第19話 これからも

「望ちゃん、いま、どこにいるの?」

 ピットから逃げ出すように立ち去った颯空は、サーキットの駐車場から望に電話をかけていた。

「颯空ちゃん、ずっと連絡できなくて心配してたのよ。大丈夫なの?」

「うん。今ね、レース、終わったの」

「レースって、柴咲重工の?」

「うん」

「そう。出たのね。どうだった?」

「優勝したよ」

「すっごーい。やったじゃない。さすが颯空ちゃんよ!」

「望ちゃん、来てくれなかったね」

「ごめんなさい。連絡つかなくて、行ってもいいのかどうか、どうしていいのかわからなくて」

 駐車場の奥に停めておいたRVFに跨り、颯空はイグニッションにキーを差し込んだ。


「うん、いいの。大丈夫。私こそごめんなさい。ぜんぜん連絡しなくて」

「声が聞けてよかった。安心したよ」

「望ちゃんにね、最初に伝えたかったの。優勝したこと」

「うんうん、そっか、ありがとう。なんか、すごく嬉しいよ」

「わたし、がんばったよ」

「うん、よくがんばったね。たくさん練習してたもんね」

「わたしね、わたし・・・」

 携帯電話を握った颯空の手には、大粒の涙が流れていた。 

「颯空ちゃん、どうしたの?」

 電話の向こうで、声に詰まって泣いているのが伝わってきた。

「うん、平気」

 その声も少し震えていた。颯空がなぜ泣いているのか、望はその理由をわかっていた。

「まだ、サーキットにいるの?」

「いるよ。いま、駐車場」

「バイクで行ったの?」

「うん」

「帰ってこれる?」

「うん、平気」

 颯空は、RVFのキーをオンにすると、フィーンと燃料ポンプの作動音がした。


「望ちゃん、今から会える?」

「うん、いいよ。お祝いしなくちゃね」

「ぎゅーって、抱きしめてくれる?」

「うんうん、ぎゅー、いっぱいしてあげる」

「約束だよ。どこに行けばいい?」

 颯空は、赤いスターターボタンに右手の人差し指を乗せた。

「望ちゃんは、どこにいるの?」

「今、バイク屋さんにいるの」

 店内から電話をしているのか、スタッフらしき人の声や、エンジン音がかすかに聞こえる。

「原チャリ、直してるの?」

「あっ、うん、そうなのよ。タイヤをね、交換してもらってたの。あと、いろいろ。修理、やっと終わったから引き取りに来てたの」

「そっか、直ってよかったね。どこで待ち合わせする?」

 望の声を聞いて安堵したのか、颯空の頬に流れた涙は乾いて消えていた。

「そうだなぁ、とかちプラザにする?」

「うん、いいよ。一度マンションに帰って着替えてくる」

「そうね。私も、バイク引き取って、家に戻ってから車で行く」

「今からだと二時間後、くらい?」

「うーん、三時間後にしようか。化ける時間がほしいから。あはっ」

「すっぴんでいいのに。私もすっぴんだよ」

「颯空ちゃんは、元がいいから。私は、オッサンだし。ね!」

「それじゃぁ、六時に待ち合わせは? 暗くなっちゃうけど」

「オッケー。祝勝会しようね。美味しいもの、御馳走してあげるから」

「うん。望ちゃん、いつもありがとう。大好き」

 二人は今夜の約束を交わしてから電話を切った。颯空はRVFのエンジンをかけて、アイドリングが落ち着くまで暖機をした。排気音が落ち着き、タコメーターの針が安定した。自分のヘルメットを被り、革のグローブを着け、冷たいアルミ製のクラッチレバーを握ってギアを一速に入れた。


