第18話 沈黙

 十月下旬。道内は雪の便りが届き始めた。今朝は、十勝サーキットの外周にも霜が降りていた。


「冷え込みましたね。アスファルト、ところどころで凍っています」

 ブース内にある気温計は、二度を表示していた。

「晴れているし、スタートは午後一時ですから、その頃にはもう少し気温は上がるでしょう」

 駿が、スマホで今日の天気予報を確認した。

「畔木さんは何時頃到着ですか? 練習最終日に、当日は十時までに来るように伝えておきましたけど」

 堀田が駿に確認した。

「多分、その時間には来ると思います」

「多分、ですか? 畔木さんに連絡はしていないのですか?」

「いや、していますよ。きっと来ますから。安心してください」

(きっとって、なんだか他人事のようね。何かあったのかしら?)

「出走者は何人ですか?」駿が、参加者リストを見ながら確認した。

「十名です。そのうちの三名が、チームがスカウトしたテスト生です。畔木さんもその中の一人ですね」

「精鋭はいますか?」

「ひとり、いますよ。もちろん畔木さんですけど」

「彼女以外には?」

「あとは、どんぐりのなんとやらです。多分、畔木さんの圧勝でしょうね。何と言ってもタイムがズバ抜けていますから」

「そうですか。それはよかった。推薦した甲斐がありました」

「さすがは松田さんです。畔木さんの能力を見抜いたのは見事です」

「初めは、走ってくれるだけでもよかったのですが、短期間でコースレコードを出すほどポテンシャルが高くなってくれたので、いい意味で想定外でした」

「今日は、どれだけのパフォーマンスを見せてくれるのか、それが楽しみですね」

「うん、俺もそう思います。ところで、今日のレースは、うちの会社だけですか?」

「はい、そうです。丸一日貸し切りにしてあります」

 駿は時計を見た。スタートまでは、まだ十分余裕があるので、コースの下見をすることにした。堀田から、バイクでコースに出ることを禁止されていたので、徒歩でコースに出てみることにした。

「ちょっと、アスファルトの状態を確認してきます」

「はい、十一時からフリー走行なので、それまでには戻ってきてください。滑って転ばないように気を付けて下さいね」

「わかりました。お気遣いありがとうございます」

(堀田さん、転ぶって言葉、今の俺には禁句ですよ。いまだに、あの時の転倒で受けたショックから立ち直れていないのですから)

 コースは、全長約四キロの距離がある。バイクで周れば二分とかからないが、徒歩で一周するには一時間くらいを要する。

「ずいぶん長い距離が凍っているな。なんとかスタートまでには溶けてくれよ」

 日陰になっている所は、白く霜が降りていた。半面、陽が当たっている所は、霜が解けて、ゆらゆらと湯気が立ち込めていた。コースは、第一コーナーからバックストレートまでの約半周に渡って凍っていた。


「どうでした?」

 早歩きでコースを歩いて、吐く息が白くなっていた駿に、堀田がやや不安げに声をかけた。

「だいぶ霜が降りていましたけど、陽が当たっているところは乾いていたので、レースの時間までにはなんとかなると思います」

「そうですか。冬でも昼間はコースに影ができないように設計されているので、心配はなさそうですね」

「はい、大丈夫だと思います。念のため、走行前にもう一度現場確認しておきます」

「よろしくお願いします」

 そのとき、堀田の携帯電話に着信が入った。整備の水島からだ。

「はい、堀田です」

「水島です。選手の方たちがカフェに集合しました」

「わかりました。すぐに行きます。あの、水島さん、畔木さんは来ていますか?」

「畔木さん、ですか。えーっと、いえ、いませんね。今日は全員で十人ですよね。ここにいるのは九人ですから、畔木さんだけが来ていないようです」

「そうですか。では、後ほど」

 電話を切った堀田は、不安の表情を浮かべた。

「松田さん、畔木さんに連絡をお願いします。私はカフェに行きますから。あとで報告してください」

「わかりました。追って報告します」

 堀田は、ママチャリに乗ってカフェに向かった。

(颯空ちゃん、頼む、来てくれよ。この前のことはちゃんと説明させてくれ。俺と舞に何があって、どうしてそうなったのかを。それに、今日、君がここへ来なければ、今までの努力は何の意味も持たなくなる。そして、俺が北海道にいる意味も・・・)

