第16話 不埒な男

 舞から電話が入ったのは、颯空とデートの約束をしていた日の前日だった。

「駿、わたし、舞です」

「舞、今、どこにいるんだ?」

「東京の実家」

「東京? そうか。その前はどこにいた?」

「沖縄よ。かーぶちー、届いたでしょ」

「やっぱりそうか。望ちゃんがソフトドリンクにして飲ませてくれたよ」

「早速使ってくれたのね」

「ぜんぜん連絡がないから心配したぞ」

「あら、連絡なら電話してくれれば済むじゃない。それより、駿だって人のこと言えないわよ。颯空ちゃんに夢中で私は放置?」

「いや、そんなことないけど、たしかに颯空ちゃんのことで忙しかった。ごめん」

「素直ね。まぁ、いいけど」

 駿はテレビのスイッチをオフにした。くだらない芸人が無意味な大声で騒いでいたので、電話に集中するために雑音を消した。

「実家にはいつ戻ったの?」

「一週間くらい前。もう用事は済んだから、明後日には北海道に戻る」

(明後日か。明日は颯空とでかけるから都合がいい)

「何時頃到着する予定なんだ?」

「まだチケット買ってないからわからないけど、多分、午後ね。お買い物してから戻る」

「うん、わかった」

「広ちゃん、牧場にいるの?」

 そういえば、最近、広大の姿は見ていない。牧場の経営はどうなっているのか? ホテルの支配人と牧場の班長に任せて安心しているのはわからないが、経営者の判断が必要な問題が起きたらどうするつもりなのだろう。

「いや、牧場にはいないと思う」

「そう、やっぱり」

 いつもの舞と違う。何か思いつめたような、重たい雰囲気が電話の声から伝わってくる。

「舞、なにかあったのか?」

 舞は返事をしなかった。しばらく無言が続いた。電話が切れたのかと思い、駿は電池の残量を確認した。

「駿・・」

 舞の小さい声が聞こえた。電話は切れていない。

「どうした?」

「私、広ちゃんと別れたの」

「は?」

「離婚、したの」

「マジかよ。いつ?」

「先週よ。離婚届郵送したの。彼、受け取ったかな」

「なんで急に。理由は何なんだよ」

「理由は、あなたよ」

 言われるまでもなかった。いつかは知れてしまうと思いつつも、駿は舞との縁を断ち切ることができなかった。できなかったというより、考えもしなかったというほうが正しい。とうとう、この日がきてしまったのかと、駿は今更ながら後悔の念を抱いた。

「やっぱり俺がいけなかったのか」

「駿が悪いわけじゃない。誰も悪くない。いつかはこうなる運命だったの」

「でも、俺は舞が結婚してからもずっと付き合いを続けてきた。終わりにすればよかったのに、ずるずるとここまできてしまった」

「それは私も同じ。それに、いつからなのかはわからないけど、彼、私たちのこと知っていたみたいよ」

「なんだって? バレていたのか。広大、何も言わなかったじゃないか。よく平気でいられたな。普通なら一刺しされても仕方ないくらいだ」

「それが、その一刺しは彼にはできないの」

「本当に一刺しするって意味じゃないぞ」

「うん、わかってる。彼には女がいるから、駿や私を責められないのよ」

(真面目一辺倒で遊ぶことを知らない広大に女がいるだと。信じられない。舞を溺愛していたはずなのに。どこで道を外したのか)