「おひさま出てるのに寒い」

 革ツナギに厚手のインナーを着ているので体は暖かいが、ハンドルを握る指先から冷えが伝わってきた。帯広へつながる勝狩峠に差し掛かると、日陰で寒さが一段と増した。

「まだ十月なのに」

 バイクを路肩に停めて、バックパックからジャケットとインナーグローブを取り出した。

「持ってきておいてよかった」

 真冬のツーリングでも耐えられるウエアなので寒さは完璧に防げたが、極寒というほどでもなかったので、今度は少し暑くなってきた。

「走り出せば丁度良くなるかな」

 ゆるい傾斜とカーブが連続する勝狩峠は、雄大な自然が広がり、絶景ポイントとして夏には富良野方面から多くの観光客が訪れるが、シーズンオフは人の気配が消える。

「風、冷たい。ジャケット着て正解」

 颯空は、連続するブラインドのないコーナーを流した。体温を奪われない速度で走れば快適だった。時々顔を出すエゾリスやシマエナガに気を取られながら、すっかり姿を変えた秋の景色を堪能した。

「サーキット行くときも通ったのに、さっきと景色が違って見える」

 落ち葉が路肩のアスファルトを隠し、近寄るなとイエローシグナルを送ってくる。タイヤを取られないようにセンターラインを維持しながら、傾斜のゆるい峠を登って行った。

「ちょっと休憩しようかな」

 峠の頂上まで来ると、展望台の近くにカフェがあった。颯空は、バイクを店の駐車場に停めてキーをオフにした。

「手、冷たい」

 グローブを外して脇に挟み、手に息を吹きかけながら店の中に入った。席を選びながら店内を見渡すと、二組のカップルが、窓際の席に適度な間隔をおいて座っていた。颯空は、カウンター席に座り、差し出されたメニューに目を通した。

「レモンティーとチーズケーキをお願いします」

「はい、レモンティーと、チ、チーズケーキ、ですね。あ、ありがとう、ございます」

 少し歯切れの悪い話し方をする店員の顔を見ると、特徴のある表情をした、ダウン症のスタッフが対応してくれていた。

 颯空は、「うん、お願いしますね。ありがとう」と、笑顔で返した。

 店内のスタッフは、全員が障碍者だった。客が少ないので忙しくはないが、ひたすらグラスを磨いたり、誰もいないテーブルをクロスで拭き続けていた。健常者はいないようだが、リーダーらしき女性が店内を巡回しながらスタッフに指示を出していた。


「お待たせしました」

 望から送られてきたラインのメッセージを見ていると、小柄な女性が、レモンティーとチーズケーキをベージュの四角いトレイに乗せて運んできてくれた。

「ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」

 その女性は、カウンターを挟んで颯空の目の前に立っていた。

「オートバイですか?」

 女性は、配膳が済んでもキッチンに戻らず、颯空に話しかけてきた。

「はい、バイクです。ちょっと寒くなっちゃって。タイミングよくお店見つけたので寄りました」

「そうなんだ。今日は、ぐっと気温が下がったわね。今年は雪が多いのかも」

 気さくなしゃべり方をするその女性は、肩まで伸びた黒髪に、薄いメイクをしていた。カウンター越しなので身長はわからないが、細い肩のせいか小柄に見えた。

「峠に入ったら急に寒くなってきたんです。往きはそうでもなかったのに」

「往きって、どこかに行ってきたの?」

「はい、さっきまで十勝サーキットにいました」

「サーキットに行ってたの? それでツナギを着ているのね」

 運ばれてきた紅茶は、ハーフカットした生のレモンが添えられていた。砂糖はついていない。颯空は、果汁をウグイス型の搾り器で取り出して紅茶に混ぜた。レモンを搾ると、鼻にツンとくる香を感じるが、これはそれがない。果汁で色が薄くなった紅茶を一口飲んでみた。