 駿は、颯空の携帯電話に何度も連絡をしたが繋がらなかった。ラインは拒否をされている。望にも電話をかけてみたが、連絡はつかなかった。

(万が一、颯空ちゃんが来なかったらどうする。堀田をはじめ、今日まで応援してくれたスタッフや岡村に何と説明すればよいのか。すみませんでしたでは済まされない。こうなってしまった原因は俺にある。颯空ちゃんに責任はない。もし来なかったときは、理由を全て話して、潔く会社を去ろう。そうするしか、ないだろ)


「松田さん、畔木さんと連絡はつきましたか?」

 声のする方に振り向くと、水島がそこにいた。

「いや、ぜんぜん」

「何かあったのかしら。私もラインしてみましたけど、既読にすらならないんですよ」

(水島さんは、ラインを拒否されていないのか。拒否は、俺だけってことか。当然だな)

「来ます。きっと来ます。まだ時間ありますし、待ちましょうよ」確信のない気休めを言った。

「はい、でも、他のみなさんは集まっていて、監督がレースの説明を始めるというので」

「そうですか。それなら進めてください 畔木さんには僕から説明しておきます」

「はい、お願いします。何度も走っているコースなので、あえて説明することもないですけどね」

 颯空は、今日出場する他の誰よりもコースを走り込んできた。苦手と言っていたシケインは、駿のアドバイスでこなせるようになっていた。すぐにプロでも通用するポテンシャルを持った彼女に、今更伝えることなどない。あるとすれば、コースの路面の凍結くらいだろう。

「水島さん、あとで行きますので、先にカフェへ戻ってください」

「わかりました」

 水島は、堀田が使っていたママチャリに乗り、カフェに戻って行った。そのあとを追って、駿もカフェに行こうとしたが、自分は颯空の専属トレーナーなのだから、あえて行く必要はないと思った。集まっている選手たちにも興味がない。今は、颯空と連絡を取ることに集中すべきで、むやみに動かず、このままピットの中で待機することにした。


「堀田さん、畔木さんはまだ連絡がつかないようです」

 カフェに戻った水島が、堀田に報告をした。

「そうですか。理由がわかりませんね。ここへは、浅黄さんの車で来ることになっていたのかしら?」

「どうでしょうか。浅黄さんの車って、SS20のことですよね」

「うん、そうね」

 カウンター席に座り、カフェオレを飲みながら、堀田は不安げな表情を見せた。

「レースの説明は終わったのですか?」

「みんな自由時間にさせました。フリー走行があるので、着替えて十一時にピットへ集合するように伝えました」

 他の選手たちは予定通りに進んでいる。問題は、颯空だけだ。

「もしかしたら、来ないかもしれないわね」

「来ない? 畔木さんが、ですか?」

「きっと、何かあったのよ。プライベートの問題か、それともここへ来る途中の事故なのか、それはわからないけど。そうでなければ理解できないもの。あんなに張り切っていたのだから、遅れている理由は必ずあるわ」

 待たせるよりも、待たされるほうがやきもきするものだ。颯空の到着を待ち望んでいる堀田は、何の情報も入ってこない状況に苛立ちを覚えた。

(松田さん、畔木さんは本当に来るんでしょうねぇ。なにがあったのか知らないけど、もしものことがあったら、責任取ってもらいますよ)


「それにしても寒いな。レースやる気温じゃないよ」

 コース全体に陽が当たり始め、少し気温は上昇したが、それでも上着を脱げるような状況ではない。駿は、たよりない電気ストーブの前に両手をかざして暖を取った。

「霜、溶けたかな」

 ストーブに向けていた手を上着のポケットに突っ込み、ピットからコースを伺った。その時、駿の携帯電話が鳴った。

「颯空ちゃんか?」

 胸ポケットから携帯電話を取り出して画面を見ると、望から着信が入っていた。

「もしもし、松田です」

「あー、松田さーん。おはようございます。いま、どちらにいらっしゃるの?」

「サーキットだけど。あのさ、颯空ちゃん、どこにいるか知っていたら教えてほしいんだけど」

「松田さんにそれを聞こうと思って電話したのに。わたしも知らないの。この前のことがあってから、ずっと音信普通よ」

(やはりそうか。というより、当然のことだ、全ての原因は俺にある。取り返しのつかないことをしてしまった。今更、何を言っても彼女は聞く耳を持たないだろう。きっと、今日は来ない。来るはずがない。終わってしまった。なにもかも)

