第13話 父の背中
「今日はこれに乗っていただきます」
堀田がピットの中に並んでいる二台のSOPIA250を颯空に紹介した。
「ノーマルですか?」
「はい、このまま市販できるノーマルの状態です。前後のサスも含めて全て標準のセッティングです」
堀田がシートに跨り、車体を上下にゆすってみた。その動きに合わせてサスが浮き沈みを繰り返す。
「畔木さん、どうぞ、跨ってみてください」
「はい」
颯空のために柴咲重工が用意した革ツナギのデザインと、SOPIA250のカラーリングは似ていた。カウルからテールまで、全体がメタリックオレンジで統一され、スカイブルーとホワイトのラインが入る。タンクには、マットブラックに塗られたSHIBASAKIの文字が印字されていた。
「軽い、ですね」
颯空は、シートに座りハンドルを握りながら車体を起こしてみた。RVF750のそれとは違い、自転車に乗っているような軽さだ。
「うん、250ccだからね。エンジン、かけてみますね」
堀田が颯空の横に立ち、メインスイッチをオンにした。キーではなく、インパネに内蔵されている指紋センサーで電源が入る仕組みだ。
「これがエンジンスタートボタン。押してみて」
颯空が、右のセパレートハンドルにある赤いボタンを押すと、ブォンと低い音がして、一発でエンジンが始動した。ブルルルとパラレルツイン独特のビートが響く。
「すこし変わった音がするね。こんなだったっけ?」
二人の傍で見ていた駿は、バイクの横にしゃがみこんでエンジンを覗き込んだ。インジェクション部分を確認してみたが、遮蔽版が四方を囲んでいるので中が見えない。
「堀田さん、これって・・・」
「松田さん気が付きましたね。ちょっと違うでしょ。構造を見られないように、インジェクション部分を板で隠しているのですが、実は、水素エンジンを搭載しています」
「水素エンジン?」なんだそれ?と、駿の表情が固まる。
「はい、液化した水素を・・・」
堀田は会社が極秘で進めているプロジェクトについて説明をしたが、駿は、専門用語がいくつも出てきて頭がついていかなかった。業界をゆるがす開発が進行していることだけは理解できた。
「そんなプロジェクトがあったなんて、全く知りませんでした」
「社内でこのことを知っているのは僅かです。車体の完成度は高いのですが、インフラの整備が追い付いていないので、市販化は難しいと言われています」
「そうですか。それで、今日はこのバイクでテスト走行ということですね」
「はい、安全面については検証済みです。私もコースで何度かテストしました。思いっきり飛ばしてください」
「ありがとう。運転するにあたり、何か注意することはありますか?」
「全くありません。ガソリンエンジンと何も変わらないです」
「わかりました。では、早速、行ってみましょうか」
駿は堀田の説明に納得していたが、颯空は二人の話を聞かず、バイクを細部まで目視しながら構造を理解していった。
「はい。まずは慣らしで三周。インターバルを挟んでフリーで3周。その後、畔木さんの体調が良ければタイムアタックとしましょう」
駿は、もう一台のソピアに跨りエンジンを始動した。アクセルを捻るとタコメーターの針が軽く跳ね上がった。ガソリンエンジンの盛り上がるような回転の上昇とは少し違う。モーターが回転するように、スムーズなふけ上りをみせた。
「颯空ちゃん、速度を抑えて走るので、僕の後ろをついてきてください」
颯空は声に出さず、首を縦に振って合図した。駿はギアを一速に入れ、颯空を誘導するようにゆっくりと発進した。十メートルほど間隔をあけて颯空が続く。ピットロードを三十キロくらいの低速で進み、本コースに入ったところで速度を上げた。
「畔木さん、まずはコースを覚えましょう。松田さんのラインをなぞるように走ってください」
颯空のヘルメットに装着してある無線機に堀田が話しかけてきた。
「はい、わかりました」
返事をする颯空の声は落ち着いていた。恐怖感は感じられない。ピット内には、整備士の
「颯空ちゃん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
短いバックストレートに入ったところで、駿が無線を通じて声をかけた。速度を抑え、きれいなライン取りを意識しながら颯空を誘導した。
「堀田さん、車載カメラ写ってますか?」
駿が、映像の状態を確認する。
「はい、オンボードですね。クリアな映像が届いています」
「わかりました。このまま速度を維持します」