「甘くて美味しい。砂糖入れてないのに」

「でしょ。それね、スイートレモンっていうの」

「スイートレモン?」

「うん、瀬戸内海で栽培が盛んなの」

「そうなのね。わざわざ仕入れたの?」

「そのスイートレモンは、ここで収穫したものなのよ」

「レモンは温暖な地域で育てますよね。ハウス栽培?」

「もちろん。ハウスじゃないと無理だから。地熱を使って育てているのよ」

 冷えていた体が熱い紅茶を飲んで暖まってきた。ジャケットを脱いで、背もたれに掛けた。


「柴咲重工」

 颯空が着ている革ツナギの左胸に刺繍された、その文字に女性の目が留まった。

「ご存じなの?」

「うん。私も昔はライダーだったから」

「バイク、乗っているんですか?」

「昔ね。乗らなくなって十年くらいかな」

 張りのある肌をしているので若いとばかり思っていたが、十年前にバイクに乗っていたのであれば、今は三十歳くらいだろうか。

「私ね、三十六歳なの」

(なぜ何も聞いていないのに年齢を言ったのだろう? まさか、心の中が読めるとか?)

「今、私が何歳なのか考えていたでしょ」

(図星だ。私の顔に書いてあるのかな?)  

「あ、はい。十年前にバイクに乗っていたのだから、今は何歳なのかなって」

「免許を取ったのは十六歳のときで、父がガレージに放置していたCBをもらって、よく乗っていたわ」

「ホンダのCB、ですか」

「うん。あなたは何に乗っているの?」

「私のもホンダです。RVFなんですよ」

「そうなんだぁ。エンジン形式が違うね。並列とV型。あっ、でも、私のは400よ。ヨンフォアって呼ばれてた。あなたのは大型?」

「はい、750ccです」

「もしかして、RC45?」

「えぇ、そうですけど」 

 RC45と聞いて女性の表情が変わった。

「へぇ、あの限定車のオーナーなんだぁ。外に停まってるの?」

「はい、出入口の前にあります」

「見せてもらってもいい?」

 仕事中のはずだが、女性は颯空の返事を待たずに店の外で出て行った。颯空は、席を立ち慌てて女性の後を追った。

「うわぁ、寒いのはわかってたけど、本当に寒いわねぇ。中にいるとわからないわ」

 颯空のバイクは、店内から見える場所に停めてあった。希少車なので、万が一の盗難を警戒して、いつも目が届く場所に駐車するようにしていた。

「極上車ね。どのくらい走っているの?」

「走行距離ですか? 五万キロくらいです」

「そうなんだぁ。メンテはどこで?」

「自宅の近くにホンダのディーラーがあるので、そこでお願いしています」

「部品、まだ出るの?」

「えぇ、今のところ欠品はないそうです」

「それなら安心して乗れるわね」

 女性は、RC45を眺めながら車体を一周した。

「跨っても、いいかしら?」

「はい、どうぞ。エンジンもかけてみてください」

 時々、希少車のRVFと知って近寄ってくるライダーがいる。決まって跨がりたいと言われるが、必ずお断りしてきた。父の形見に誰も触れてほしくなかったからだ。だが、今日はなぜか拒否する気にはならなかった。女性は、RVFの左側に立ち、右足を上げてシートに座った。颯空は、エンジンをかけてあげようと思い、車体の右側に回った。キーをイグニッションに差そうとしたとき、フットペダルに乗せている女性の足に目が留まった。

「義足・・・」

 ベージュのパンツの裾先から、靴の中に入った棒状の金属が見えた。足が不自由には見えなかった。歩き方はごく普通で、ギクシャクしていない。それを見るまで、颯空は全くそのことに気づかなかった。

「怪我で、脚を失ったの」

 颯空の視線に気づいて、女性はそう説明した。

「十年前、ですか?」

「うん、バイクのレースで転倒しちゃってね。そのあと意識不明になって、気づいたら病院のベッドに寝てた。担当のお医者さんが体の状態を説明してくれて、そのとき初めて知ったの。右脚を失ったって」

 女性が笑顔でそう答えた。四肢のどこかひとつでも失えば、ライダーは二度とバイクに乗ることはできない。絶望的な状況を経験したはずだが、十年の歳月が彼女を立ち直らせたのか悲壮感はなかった。

「レースに出ていたんですか?」

「うん、あなたがさっきまで走っていた十勝サーキットよ」

 女性は、セパハンに手を乗せた。一万四千まで刻まれたタコメーター。RC45のポテンシャルには明らかに物足りない百八十キロまでのスピードメーター。昔を懐かしむようにインパネを見ながら笑みを浮かべた。