「松田さん、聞こえてる?」

 望が大声で叫んでいるが、放心状態になった駿にその声は届かない。つながった電話を持ったまま、駿はその場にへたり込んだ。


「松田さん、いますか?」

 堀田がピットに戻ってきた。携帯電話を耳にあてたまま、地面に座り込んでいる駿を見て、状況は悪い方向へ向かっていると感じた。

「松田さん、大丈夫ですか?」

 駿は、顔を下に向けたまま動かない。声をかけても反応がない。

「松田さん、十一時からフリー走行ですが、立ち合いますか?」

 ロダンの彫刻のように膝に肘をつき、顎を手で支え、一点を見つめたままじっとしている。

「あの、冷たい地面にお尻ついたまま座っていると、痔になりますよ」

「えっ、そうなの?」ハッとして、駿が顔を上げた。

(なんでそこで反応するの)

「もうすぐフリー走行です。松田さんはどうしますか?」

「俺は、走らないですよ」

(そんなこと、わかっとるわい。なにボケてんのよ)

「三十分後に全員集合しますから。アドバイスがあればそのときにお願いします」

 駿は、またロダンに戻った。

(ダメだこりゃ)堀田は、ロダンを放置して、マシンのチェックに入った。


 時刻は十一時を少し過ぎていた。颯空からの連絡はまだない。九人のライダーたちは、自前の革ツナギに着替えて自分が乗るマシンのチェックを行っていた。車種は、SOPIA250のワンメイク。出場者は、プロを目指してこのレースに賭けている人と、走行会を楽しむために来ている人たちで二分されていた。

「みなさん、準備ができた方からコースに出てください。慣らし走行なので、無理をしないようにお願いします。それと、ところどころで路面が凍っています。一周目はスローペースでコースの状態をよく確認してください。二週目からは自分のコンディションに合わせて自由に走行して構いません。誰かが転倒した場合は、フリー走行を中止します」

 堀田の説明が終わると同時に、すぐにコースへ出て行った集団があった。チームがスカウトしてきた颯空を除く六人だ。遊び気分で参加していた残りの三人は、先を行った六人を追いかけるように慌ててコースインした。


「通信状態はどうですか?」

 アマチュアレースとはいえ、安全を軽視するわけにはいかない。柴咲重工から派遣されたマーシャルスタッフたちは万全の体制を敷き、万が一に備えて、ドクターと看護師、それにレース場の保安部が管理している救急車を待機させた。

「コースに出ている全員と通信確認しました。オール、メリットファイブです」

「部長とはつながっているかしら?」

「はい、さきほど確認しました。そちらのヘッドホンが専用回線でつながっています」

 堀田は、コースを映し出すモニターに接続されたヘッドホンを片耳にあてた。

「部長、聞こえますか?」

 本社でモニターの前にいるはずの岡村を呼んでみた。しばらく間が空いて、

「おつかれ。岡村です。今日はよろしくお願いします」

「部長、堀田です。よろしくお願いします。スタートは十三時なので、近くなりましたら、またお呼びします」

「うん、頼むよ。ところで、松田君はいるかな?」

「松田さんですか」

 さっきまで地面にへたばっていた駿の姿が、いつの間にか見えなくなっていた。

「今、ちょっと近くにいないのですが」

「うん、わかった。電話をしてみるよ。ところで・・・」

 岡村が何か言ったようだが、その時、ピット前をフリー走行中のバイクが駆け抜けた。堀田はヘッドホンを片耳しか当てていなかったので、排気音で岡村の声がかき消された。

「すみません、よく聞こえなかったので、もう一度お願いします」

 聞きなおしてみたが、岡村から返事はなかった。

(なんて言ってたんだろ? 彼がどうのこうのって・・・)


 フリー走行は無事に終了し、ライダーたちはレース前の休憩に入った。ピットの裏に用意されたテーブルに軽食と飲み物が並び、スタッフ及び選手の全員で腹ごしらえをしながら、コミュニケーションを図った。

「スタートまで、あと四十分です」

 サンドイッチを頬張る堀田に、水島が声をかけた。

「はい、わかりました。水島さんは食べたの?」

「はい、ガッツリいただきました」

「結局、畔木さんは来なかったわね」

「そうですね。本当に、どうしたのでしょう」

「松田さんはどこにいますか? 時刻が迫っていることを伝えてください」

「それが、どこにもいないんです」

 颯空が来ないことで、バツが悪くなったのか、駿は姿を消していた。

「いいでしょう。畔木さんが来ないのであれば、松田さんに出番はないですから。このままスタートさせましょう」

「はい。では、選手に準備をさせます」

 水島は、和やかな雰囲気で食事を続けるスタッフと選手たちに向かって、スタートの時間が迫っていることを伝えた。それを聞いて、全員の表情が一瞬で本気モードに変わった。堀田は、ピットに並んだ九台のSOPIA250のメインスイッチを順番にオンにしてエンジンを始動した。続いて市販前の水素エンジンを搭載した極秘車両を、メカニックが一台ずつ入念にチェックする。


