第2話 -前-
怪物の娘は、私から離れようとしなかった。
どうやら、私のことを仲間だと思っているらしい。火傷の他にも多くの傷跡があった私の身体も、怪物の娘の摩訶不思議な
それは私のこれまでの罪と災禍を洗い流すようで。
私の人生を否定するようでもあった。
「……完全に懐かれてしまったな。計算外だ」
「良かったじゃないか、矢矧大尉。子供が出来たね」
「やめてくれよ、揖斐」
「いいじゃないか。キミは子供が嫌いなんだっけ?」
揖斐女史が、喉の奥を鳴らして笑う。意地の悪い顔だ。
彼女は、研究所に所属している。くたびれた白衣には洗っても落ちない汚れが染みつき、過酷な労働環境が垣間見える。彼女の目元に、濃いクマが浮かび上がっていた。そのくせ元気に話しかけてくるのは、過労によってハイになっているだけだろうか。
怪物の娘を養子にするつもりはなく、私は慣れないジョークを返す。
「なぁ、揖斐。……せめて、妹ってことにしないか?」
「くはっ、なんだい。文句を言う割に甘やか気満々じゃないか」
「違う、そういうつもりで言ったんじゃない」
「はいはい。オフレコにしておいてやるよ」
楽しそうに笑った揖斐は、握ったペンを器用に回す。
「ったく、やりづらい……」
彼女から視線を外した私の視界に映り込むのは、真っ白な壁と複数の計測機器。ここは、揖斐が勤めている研究所だ。前代未聞の生物災害、怪物についてのあらゆる情報を調査している。
私達が研究所に足を運んでから一ヶ月が経過していた。軟禁状態のまま、事態の経過を見守っている。現場からヘリで移動する際に揉め、所属する部隊の基地で揉め、現在も上層部が保守派と急進派に分かれて揉めているらしい。少女の処遇を巡っては、様々な意見が交わされたものの実効性のある結論は出ていなかった。殺すも活かすも、まだ決まっていない。
今のところは平々凡々に、日々を粛々と過ごしている。
不貞腐れる私を前にしても、揖斐は飄々と笑っていた。
「ま、喧嘩しているよりはマシだよね」
「怪物と人間じゃケンカにならないよ。アリと巨象だ」
「そうかな。矢矧大尉ならイケるかもよ?」
「ばかばかしい。試す価値もないさ」
鼻を鳴らして、揖斐の妄想を一笑に付す。
怪物の持つ潜在的な戦闘能力は、人類が保持している武力を遥かに凌駕していた。世界を数度滅ぼしても余ると言われていたはずの弾薬は、怪物が誇る高出力障壁――言い換えればバリアの前には無力だった。特殊な兵装こそ持たない怪物達だったが、振り回すツメやキバは装甲を容易く切り裂いた。単純なモノだが、それこそが奴らの武器だ。
「そういえば、私達が殺した怪物は?」
「ウチで七割くらい回収した。残りは諸外国に売り渡したよ」
「……そうか」
怪物の遺骸は各国が競うように回収し、解析と研究を繰り返している。そこに巨額を投じているのも知っていた。人類の技術力が追い付かない以上、圧倒的な物量で攻撃をしなければ怪物は死なない。私達がイデアの母親を殺せたのも、軍備に相応のカネを突っ込んでいるからだ。
怪物が現れなくても、人類は何かを殺すために金を掛けていた。しかし怪物の登場にとって、どこの国も、引き返せないほどに軍需産業が発展してしまった。実戦での使用を前提とした兵器の製造が当たり前になった、不快な世界である。
世界平和に想いを馳せていたら、揖斐が懐から封用を取り出した。
「忘れる前に、矢矧大尉。これを渡しておこう」
「……なんだ、まだ拘束期間が延びるのか」
「くはっ、仕方ないよ。議論が白熱しているからね」
喉の奥を鳴らして、揖斐が笑う。
怪物の娘に処分の命令が下りないのは、少女が私に懐いているのが大きいらしい。人類に敵対的な行動を取らない限りは長期的な研究が可能だと、そう主張しているグループがいるようだ。彼らが議論に負けない限り、怪物の娘が殺されることもないだろう。
「これでいいんだろうか……」
「いいんじゃない? それとも、キミはその子を殺したいのか?」
「……いや」
ここで言葉を濁らせてしまうから、私は戦場に向かないのだろう。怪物を殺せという上官の命令を忘れたように、戦場で得た怪物の娘を生き永らえさせている。仲間達を殺した怪物の胎から出てきた少女に恨みを抱くこともせず、同じ部屋で寝食を共にしている。
それでいいのか。
いいのかもしれない。
憎しみの連鎖が途切れて、怪物と人類が共存できる世界があれば――。
「いや、それはありえないな」
「だろう? キミはその子を気に入っているもんな」
私の独り言を直前の質問への答えと解釈したのか、揖斐女史が一人で盛り上がっている。今日の調査ノルマを達したのか、意気軒昂に私のベッドへと潜り込んでいく彼女を蹴り落としながら、部屋の隅で本を読む怪物の娘へと視線を向ける。
私は、彼女をどうしたいのだろう。
どうすればいいのだろう、と同じ疑問を繰り返す。
答えはまだ、出そうにもなかった。
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