「エンジン、かけますか?」

「いいの? ちょっとだけお願い」

 颯空は、イグニッションにキーを差し込んだ。その先は、女性に任せた。

「どうぞ」

 エンジン始動を促されて、女性はキーをオンにした。ウィーンと燃料ポンプの作動音がした。

「何の音?」

「インジェクションなので、燃料ポンプが作動したんです」

「そっか。そんなことも忘れてしまっていたわ」

 女性は、スターターボタンを押した。ヴォーンと、重低音のV4サウンドが駐車場に響いた。

「いい音。直四とは違うわね。お腹に響いてくる」

 嬉しそうな表情で、しばしアイドリングのエンジンサウンドに耳を傾けた。クラッチやブレーキを握り、ウインカー、ハザード、ハイビームを操作して、女性はエンジンを切った。

「ありがとう。なんか、昔を思い出しちゃった」

 そう言いながら、女性はバイクを降りた。

「大切にしてね」

 女性は、さっきまでとは違う、落ち着いた口調で言った。

「これ、父の形見なんです。なので、ずっと大切にして乗っていくつもりです」

「素敵。お父様の形見なのね。バイクもそうだけど、体も大切にしてね。乗れているうちは五体満足が当たり前で、その幸せに気づかないから」

「はい」

 幸せに気づかない。たしかにそうかもしれない。人は、失ったときに初めてその大切さを知る。身近にあるときは、自分に幸せをもたらしてくれていることを感じないものだ。

「見せてくれてありがとう。お店に戻りましょ」


 二人が店に戻ると先客の二組はいなかった。客のいなくなった店内を、五人のスタッフが黙々と清掃を続けていた。颯空は、元の席に座り、残っていた紅茶を飲もうとした。

「あら、冷めちゃったでしょ。おかわり、持ってくるわ」

 女性は、店の奥のキッチンへ行き、ポットに入った紅茶を持ってきた。

「どうぞ。今日はお客さん来ないから、全部飲んじゃって」

「はい、ありがとうございます」

 二人はバイクの話題でしばし会話を続けた。今までのバイク遍歴や、ツーリング先でのエピソード、メンテナンスについてお互いが持っている知識を教え合った。女性は整備士としても経験があるらしく、エンジンの分解組み立ては一人でできるという。

 颯空は、スマホの時計を見た。三時三十分と表示されていた。

「そろそろ出ますね」

 そういって、颯空は会計を済ませようと財布を取り出した。

「ねぇ、もう少しいいでしょ。あと十五分」

 望との約束は六時だ。ここから自宅のマンションまで飛ばせば一時間くらいだろう。十五分くらいなら問題ない。

「まだ、お名前聞いていなかったわね。私は、堀田優ほったゆうです。よろしくね」

(堀田?。総監督と同じ名前だ。まさか姉妹だったりして・・・。それにしても、お茶を飲みに来ただけなのに、変な展開だな)

「私は、畔木颯空といいます。畔木のくろは・・・」

「やっぱり。そうだと思った。あなたが畔木さんね」

「えっ?」

「私ね、堀田瑛美の姉です。柴咲重工、レーシングチーム総監督の」

「堀田さんのお姉さま?」

(なんだかビックリ。知らずにずっと話をしていた。寒かったからお店にちょっと寄っただけなのに。偶然って凄い)

「あなたのこと、瑛美からいろいろ聞いていたわ。すごい逸材を見つけたって」

「私が逸材、ですか?」

「そうよ。今日のレース、優勝したのよね。トラブルがあって最後尾からスタートしたけど、全員ごぼう抜きにしたって。瑛美、興奮していたわよ」

 レースが終わったのは二時間ほど前だ。総監督から既に連絡が入っていたということか。最後尾になったのは確かだが、トラブルではなく、原因が自分にあったことは黙っていた。清掃をしていたスタッフたちは、相変わらず黙々と清掃を続けていた。優は、颯空の隣に来て腰かけた。