「監督、マシンに異常はありません。全車両、グッドコンディションです」

「わかりました。このままレース終了までよろしくお願いします」

 準備を整えた選手たちがピットの中に集まった。マーシャルたちは自分の持ち場でスタンバイしている。

「これから、先ほど説明したとおり、マシンとスタート位置を抽選で決めます。既にコースにSOPIA250を並べてあります。 全てのマシンにゼッケンがふってあるので、クジ引きでゼッケンと同じ番号を引いた人が、そのマシンに乗り、且つマシンの置いてある位置がスタートポジションになります。よろしければ、ボックスの中にあるクジを順番に引いてください」

 ライダーたちは順番にクジを引き、同じ番号のマシンの元へ散らばって行った。スタートまで残り十五分だ。

「無線チェック。私の声が聞こえますか? 聞こえたら手を挙げてください」

 ヘルメットの中に通信システムを装着させており、万が一の事故に備えて、すぐにライダーに指示が出せるようになっている。マーシャルたちには、各自のヘッドホンに無線が飛ぶようになっている。堀田の呼びかけに、全員がメリットファイブの返事をした。

「無線、確認しました。ライダーの方、マシンの状態はどうですか? 少しでも不安があれば、その場で手を挙げて教えてください」

 ライダーたちは、自分に与えられたマシンに跨り、クラッチやブレーキの操作を確認した。マシンに異常を感じた選手はなく、手は挙がらなかった。

「万全、のようですね」

 モニターの前で映像を確認しながら水島が言った。

「マーシャル、予定通りスタートします」

 堀田の呼びかけに、マーシャル全員から「了解」の返事が来た。スタートまで残り十分。


「部長、聞こえますか?」

 水島が、本部の岡村に連絡を取った。

「あぁ、聞こえているよ。今日は、常務も同席しているから、よろしくたのむぞ」

「承知しました」

 返事をしながら、堀田の顔を見ると、えっ?っという驚きの表情をしていた。

「なんで常務が?」

 声が聞こえないように、ヘッドホンを外して堀田がつぶやいた。

「多分、松田さんの影響ではないですか?」

 同じようにヘッドホンを外して水島が答えた。

「畔木さん、いないのに。それを常務が知ったら、松田さんはどうなっちゃうんだろ?」

「それは気にしなくていいですから。目の前のレースに集中しましょう」

「わかりました」

 二人は、再びヘッドホンを耳に当て、その時が来るのを待った。スタート五分前。

「みなさん、一周目はフォーメーションラップです。追い抜きは禁止します。速度を抑えてください。全員がスタート位置についたのを確認後、チャッカーフラッグを振ります。わかりましたら、手を挙げて合図してください」

 すぐに全員の手が挙がった。無線をマーシャル専用回線に切り替え、異常がないか最終確認を行った。

「みなさん、それでは、よろしくお願いします」

 スタート一分前。


「堀田さん! 堀田さん!」

 チェッカーに合図を送ろうとしていた堀田に、横にいた水島が大声で叫んだ。

「なに?」

 声を出さず、するどい目線を水島に向けると、水島がピットの後ろを指さしていた。

「なによ?」

「堀田さん、畔木さんが!」

「えっ!」

 振り向くと、そこに革ツナギを着た颯空が、柴咲重工が用意したヘルメットを抱えて立っていた。

「畔木さん、なんで?」

「遅れてすみません」

 申し訳なさそうに、颯空が頭を下げた。

「あの、堀田さん、マシン、用意させます」

 水島は、メカニックの元へ飛ぶような勢いで走って行った。

「堀田さん、スタート、いいですか?」

 チェッカーから無線が入った。時刻はスタート時間を五秒過ぎていた。

「すみません、振ってください」

 堀田の指示を受けて、チェッカーが振られた。ライダーたちはゆっくりスタートして第一コーナーへ入って行った。緊張のせいか、一台だけクラッチミートをミスしてエンストしてしたが、エンジンを再始動して後を追った。

