第15話 思わぬ展開
「本当に出場してくれるんだね。ありがとう」
「はい、そのつもりです」
「乗り気ではなかったはずだけど、どうして出ようと思ったの?」
「最初は、少し怖かったんです。それに、全く興味がなかったので。でも、初めてサーキットを走って、何周かするうちにすごく楽しくなってきて。もっと走ってみたくなりました」
駿と颯空は、サーキットでのテストランから数日後、茅森牧場のレストランでランチをとっていた。
「レースまで一週間あるけど、練習走行は昨日で終了してしまったから本番まで少し間がある。そこが少し心配だよ」
颯空が思う存分練習できるように、堀田の計らいでいつもコースを貸し切りで用意してくれた。駿が練習の全てに立ち会い、各コースの攻略方法やレースの運び方などについてアドバイスを行った。その甲斐があって、颯空の走りは初めてコースを走ったときよりも各段の成長を遂げた。
「本番は六周ですよね。それくらいなら、多分、いつでも大丈夫だと思います」
練習では常に三十周以上をこなしてきた。時間と体力に余裕があるときは、午前と午後にわけて五十周したこともあった。たったの六周であれば体力気力ともに十分耐えられる。
「さすが颯空ちゃん」
「完走するだけでいいんですよね?」
参加することに意義があるという古い言葉があるが、結果を出すことに意義があると言ったほうが現代には合っている。颯空には次のステージへ上がってもらいたい。そうでなければ、ここまで彼女に力を入れてきた意味がないからだ。それは堀田も同感だろう。
「うん、初めてのレースなので、まずは完走することだね。そして怪我をしないこと。結果は後からついてくるよ」
結果に期待してはいるが、優勝を目指せとは言えなかった。ビギナーに余計なプレッシャーは禁物だ。だが、言わずともテスト走行のタイムからすれば、ぶっちぎりで優勝するのは目に見えている。あとは、無難に完走できるように周りが万全を尽くせばいいのだ。
二人は窓際の席にいたが、明るい日差しが入り込み少々暑く感じてきた。とりあえずランチを済ませ、席を陽の当たらない店の奥へ移した。
「ケーキセット、お持ちしましたぁ」
紅茶とケーキのセットを持ってきたのは望だ。
「ランチ、ごちそうさまでした。美味しかったですよ」駿が礼を言う。
「ありがとうございまーす。私もご一緒したかったけど、お二人の邪魔なので、また今度にしますね」
「邪魔なんて、そんなことないよ。一緒に食べればよかったのに」
颯空は何度も同席するように誘ったが、望は調理に集中したいと言って同席しなかった。
「そうしたいところですが、シェフの目が怖いので。では、ごゆっくりぃ」
望は、踵を返して二人に背を向けると、腰を左右に振りながら厨房に戻っていった。
「本番当日は、松田さんも来ていただけるのですか?」
「もちろん。スタッフとしてピットで待機しているよ」
「よかった」
颯空は、望が淹れた紅茶を飲んだ。運ばれてきたときには気づかなかったが、
「これ、マリアージュフレールだ」
「そうなの? 颯空ちゃんの部屋にあった紅茶?」
「はい、同じものですね。いつ仕入れたんだろ?」
望に聞こうと思い厨房に声をかけようとしたが、調理に集中しているように見えたので、あとで聞くことにした。
「奥様、かな?」
「舞さんのこと?」
「はい、以前、マンションに来た時、レストランに入れようかなって言っていたので」
「なるほど。そうかもね」
(舞は、どこで何をしているのだろう?)颯空が初めてサーキットを走ってから、駿は、ほとんどの時間を颯空につぎ込んできたので、彼女ことを考えている余裕はなかった。
「そういえば、舞さんの姿を見ないね」
「私も見ていません。オーナーはよく見ますけど」
舞の姿を見たのは、あの日の朝が最後だ。広大は舞がいないことについて何も聞いてこない。妻が不在でも心配している様子がない。
「あとでオーナーに聞いてみるよ。ちょっと心配になるよね」
電話すれば済むことだが、舞との仲を颯空に怪しまれないように、遠回しに答えておいた。
「はい。旅行しているのかもしれませんね」
今日の空は雲ひとつないブルー一色だ。風が耳元で静かにささやき、少し体を動かせばうっすら汗をかく程度の気温。寒くもなく暑くもない。外を散歩するには絶好の気候だ。
「颯空ちゃん、散歩しようよ」
レストランの外周は庭園のような造りになっている。池はないが、整地された芝生の道を散歩することができる。
「はい、食後のお散歩ですね」
二人は外に出てみたが、思いのほか日差しが強かった。五分も歩かないうちに、背中に汗が流れ始めた。颯空は着ていた淡いブルーの、ラルフローレンのパーカーを脱いだ。半袖の白いTシャツに心地よい風が当たり、汗がすーっと引いた。
「気持ちいですね」
「うん、風がいい感じだ」