「あの、みなさんお掃除していますけど、お邪魔ではないですか?」

「気にしないで。もう少しだけいいでしょ。あなたとお話ししていたいの」

 サーキットから逃げ出し、二度と彼らには近づくまいと思っていた矢先、目の前に総監督の姉が現れた。偶然とはこういうものだが、彼女に接していると、再びレースの世界へ戻されてしまうのではないかと、颯空は不安を感じた。


「どうして、私だとわかったのですか?」

「さっきね、瑛美から連絡があったの。もしかしたらそっちに行くかもって。RVFに乗ったモデルみたいな美女が、って」

 サーキットから帯広へ帰るには勝狩峠を通るしかない。その途中にこの店があるのだから、颯空が店の前を通過することは安易に想像できる。

「どうして、帰ってきちゃったの?」

「えっ?」

(やっぱり聞かれたか。逃げたことは知っていたのね。総監督、おしゃべりだな)

「主役が帰ってしまったから、祝勝会がお預けになったって言ってたわよ」

「そうですか。ちょっと、いろいろあって、あの場にいるのがつらくなっちゃって。逃げるように出てきたんです」

「そうなんだ。せっかく優勝したのに勿体ない。御馳走、食べ損ねたわね」

 祝勝会で、どんなに美味しい料理を出されていたとしても嬉しくはなかっただろう。今まで応援してくれたスタッフに背を向けたのは後ろめたいが、あの場に残ることは苦痛でしかない。それを避けるには、逃げてくるしかなかった。

「それは、スタッフや参加した選手たちで楽しんでいただければいいかと」

「それでもいいと思うけど、きっと、選手やスタッフたちは、あなたの話が聞きたかったと思うわ」

 優とこれ以上話をしていたくない。颯空は早く話を終わらせて店から立ち去りたくなった。しかし、会話は続いている。このままでは更に根掘り葉掘り聞かれて、いずれ総監督に連絡をするだろう。そうなる前に、なんとかタイミングを見計らって、相手に不愉快な思いをさせることなく、なるべく早めに店を出たいと思った。

「あの、今夜は予定があるので、そろそろお暇しますね」

「そうなんだ、引き止めてしまってごめんなさい。お見送りさせていただくわ」

 嫌気が伝わったのか、今度は引き止めらることはなかった。颯空は、会計を済ませ、優と一緒に店の外へ出た。

「これからどうするの? また、走るんでしょ?」

「走るって、レースのことですか? それは、どうでしょう。先のことはわかりません」

「私がレーサーを目指していた時は、女性なんて誰にも相手にされなかった。それでも、ずっと頑張ってきたの。瑛美も応援してくれてね。けど、さすがに足を失ってからはどうしようもなかった」

「どんなアクシデントだったんですか?」

「うん、アマチュアのレースで、結果を出すために躍起になりすぎて、シケインで転倒しちゃったの。 あそこ、難しいでしょ」

 確かに難しい。元プロでさえ、無防備に突っ込んで転倒したくらいなのだから。

「あのシケインは何度も練習しました。いまだにしっくりこないけど、なんとかスムーズにクリアできるまでになりました」

「誰に教わったの?」

「えっ、あ、あのぉ、堀田監督です」

「瑛美は、バイクでレースに出れるような技術は持っていないわよ。大型免許はあるけどね」

 何かを見透かしたように、優はクスッと笑った。

「畔木さんは、プロを目指すの?」

「プロですか。それは考えていないです。今の私には必要ないかなって思っています」

「今は、ということは、以前は目指していた?」

 そう思っていた時もあった。夢というより目標を見つけたことに喜び、そのことに気づかせてくれた人たちに感謝をしていた。だが、今は、それはない。開こうとしていた殻は、再び固く閉じてしまっていた。