「畔木さん、すぐにマシンに乗ってコースに出てください。まだ、フォーメーションラップなので間に合います」

 颯空はうなずくと、ピットロードに用意されたマシンに跨った。エンジンは温まっていなかったが、そのまま発進して出て行った。

「間に合った。間に合った。間に合ったぁ」

「よかった。よかった。よかったぁ」

 堀田と水島は、大声で喜びを爆発せた。

「なにが間に合ったんだ?」

 状況がつかめていない岡村がヘッドホンの向こうで怒鳴っている。

「すみません、大丈夫です。順調です。これからスタートします」

「監督、落ち着いて対応しろよ。冷静沈着!」

(うっせぇオッサンだな。そんなことわかってるって)

 堀田と水島は、颯空が来たことで興奮が隠せない。駿の姿はなかったが、そんなことはどうでもよかった。


 ライダーたちがフォーメーションラップを終えて、スターティンググリッドに着いた。やや遅れて戻って来た颯空は、最後尾に停止した。ようやく揃った十人のライダーたちが、チェッカーの合図を待っている。静まり返るサーキット。いよいよスタートだ。

「チェッカーが振られるのを確認してからスタートしてください。無理をせず、無事に完走することに意識を集中してください。それではカウントダウンします」

 堀田は、ライダーの緊張をほぐすように、やさしい口調で指示を出した。五秒のカウントダウン後、スタートの合図を送った。

「ゴー!」

 チェッカーが振られると同時に、轟音を上げて各マシンが第一コーナーに向かって突っ込んでいった。

「堀田さん。畔木さんが!」

「なに?」

 水島が指を差している先を見ると、コースの最後尾にいた颯空がスタートせずに立ち往生していた。

「まさか、エンスト?」

 颯空は、セルスタートボタンを押し続けているが、エンジンがかからない。キュルキュルと虚しい音がサーキットに響く。

「まだ、エンジンがベストじゃないんです」

 無線にメカニックの声が飛び込んできた。

「オーバークール?」

 低い気温の中、エンジンが温まらない状態で発進したので、冷却装置が必要以上に働いて思うように水温が上がってこない。その状況ではエンストが起きやすくなる。特にスーパースポーツの場合は症状が顕著に現れる。

 メカニックが颯空に駆け寄った。同じようにセルを回すがエンジンは息を吹き返さない。

「どうなってるの。水素エンジンってそんなにダメなの?」

 焦る堀田。水島は、状況が伝わらないように、一時的に本社との無線を遮断した。


「颯空ちゃん、押しがけやってみて」

 水島が付けていたヘッドホンを取り上げて、駿が無線で颯空に呼びかけた。

「松田さん、どこにいたの?」

 堀田の問いかけに駿は答えることなく、颯空に指示を続けた。

「颯空ちゃん、聞こえてる? 押しがけ、やり方わかるでしょ。やってみて」

 颯空は、バイクの横で立ちすくんでいた。駿の声はヘルメットを通じて聞こえているはずだが、反応しなかった。

「颯空ちゃん、気温が低いせいでバッテリーが弱っているんだ。押しがけするしかない。頼む、お願いだからやってみて」

 颯空は、うつむいたままじっとして、メカニックにバイクを任せていたが、駿の必死の声掛けにようやく反応し、メカニックを押しのけて、ハンドルを握りバイクを押し始めた。

「そう、そうだ。そのまま二速に入れてクラッチミート」

 軽い車体のSOIPAを五メートルほど押しながら、左足でギアを二速に入れ、クラッチをミートした。

「ブフォ、ブフォ、ブフォフォーン」

 ガソリン車によく似た甲高い排気音が鳴り響き、エンジンは息を吹き返した。颯空は、バイクを止めることなくそのまま飛び乗り、第一コーナーに吸い込まれて行った。


「押しがけ、できるんだ」

 堀田は、その事実を知らなかった。いつもセルで楽にエンジンをかけていたから。エンストしてもセルがそれを補ってきたから。こんな非常事態など、想定すらしてこなかったから。

