいのか、イデアの手がぷるぷると震えていた。イデアから名前を聞いたことはあっても、それをどのように表記するのかは尋ねたこともない。そもそも、怪物に文字という文明はあったのだろうか? 彼女について、怪物について、私達が知っていることはあまりにも少ない。
「えっとね。こんな感じ?」
イデアが自らの名前を発音しながら文字を書く。
ィャデェィラ。
彼女は、たどたどしいアルファベットで名前を書いた。読んでいる参考書は日本語のものばかりだが、初等教育レベルの英語なら理解しているようだ。ただし、子音と母音の組み合わせが、少なくとも私には見覚えのないものだった。口の中で音を転がしてみても、私にはイデアの名前を正しく呼ぶことは不可能だ。
揖斐は未知への好奇心が勝っているのか、目を輝かせていた。
「ふむ。確かに、日本語では表記に限界があるな。矢矧大尉、これはすごい発見だぞ」
「……ここの連続する子音の発音、人間には不可能じゃないか?」
「そうか? 似たような音は出せるだろ。ィジャデェイーラ。だろ?」
「おっ。やちーより優秀だね!」
褒めてつかわす、とイデアが手を差し出した。
物怖じしない揖斐が少女の手を取ると、パチリと静電気の爆ぜる音がした。
「ぐわっ」
「イデア。そのパチッってするの、やめなさい」
「えー。筋肉がほぐれて、身体の痛いとこ、なくなるよ?」
「だとしても、許可を取ってやりなさい」
「ちぇっ。やちーのけち」
ひょいと私の膝から立ち上がったイデアが、読んでいた参考書を部屋の隅へと積み上げに向かった。これでようやく解放されるかな、と喜んだのも束の間に、彼女は新しい参考書を持って私の元へと戻ってくる。ダメだな。完全に懐かれていた。
イデアに悪戯を施された揖斐は、痺れた手をぎゅっと抱きしめている。恐る恐る開閉を繰り返し、指が正しく機能していることを確認していた。そういえば、私も初めてイデアから治療を受けた際は似たようなことをしたような。人間、恐怖に対しては一定の行動様式が定まっているのだろうか。
「あっ」
「どうした、矢矧大尉」
「いや……」
揖斐の目元からクマが消えていた。
心なしか、荒れていた肌も艶を取り戻しているように見える。だが、比較するデータもないのに変化したなどと騒ぐわけにもいかない。黙っておくことにしよう。イデアが調子に乗るかもしれないし。
揖斐は、不思議そうな顔で肩を回している。やはり、イデアの悪戯は彼女に健康面でのよい影響を与えたようだ。
「なんだか、肩が軽くなったような」
「気のせいだろう」
「そうなのか?」
私達がくだらないやり取りをしている間にも、イデアが勝手に書類の項目を埋めていた。書くことに慣れていないから、綺麗とは言い難い、拙い文字が並ぶ。文章として表現がおかしなところはあっても、文字そのものは正確に書けているのは、流石の学習能力と褒めるべきか。
いや、褒めるのはやめておこう。これ以上、懐かれると別れるのが大変だ。
「ふむ、ふむ。賢い子だねぇ……」
「揖斐本人が書かなくていいのか」
「まぁね。むしろ、データとしては彼女に書いてもらった方が有益だろう」
「そういうものか……」
揖斐は怪物が人間の文化を理解し、利用していることに興味が尽きないようだ。資料を取り返すこともなくイデアの手元を見つめている。最後の項目を書き終えた後、イデアは天井に向けて資料を挟んだバインダーを突き上げた。
「できた!」
「すごいねぇ。調査対象に報告書の作成を手伝ってもらったのは、人生初だよ」
「ふふん。もっと褒めていいよ?」
「おー、よしよし。ほら、矢矧大尉も」
「え、いや、私は」
イデアを甘やかす予定はないのだが、揖斐が余計なことを言ったせいで彼女は頭をこちらに向けてきた。人間には存在しないツノと、目を背けたくなるほどの美しい造形。突き飛ばしたくなる衝動と、抱きしめたくなる感情で脳がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
私が、甘えられるのに慣れていないのもあるだろうが。
渋々、イデアの額に手を伸ばした。
「むふー」
「……お前、本当に甘え上手だな」
精一杯に甘やかすと、イデアが惚けるように笑う。小学生の姉が、幼稚園児の妹をあやすように幼稚なやりとりだ。それでも、彼女は楽しそうに笑う。華奢で小柄で可憐な少女は、眺めている分には美しい。せめてこのまま、安楽な時間が続けばいいと思った。
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