「私、裸足になっちゃおうかな」
庭園の芝は、ゴルフ場のグリーンよりも少し長く刈られていた。颯空は、スニーカーと靴下を脱ぎ、素足になった。
「あぁ、気持ちいいですよ。松田さんもどうですか」
素足になることに抵抗はない。駿も、革製のスニーカーを脱いで裸足になった。こんなことをするのは子供の頃以来だ。
「ほんとだ。少しくすぐったいね」
「すぐ慣れますよ」
芝生は、野球場ひとつ分くらいの広さがあった。所々にシラカンバが植えてあり、白い樹皮が芝の緑と相まって鮮やかだ。二人は、二十メートルはあろうかと思われる、背の高いシラカンバの根元にあるベンチに腰を下ろした。
「なにか、飲み物持ってくればよかったね。少し歩いただけで喉が渇いたよ」
「そうですね。私、何か買ってきます」
「いや、いいよ。俺が行ってくる。レストランに何かあるよね 望ちゃんに頼んでみるよ」
そう言って、駿は裸足のまま芝生の上をレストランに向かって歩き出した。足の裏に伝わる、柔らかい芝の感触が気持ちいい。すり足で歩きながら、そのままレストランの中へ入っていった。
「あの、浅黄さん、いますか?」
フロアでテーブルを拭いていたスタッフに声をかけた。
「いらっしゃいませ。松田様ですね。浅黄さんは厨房にいます。行ってみてください」
見ると、厨房の奥で望がシェフと談笑していた。デシャップに近づき、声をかけてみた。
「望ちゃん!」
聞きなれた声に、望はすぐに反応した。
「松田さーん。どうしたの?」
シェフとの会話をそっちのけにして駿に近寄って来た。
「忙しいのにごめんね。飲み物が欲しいんだけど、外に持っていけるようなもの、なにかあるかな?」
「はーい、冷たいほうがいいですよねぇ。すぐに用意しまぁす」
望はそう言って厨房の奥に戻り、シェフに声をかけて、ウォークイン冷蔵庫に入って行った。
「はーい、おまたせしましたぁ」
五分ほどして、望が蓋のついたテイクアウト用のカップを二つ持ってきた。
「ありがとう。何が入っているのかな?」
「うん、かーぶちーの炭酸割です」
「かーぶちー?」
「沖縄のフルーツよ。よくわかんないけど、奥様が仕入れてきたの」
「そうなんだ。舞さんは、いまどこにいるの?」
「それが、誰も知らないんです。かーぶちーは、沖縄から宅配便で届いたので、旅行しているんじゃないかって、みんなで噂してました」
(そういうことか。それなら気にすることもない。いずれこっちに戻ってくるだろう)
「ありがとうね。望ちゃんも来れば? 外は風が心地よくて気持ちいいよ」
「はーい、もうすぐ休憩なので、あとで行きまーす」
飲み物が入ったカップをトレイに乗せて駿は店を出ようとした。ドアの前に来たところで、望が自分を呼ぶ声がした。
「松田さーん」
振り向くと望が小走りで寄って来た。
「なんだろ? ドリンクのお金かな」
望は、駿に耳打ちするように小声でこう言った。
「松田さん、なんで靴履いてないの? 周りのお客様、笑ってるわよ」
「俺が笑われてる? さっき、芝生が気持ちいいから、靴脱いじゃったんだよ」
「そうなの? それならいいけど、何かあったのかと思った」
「うん、そういうことです。ありがとうね」
駿は、店を出て颯空の待つシラカンバまで戻った。途中、店を振り返ると、ウインドウ越しに客がこっちを見て笑っていた。
「颯空ちゃん、おまたせ!」
スマホの画面を見ていた颯空は、駿が裸足のまま歩いてきたので、あっけにとられた。
「松田さん、そのままで行ったんですか?」
「そうなんだよ。うっかり裸足だってこと忘れちゃっててさ、望ちゃんやお店の客に笑われちゃったよ」
駿は、持って来たドリンクを手渡した。
「すみません、ありがとうございます。これ、なんですか?」
「望ちゃんが作ってくれたんだけど、かーぶちーという沖縄の果物を搾って炭酸で割ったらしいよ」
カップの蓋をあけると、ほんのり緑色に染まった液体の中に、透明の氷が浮かんでいた。ひとくち飲むと、あっさりとした柑橘系の香りとやわらかな酸味が喉を潤した。
「なにこれ、美味しい。こんなのあったなんて知らなかった」
「うん、舞さんが仕入れたらしいよ」
「そうなんですか? 奥様、どこにいるんですか?」
「多分、沖縄」
「沖縄?」
「うん。かーぶちーは、沖縄から舞さんが送ってきたって、望ちゃんが言ってたよ」
「ということは、沖縄旅行中、ですね」
「きっとそうだね。新たな食材探してもしているんじゃないかな」
「そっか。いろいろ大変ですね。奥様」
「経営者だから、みんなの知らないところで苦労していると思うよ」
「私、奥様に憧れているんです。容姿端麗で、いつもキラキラ輝いていて、お話しも上手だし、あんな大人の女性になりたいなって、いつも思うんです」