「押しがけって、なんですか?」

 水島が、突然戻って来た駿に訊ねた。

「押しがけ、ですか? 見ての通りです」

 駿はそう言うと、その場を去ろうとした。

「松田さん、どこに行くんですか?」

 叱責するような厳しい口調で堀田が呼び止めた。

「いや、その・・」

「ここにいてください。あなたは畔木さんのトレーナーですよ」


 レースは二週目に突入した。一周目は大人しく走行していたが、二台が先頭に立ち、抜きつ抜かれつのデッドヒートを開始した。

「畔木さんのタイムは?」

 颯空は、メインストレートを最後尾で通過した。

「はい、練習のときより十秒遅れています」

「エンジンが本調子じゃないのね。タイヤも冷えたままだわ。先頭に追い付けるかしら」

「颯空ちゃん、三週目までそのままのペースを維持。勝負は四週目からだ」

「松田さん、四周目からで間に合いますか?」

 無線で颯空に話しかける駿に向かって堀田が確認した。

「うん、いつものペースに戻れば必ず追いつきます」

「わかりました。そのままお願いします」

 気温計は八度を差していた。今朝からほとんど上がっていない。凍っていたアスファルトがどうなっているのか懸念が残った。

「肝心なところで悪さしないでね。今日だけはお願いよ」

 堀田は、女性の二輪市場を開拓するため、会社からの至上命令でライダーの発掘を指示されていた。様々なイベントや女性を意識したグッズを開発して、女性の興味を惹こうとしたが反応はいまひとつだった。インパクトのある広告塔を採用して、憧れの存在を作り出し、ビギナーを二輪の世界に引き込もうとしているが、そう簡単にスターが産まれるわけがなかった。そんな時に松田が連れてきた畔木颯空という存在は、堀田にしてみれば藁をもつかむ救世主だった。

「このチャンスを逃さない。絶対に」


 レースは三周目に突入した。トップの二台は、コーナーごとに順位を変えながらバトルを繰り返していた。先頭と最後尾を走る颯空までのタイムは三十秒の差が開いていた。

「ずいぶん差が開きましたけど、ここから挽回できるでしょうか?」

 堀田は、モニターをじっと見つめる駿にこの後の展開を聞いてみたが、返事はなかった。

「颯空ちゃん、アクセルのドンツキが消えてきたらペースを上げて行こう」

 いつもなら「はい」と元気のいい返事をしてくれたが、今日は無言を貫いていた。


 四周目に入る。颯空がメインストレートを通過した。

「颯空ちゃん、ゴーだ」

 最終コーナーからストレートへの立ち上がりで、エンジンが本調子になったことを確信した駿は、颯空に戦闘態勢を指示した。マシンは甲高い排気音を残して、第一コーナーに飛び込んで行った。

「堀田さん、松田さん、畔木さんのペースが上がりました。先頭とは二十五秒差です」

「あっという間に五秒も縮めたのね。さすが畔木さん」

「やっと畔木さんのマシンが本調子になったようです」

 メカニックが無線に割り込んで報告してきた。

「うん、これからだ。焦らず攻めるんだぞ」駿は、祈るように心の中で叫んだ。

 四周目の後半、颯空のペースは更に上がった。既に、前を走行していた七人のライダーたちを追い抜いていた。

「残るは二人。颯空ちゃん、一人ずつやっつけようか」駿は、モニターを見ながらつぶやいた。

「堀田さん、岡村さんが状況を教えろって言ってますが」

「はい、わかりました。部長、聞こえますか?」

 堀田は、無線を本社の専用回線に切り替え、岡村のいるオフィスにつなげた。

「聞こえてるよ。隣に常務もいる。順位はどうなってる? だいぶバラけたようだが」

「はい、先頭は二台がデッドヒート。少し遅れて一台。残りの七台は集団でいます」

「例の彼女は?」

「畔木さんですね。今、先頭から二十秒ほど遅れて三位です」

「スタートでエンストしたライダーだね。ゼッケンは十番だな。挽回できるのか?」

「はい、松田さんの見解では大丈夫だということです」

「そうか、松田君がそう言うなら期待しているよ。続けてくれ」 

 堀田と岡村が話している間にレースは五週目に突入した。

「タイムは?」

「畔木さんのですか?」

「そうに決まってるでしょ」

(おぉ、怖っ。堀田さん、なんか殺気立ってる)

 水島の顔がひきつった。

「先頭との差は九秒です」

「更に十秒も縮めたの? 凄い、ホント凄いわ」

 堀田は、横にいる駿を見たが表情は変わっていない。モニターを見つめたままじっとしている。感情を出さないようにしているのか、それともこの状況を予測して余裕をかましているのか、それはわからなかった。