「いえ、目指してはいません。レースに出たのは、お付き合いですから」

「お付き合いで優勝したって言うの?」

 優は、大声で笑った。

「瑛美が言っていたとおり、あなたはとんでもない逸材なのね」

 優は、颯空の肩をポンと叩き、そして握手を求めて自分の両手を差しのべた。

「畔木さん、ありがとう。会えて嬉しかったわ。これからも夢を忘れずにね。人は、夢を追い求めているときが一番輝けるのよ。またいつか、ここに来てね。そして、夢の続きを聞かせて」

 店内を清掃していたスタッフたちが、箒と塵取りを持って外に出てきて駐車場に散らばった落ち葉をかきはじめた。

「紅茶、ごちそうさまでした。失礼します」

 颯空は、優に丁寧に挨拶をして店をあとにした。


「長居しちゃった。時間、大丈夫かなぁ」

 インパネに後付けしてあるデジタル時計は十六時を表示していた。

「シャワー浴びて着替えてたら間に合わないかも。ちょっと飛ばすか」

 颯空は、RVFのスロットルをワイドオープンした。ゆっくり流れていた景色は一変して後ろへ飛んでいった。フェアリングを超えてヘルメットに当たる風が、ゴーっと音を立てた。

「夢を追い求めているときが一番輝いている。優さん、そう言ってた。私、今までそんな経験したことなかったけど、レースに出るために頑張っていたときは、とても充実していたと思う。だから、一度はこの道を進もうと思っていたけど」

 勝狩峠は薄暗くなり始めていた。颯空は、ヘルメットのミラーシールドを半分開けて、視界を確保した。

「でも、やっぱり私には無理。華やかな世界に少しだけ憧れたけど、それによって自分が傷つくのは嫌。大人しく、目立たないように、今までのように過ごしたい。ずっとそうしてきたし、それでいいの」

 店を出てから、道は傾斜のゆるい下りが続いていた。まだ、空は明るいが、木が光を遮り、ヘッドライトがなければ道の端が見えづらくなってきていた。

「マンションまであと少し。店に寄らなければよかった。寒すぎるよ。手の感覚がなくなってきちゃった」


 薄暗くなった勝狩峠を走り抜け、ようやく街の灯が見えるところまで出てきた。

「ふぅ、やっと帯広が見えてきた。時間、なんとかなりそう」

 颯空は、RVFの速度を落とした。体温を奪っていた風圧から解放されて、ジャケットの中に、ぬくもりが戻って来た。

「望ちゃん、何を御馳走してくれるのかな。楽しみ。しばらく音信不通にしてたから、始めにごめんなさいしなくちゃ。早く会いたいな」

 その時、RVFのバックミラーに小さな一点の光が入った。それはどんどん近づき、あっという間に、颯空に追いついた。

「バイクだ。急いでいるのかな。すごいスピード」

 颯空を先頭に、二台は勝狩峠の残り少ないコーナーに入って行った。

「お先にどうぞ」

 颯空は、コーナーを立ち上がり直線に入ってから、車体を道の左側に寄せた。右手を出して進路を譲ったが、そのバイクは颯空を追い越さず、後ろにピタリとついてきた。

「なんで追い越さなないの? 急いでたでしょ」

 バックミラー越しに後ろのライダーの様子を見たが、薄暗くてどんな人なのかわからなかった。颯空は、もう一度右手を出して、先に行くように合図をした。

「ヴォン、ヴォン、ヴォヴォン」

 そのバイクは、合図に従うことなく、空ぶかしをして颯空を煽ってきた。

「なんなの? 何もしてないでしょ。早く先に行ってよ」

 颯空は、速度を落としてやりすごそうとした。それに合わせて、そのバイクも速度を落としてきた。

「どうして? なんか、怖い」

 颯空は、今度はアクセルを全開にした。RVFは唸り声をあげて飛び出す。左右に揺れる車体を膝で抑え込みながら猛ダッシュで逃げた。それを見ながら、後ろのライダーはヘルメットの中でニヤリと笑い、アクセルを全開にした。