「女って、どこの誰?」

「会社の総務部にいる若い子。最近わかったの。彼、若い女が好きなのよ。颯空ちゃんをはじめ、牧場のスタッフは、責任者を除いてみんな若い子たち。きっと性癖なのね」

「舞だって・・」

 そこで言葉に詰まった。最後まで言い切ればよかったが、時すでに遅し。

「なによ。そうよ。私は、もう、おばさんなのよ」

「そんなこと言ってないだろ。人の話は最後まで聞くこと」

「じゃぁ、言ってみてよ」

「舞だって、まだまだ若いってことだよ」

「まだまだ、か。別にいいけど」

 弁解はその目的を果たせず、少し寒くて重い空気が流れた。

「これからどうするの?」

 駿は、話を切り替えた。

「とりあえず、北海道に戻る。荷物整理したら沖縄の友達のところへ行くつもり」

「牧場の経営は?」

「知らない。権利は全て放棄するから」

「そうか。自分で決めたのなら、それでいいだろうけど、もう一度考え直すことはできないのか?」

 その質問に舞の返事はなかった。

「ねぇ、駿。そっちに戻ったらお顔見せてよね。沖縄に行ったらしばらく会えなくなるから」

「戻るの、明後日だよな。何時頃?」

「さっき教えたでしょ。お買い物して戻るから午後よ。なにか用事でもあるの?」

「いや、ないよ。なにもない」

 たしかにこの日はなにもない。用事は前日だ。このことを舞に言うべきか。きっと、言えば不埒な男と思うだろう。駿は、自分の口を封じた。

「ねぇ、駿」

 話はまだ続いている。

「ん?」

「これからは、私たち、自由に、そして堂々と会えると思うの」

「たしかに」

「私ね、思うの。もう、潮時かなって」

「潮時?」

「うん。遊びは潮時ってこと」

「俺とのことが、ってことか?」

「沖縄の友達に久しぶりに会って、いろいろ話しているうちに気づいたの。私は駿を選ぶべきだったって」

「そう。でも、そのチャンスは与えたつもりだったけどな」

「そうね。どちらかを選べって言われたわよね。私、よく考えもせずに広ちゃんを選んじゃった」

「どうして俺じゃなくて広大を選んだのか、理由は聞いていなかったな」

「沙織にね、言われたの。安定を取ったのねって」

「安定?」

「そう。駿にはない安定した生活よ」

 単純な答えだった。改めて言われることでもない。学生時代、広大は堅実に経営を学び将来に備えていた。反面、駿はプロのレーサーになって世界中を飛び回ることだけを夢見て、学業はそっちのけでバイクのレースに明け暮れていた。

(そういうことなのか。俺と一緒になれば人並みの生活はできないと思われたようだな。たしかにそうかもしれない。俺は、いつだって自分のやりたいようにしてきた。家庭を持つなんて考えたこともない。あのとき、俺を選んでいたら普通の生活はできなかっただろう)

「俺を選ばなかった舞の判断は正しかったと思う。ならば、なぜ今まで・・」

「それはね、きっと、刺激よ。広ちゃんにそれはないの」

(俺は、都合のいい男ってことか)

「あのね、駿。私、やり直したいの」

「どういうこと?」

「駿、私と一緒になってほしいの。お願い」

 素直に、はい、とは言えなかった。出会ったころはそれを望んでいたかもしれない。でも、今は、遊び相手として舞は存在するのであって、生活を共にするパートナーではない。

「一緒にって、結婚してほしいってこと?」

「うん、ずっとそばにいたいの」

(今までは、都合のいいときだけ会ってきた。そういうときに会えるのがよかった。一緒になればいつでもということになる。それはどうなのか。誰にも束縛されず、自分の時間を自由に使ってきた生活が終わってしまうのは、耐えられないのではないか。俺にはできないし、その生き方は今は必要ない)

「舞、そう思ってくれるのは嬉しいよ。でも、今すぐでなくてもいいだろ? 俺にはやりたいことがあるから」

「颯空ちゃんでしょ。わかってる、つもりだけど」

「とにかく、いろいろあって大変だったな。戻ってくるのを楽しみしているよ。きっと、今までとは違った気持ちで会えるだろうさ」

「そうね、私も楽しみにしてる。明後日だから、ちょっとだけ辛抱すればお顔が見れるわね」

(なぜだろう。これからは舞と堂々と会えるというのに、不思議と嬉しさがこみあげてこない。それよりも、この不安な気持ちはどういうことだ。きっと、今は舞を受け入れる時ではないのかもしれない)


「じゃあ、明後日。待ってるよ。空港に着いたら連絡してくれ」

「うん。ありがとう、駿」

 電話を切った後、駿は冷蔵庫から缶ビールを出した。その夜は、酔いつぶれるまで飲み続けた。

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