「ここからが勝負だ。颯空ちゃん、焦るなよ」

 堀田には、松田の言っている、ここからの意味がわからなかった。今のペースで行けば、優勝をかっさらうのは確実だからだ。


「畔木さんが先頭の二台に追いつきました。S字コーナー手前で団子状態になってます」

 マーシャルが無線で伝えてきた。先頭にあっという間に追い付いた颯空だったが、それ以後、いくつかコーナーをクリアしても順位は変わらぬままだった。

「やっぱりそうか」

 駿がつぶやいた。

「やっぱりって?」

 堀田が反応して聞いた。

「岡村さんの言ったとおりだ」

「どういうこと?」

「抜き方を知らない」

「えっ? あんなに速いのに?」

「峠では抜群のセンスがあっても、コースとは勝手が違うんだ。それに追う相手は素人とは言っても練習を積んでいる連中だ。彼らにも意地がある。そう簡単に抜かせるとは思えない」

「そういうことですか」

 颯空が楽勝で優勝をかっさらうと思い込んでいたが、暗雲が立ち込めてきた。駿の話が本当なら、トップに躍り出るのは容易ではない。しかも、ゴールまで残りはわずかしかない。集団は、最終週に突入した。


「畔木さん、前に出ます」

 水島がそう言っている間に、メインストレートで颯空は前を走る二台を抜きにかかった。同じ性能のマシンのはずだが、コーナーの立ち上がりからストレートへの伸びは、颯空のマシンが他より優っている。

「畔木さんのマシン、状態がずば抜けているわね」

「いや、そうじゃない。最終コーナーの途中からフル加速で立ち上がって、ストレートに入ってすぐにトップスピードまで持っていったんだ。颯空ちゃんは、練習で何度もこの走り方を繰り返していたよ」

「もしかして、抜くのが苦手なのを気づいていたとか?」

「それはわからない。そんなこと言わなかったから。でも、練習しながら、どうやって抜けばいいのか、自分なりには考えていたと思う。ストレートで一番早くトップスピードに到達するにはどうすればよいかを、何度も俺に聞いてきたからね」

 颯空は、先頭の二台に追いついたがなかなか前に出られない。三台並んだまま第一コーナーに入り、イン側を確保していたゼッケン二番のライダーが先頭になった。颯空は、また三位に戻った。


「抜き方を知らないのは確かだ。サーキットで競ったことがないのだから。でも、練習でそれを想像しながら彼女は走りのレベルを上げてきたんだ。きっと、やってくれるはずだ」

「もう、残り半周です。がんばって、畔木さん!」

 堀田と水島はモニターに釘付けになった。

「どこで仕掛ける? チャンスはほとんどないぞ」

 それをわかっていたのか、颯空はあのコーナーで勝負を仕掛けた。

「そこで抜く気か?」駿が大声を張り上げた。

「そこは駄目よ。次のストレートまで待って」

 駿と堀田がモニターに向かって叫んだが、その声は届くことなく、颯空はシケインに突っ込んでいった。

「あっ!」

 シケイン入口でインをついた颯空は、前を行く一台を交わした。次の切り返しで素早く態勢を入れ替え、今度はアウトからトップを一気に追い抜いた。エンジンを高回転で維持したままシケインを走り抜き、立ち上がってバックストレートに入ったときには、数台分の差がついていた。

「やったー!」

「よっしゃ!」

「すっごい。すごーい! シケインで抜くなんて。もう、鳥肌立っちゃったぁ!」

 ピットの三人は颯空のウルトラCを見て歓喜した。

 残りの走りは颯空の独走状態になった。二位との差はどんどん開き、たったの半周で五秒以上の差をつけた。メインストレートでマーシャル全員が手を振って出迎える中、颯空は鮮やかにチェッカーを受けた。


「よっしゃぁー」

「やってくれたぜ。とうとうやったぞ颯空ちゃーん!」

「私、今日から畔木さんのファンになりまーす!」

 三人は、感情を爆発させた。歓びをどう表現すればわからず最大級の大声でわめき続けた。出場者全員が無事にチェッカーを受け、ラストランを終えてピットに戻ってきた。最初に戻って来た颯空の元へ、駿は駆け寄った。