「なんでついてくるのよ」

 速度を上げてどんなに差を広げても、奴はすぐに追いついてきた。ハイビームにしているらしく、ライトがバックミラーに反射して眩しい。

「あの人、おかしい。逃げなきゃ。怖すぎる」

 颯空は、更に速度を上げた。寒さを感じている余裕はない。帯広まであと少し。街へ入れば人が大勢いる場所に逃げ込める。峠道はタイトなコーナーがなくなり、高速走行が続いた。RVFのスピードメーターの針は、百四十キロを差している。

「街まであと少しだ。がんばれ、わたし」

 緊張と怖さのせいか、ウエアの中は汗でびっしょりになった。


 連続したゆるいコーナーが、右、左と交互に続き、次は右コーナーが迫ってきた。颯空は、レースで得たテクニックを駆使して、高速のまま飛び込んで行った。そのまま、コーナーを立ち上がり直線に入ってからバックミラーを覗き込んだ。

「なんで?」

 奴は真後ろにいた。猛スピードで逃げる颯空にピタリと追走している。

「速い。逃げきれない」

 次のコーナーまで長い直線が続いた。RVFは、リミッター限界まで速度を上げた。ワークスマシンとして開発された車体であっても、一般道の荒れた路面では、その挙動を抑えきるのは容易ではない。アスファルトの小さなギャップや継ぎ目を超えるたびに、車体は不安定になった。

「怖い。このスピードで何か踏んだら大変。でも、なんとかして逃げなきゃ」

 左コーナーが近づいてきた。ここも高速で抜けられる。颯空は、左膝を出してハングオンの姿勢を取った。

「追いつかれても、コースを塞いで逃げ切ればいい。絶対に抜かせない」

 膝がアスファルトに触れ、革で覆われた膝カップが削れた。ハングオンを維持したまま、イン側を完璧にブロックした。

「直線になったら、今度はちぎってやる」

 颯空は、コーナーの出口に視線を向けた。その時、同じようにハングオンでコーナーに突っ込んできた奴は、颯空のアウト側から追い抜きをかけてきた。イン側を走る颯空を上回る速度で奴は真横に並んだ。

「外から抜く気?」

 長く続く高速コーナー。ハングオンのまま並走する二台。颯空の視界に、横を走るバイクが入ってきた。

「RVF。あれは、RC30だ」

 RC45の前のモデルになるRC30は、カラーリングが少し違う。二灯ヘッドライトのカウルは、RC45がレッドでRC30はホワイトだ。

「同じバイク」

 2台は並走したままコーナーの中間地点まできた。アウトを走る奴の車体は外側へ向かって滑り始めた。奴は、それに動じることなく速度を維持したままで颯空の前に出ようとした。前後二本のタイヤはドリフトしながら絶妙のバランスでコーナーを駆けた。

「ダメ。抜かせない」

 颯空も、タイヤのグリップの限界を超えないように、最大のトルクをかけて応戦した。そのまま二台はコーナーを立ち上がり、直線勝負になった。

「前に行かれたら止められちゃう。絶対いや」

 二台は横に並んだままコーナーを立ち上がった。颯空が横目で見ると、奴はジーンズに革ジャンと革のグローブをつけていた。

「えっ!」

 奴が付けている黒いグローブのカフスには「駿」の刺繍文字が入っていた。

「それって・・・」

 奴は、コーナーの立ち上がりの伸びで一気に颯空の前に出た。直線に入ってから更に颯空との差を広げた。二台の差が五メートルほど開いたところで、奴は左手を上げて颯空に手を振った。その手にはめたグローブのカウスに、はっきりと「駿」の文字が見えた。

「ちょっと、それって、望ちゃんにあげたグローブじゃない」

 奴は更に速度を上げて、颯空の視界からどんどん遠くなっていった。

「望ちゃんなの? というか、望ちゃんでしょ。原チャリなんて嘘じゃない。私と同じバイク。なんで教えてくれなかったの。こらぁ、待ちなさーい。もう、怖かったんだからね。許さないからぁ」

 

 勝狩峠に、例年よりひと月早く雪の便りがきていた。二台のRVFは、独特の排気音を残して、帯広の街に帰って行った。


おわり



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