その気持ちはわかる気がする。舞は、女優やモデルとして、表舞台で活躍してもおかしくないほどの美貌と知性を持ち合わせている。同性が憧れるほどの魅力を持っている人は数えるほどしかいない。その誰もがレジェンドとなり、永遠に語り継がれる存在になっていく。舞にも、その素質は十分にある。そんな彼女が、なぜ北海道の地を選んだのかはわからない。自分の魅力に気づかなかったのか、それとも、それ以上の何かがここにあるのか。長年付き合ってきた駿ですらその理由は知らない。
「舞さん、魅力的だよね。男なら誰もが射止めたいと思う」
「松田さんもそう思いますよね。ホント、素敵な人」
「颯空ちゃんも、なかなかだと思うよ」
本人を目の前にしてお世辞を言ったつもりだったが、本音だったかもしれない。
「私はダメですよ。デブだし、性格悪いし。すぐキレるから」
(デブはないだろ。モデル顔負けのスタイルをしているじゃないか。オートバイで鍛えられた、均整の取れた体を持っているわけだし)
「そんなことないよ。颯空ちゃん、とても素敵だと思うよ。俺の彼女にしたいくらいだよ」
(俺は、何を言っているんだ。ひとまわり以上年下の子に向かって)
「ありがとうございます。松田さんにそう言われると嬉しいです」
(ほらほら、若い子は素直だからすぐに信じてしまうんだ。傷つけないうちに、なんとかしろよ)
「ははっ、おじさんの言うことだから、適当に受け流してね」
「受け流さなくてもいいですか?」
「えっ」
(どうするんだよ。真に受けちゃったじゃないか。マジに恋愛に発展したらどう責任を取るつもりだ)
「あ、いやいや、あはは。颯空ちゃん、冗談が過ぎるよ。大人をからから、からかっちゃ、いけないなぁ」
「からかっていませんよ。松田さん、独身ですよね。彼女はいますか?」
(単刀直入、剛速球ストレートできた。いきなりの展開だ。俺はどうすればいい)
「彼女? い、い、いらないけど。間に合ってるし」
「ん? いらないけど、間に合ってるっていうことは、いるっていうことですか?」
「あ、いやいや、間に合ってないです。募集中です」
(募集なんかしてないだろ。何を言っているんだ。そうだ、話題を変えよう)
「いないんですね」
「はい、おりません」
(なにを敬語で答えているんだ。バイクの話に戻そう。俺は彼女のトレーナーだ)
「じゃぁ、今度、デートしていただけませんか?」
「デート? いいねぇ。俺でいいならお付き合いするよ」
(駿、お前はアホか。受け入れてどうする。断れ、今すぐ断れ)
「あの、颯空ちゃん、例のシケインだけど・・」
(レースのことじゃない、デートを断れってば)
「今、観たい映画があって、あと、お買い物もいいですか? そろそろ冬物を見ておきたいから」
(話、聞いてないじゃんか。聞こえるように、もっとハッキリ言え)
「うん、わかった。映画ってどんな?」
(おい、お前、マジかよ)
「そしてバトンは渡された。私、永野芽衣さん、好きなんです」
「うん、いいんじゃない。チケット取っておくよ」
(行く気満々じゃねぇか)
「わーい、ありがとうございます。今度のお休みのときでいいですか?」
「いいよ。俺は時間たっぷりあるから」
「じゃぁ、決まりですね。楽しみにしています」
(犯罪だ。これは重罪だぞ。これからチームの育成選手になろうとしている彼女に手を出すなんて。舞にバレたらどうする。ホテルを追い出されてホームレスだ。そうなったら、颯空ちゃんのマンションに逃げ込むか。おいおい、何を考えている。とにかく彼女を傷つけずに断ろう)
「どこで待ち合わせしますか?」
(おい、待ち合わせしてどうするんだ)
「はい、帯広駅前に十時でどうですか?」
「うん、わかった。そろそろ俺も息抜きしたいなって思ってたところだから。グッドタイミングだよ」
(お前、何か期待しているだろ。颯空ちゃんとウッフンできるとでも思っていないか? いい年して若い子に手をつけようなんて、単なるエロおやじだ。舞に知れたら、確実に海に沈められるぞ)
「今日は、ごちそうさまでした。これからバイトなので、ここで失礼します」
「うん、わかりました。お仕事がんばってね。望ちゃんに、ドリンク美味しかったですと伝えてください」
「はい、ではデート楽しみにしていますね。よろしくお願いします」
満面の笑みを浮かべて颯空はレストランに戻って行った。その後ろ姿を見送りながら、駿の顔はデレデレになっていた。
(颯空ちゃんとデートなんて、超ラッキーじゃん。おっと、着て行く服がないぞ。ジーンズにスエットしかない。さすがにかっこ悪いよな。これから買いに行くとするか)
駿は、部屋に戻り、ヘルメットを取り出した。久しぶりにヴァルシスに跨って、帯広のデパートに向かって走って行った。
そのころ、沙織のマンションを出た舞は、タクシーで那覇空港に向かっていた。
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