「颯空ちゃん、おめでとう。よくがんばったね」

 そう言いながら駿はピットの前で停止した颯空に近づいたが、颯空は、すっとバイクを降り、そのまま誰とも言葉を交わさず、ピットから出て行った。

「颯空ちゃん!」

「畔木さん、待って、どこに行くの?」

 駿や堀田の呼びかけを無視して、颯空はヘルメットも脱がずに足早にサーキットを出て行った。

「私、連れ戻してきます」

 水島が颯空の後を追おうとしたが、駿がそれを止めた。

「すみません。今は、そっとしておいてあげてください。お願いします」

「どうしてですか? 彼女、優勝したんですよ。祝杯してあげなくちゃ」

「いいんです。今日は、このままで。お願いします」

 駿がそこまで言うので、水島は追うのを諦めた。

「堀田さん、どうしますか?」

「よくわからないけど、あとで松田さんから説明してもらいましょ。畔木さんが優勝したことは事実なのだから、祝勝会は後日、落ち着いてからでもいいでしょう」


 マーシャル達がコースの安全を確認してから、全員がピットに戻って来た。出場した選手たちも集まり、ブース内は颯空の話題で盛り上がった。

「女の子だったの? 俺、シケインでぶち抜かれて目が点になりましたよ」

「俺も。まさかシケインで抜いてくるとは思わなかった。あそこ、めっちゃ難しいんだよね」

 颯空もシケインは苦手だった。駿が転倒するくらいなのだから、誰もが難しいと思うのは無理もない。

「ところで、その彼女さんはどこにいるんですか?」

「うん、そのね、よくわからないんだけど、帰っちゃったの」

 今日の颯空の行動について、全く理由を知らない堀田は返事に困った。

「えー、なんでですか? これから祝勝会でしょ。彼女さんとライン交換しようと思ってたのに」

「うん、そうなんだけどね。彼女、急用があるらしくて、祝勝会は後日行うことにしたの」

 優勝した選手が早々に帰ってしまったという事実を知り、関係者含め選手たちは唖然とした。


「すごい選手を見つけてきましたね。誰が発掘したんですか?」

 チェッカーを振ったマーシャルが質問してきたが、駿は返事をせず黙っていた。

「うん、偶然ね、このサーキットに遊びに来たのよ。そのとき、お友達とポケバイに乗ってミニコースを走ってたのね。それを見ていたら、あまりにもペースが速かったので、タイムを計ってみたらコースレコードになってたの。それで声をかけたら、バイクの凄腕だってことがわかって。それがきっけかよ」

 堀田は、事実のようでそうではない話をその場で作り上げた。偶然とは凄いと感心するマーシャルと選手たちは、颯空との再会を楽しみにして解散することにした。

「祝勝会の日程は後日連絡します。本日はお疲れさまでした」

 祝いの席はカフェに用意してあったが、メインが不在ではカッコがつかないので中止とした。

「では、僕もこれで失礼します」

 駿が、丁寧に堀田に挨拶した。

「はい、お疲れさまでした。今日の颯空ちゃんの行動については、祝勝会までに説明してください。命令ですよ」 

 結果に満足した堀田は、今日のいきさつを責めることなく、穏やかな口調で駿にねぎらいの言葉をかけた。

 駿は、ピットを後にした。颯空と会話を交わすことはできなかったが、夢を実現した達成感に包まれ、無事にレースが終了したことに胸をなでおろした。駐車場に停めておいた舞の車に乗り込んで、エンジンのスタートボタンに指をかけたとき、携帯電話が鳴った。岡村からだ。

「はい、松田です。お疲れ様です」

「おつかれ。見事に優勝してくれたな。常務も喜んでいるよ」

「ありがとうございます」

「これからの予定は堀田君と協議していくことにする。君にはアドバイザーとしてチームに加わってもらう」

「はい、喜んでお受けいたします」

 そうは言ったものの、内心は穏やかではなかった。今度、颯空に会ったとき、どういう顔でいればいいのか、全くわからなかった。

「ところで、今日は、浅黄君はそっちに来ていないのか?」

「浅黄君、ですか?」

 浅黄とは、望のことを言っているのだろうか? 

「浅黄望さんのことですか?」

「そうだ。望郷の望と書いて、のぞみと読むらしいが、その人だ」

「彼女、いや彼をご存知なのですか?」

「うん、知っていると言うか、写真に彼が写っているんだよ」

「写真、ですか?」

「畔木から送られてきた絵葉書に集合写真が貼ってあって、そこに浅黄君が写っているんだ」

「はぁ、そうですか」

「何度か練習風景を映像で見せてもらっていたけど、そこに浅黄君がときどき写っていたから、今はどうしているのか聞いてみただけさ」

 絵葉書の写真の中に望がいる? 駿は、訳が分からなかった。

「すみません、よくわからないのですが、それがどうかしたのですか?」

「畔木が書いた葉書の文には、将来有望なのは娘の颯空と浅黄君と書いてあってね。今も走っているなら、相当な腕になっているだろうと思ってさ。それが知りたかっただけだよ」

 望がバイク乗り? 畔木さんのライダースクールに所属していた?

「岡村さん、すみませんが、もう少し詳しく教えていただけませんか」


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