最終コーナーを抜けてメインストレートに入った。颯空は、駿の後ろにピタリと張り付いている。
「松田さん、二周目も同じペースでお願いします」
「了解です」
「颯空ちゃん、怖くない?」
駿が優しく声をかける。
「はい、コースの幅が広くて走りやすいです」
二台は第一コーナーに入り、二周目に突入した。
「ねぇ、堀田さん。颯空ちゃん、もうフリーでいいかも」
突然、ブースの端で様子を伺っていた望が声をかけてきた。
「なんでそう思うの?」
「だって、松田さんのペースが遅くて、颯空ちゃんイライラしちゃってるみたい」
「わかるの?」
モニターを覗き込みながら、望が二台の車間を指さす。
「たぶん、コースの状態は一周目の前半でつかんでる。後半、車間距離を一定に保てなくなってきて、颯空ちゃんが速度を抑えるのがつらそうに見えるの」
たしかにストレートやコーナー手前での距離が不安定だ。松田のペースに合わせようとしているが、原付の後ろを大型バイクで追うような、ギクシャクした走りになっていた。
それにしても望の観察力は一体どういうことだ? 小さいモニターの画面を少し見ただけで、颯空の心理状態までわかるというのか。
堀田は、望がポケバイに乗ったときからアマチュアのレベルではないと気付いてはいたが、なるべく早い時期にじっくり話をしてみたいと思った。
「松田さん、三周目に入ります。レベル3までペースを上げてください」
レベルは1から5まである。慣れるまで素人レベルの1で走るように打ち合わせをしていたが、堀田は一気に二段階アップの指示を出してきた。
「レベル3、了解です。いきなり2ランクアップで大丈夫ですか?」
「はい、離れてもいいので進めてください 畔木さん、少しペースを上げるけど、無理せずについて行ってください」
「はい、わかりました」
颯空の返事は変わらず落ち着いている。駿は指示された通りにペースを上げた。レベル1とは段違いのスピードレンジに突入した。後ろへ飛んでいく景色の変わり方が、急に慌ただしくなった。
「大丈夫かな?」
バックミラーで後ろを確認すると、颯空はピタリと追走していた。
「あのときのようだな」駿は、峠でいとも簡単に抜かれたときのことを思い出した。
「いける」
映像を見ながら堀田がつぶやくと、望がパチンと指を鳴らした。
「松田さん、ピットインしてください。いったん休憩します」
「了解」
二台は、本コースから外れピットロードに入った。速度を落としブースの前で停車してエンジンをストップした。
「お疲れさま。畔木さん、どうでしたか?」
堀田が颯空に近寄り声をかける。駿はヘルメットを外して額の汗を拭った。反して、颯空は汗ひとつかいていない。
「緊張しました。でも、道幅が広いのでとても走り易くて気持ちがよかったです」
「どうぞ、おつかれさま」
望が、紙カップに入れたスポーツドリンクを二人に手渡した。駿はドリンクを受け取り、中身を一気に飲みほした。颯空はひとくちだけ含んでカップを望に戻した。
「松田さん、ちょっといいですか」
堀田が駿を連れてブースの外に出た。
「なんでしょう?」
「次のフリー走行ですが、一周目から全開で行ってください。振り切っても構いません」
「はい、いいですけど。颯空ちゃんが無理してついて来ると危ないと思いますが」
「いえ、その心配はないと思います。きっと、いいパフォーマンスが見れますよ。先行に不安があるようでしたら追走でもいいです」
「わかりました。でも、俺もサーキットは久しぶりなので、限界ギリギリまではいけないと思います」
「それで結構です。畔木さんのポテンシャルを確かめてみましょう」
「ねぇ、これちょっとうまーい」
「うわっ、本当。美味しいねぇ」
何かを食べているのか。颯空と望の声が聞こえた。駿と堀田がブースに戻ると、スタッフの二人と一緒に、カップに入ったソフトクリームを頬張っていた。
「なんでソフトクリーム食べてるの?」
用意しろとは言っていない。堀田は少し腹が立った。
「うん、ちょっと息抜きよー」
望が軽い調子で答える。
「誰が買ってきたの?」
「さっき、私が買ってきましたぁ。お二人の分もありますよー」
堀田は緊張感を壊すような望の態度に苛立ちを感じた。叱責する声が喉まで出かかった。
「堀田さん、ここはおさえて・・」
みるみるうちに堀田の顔色が変わり吠えそうになっていたので、駿がささやくように抑えた。
「堀田さん、俺、久しぶりにコースに出たので汗かいちゃいました。自分たちもいただきましょうよ」
それを聞いて、望が冷凍庫の中からカップに入った二個のソフトクリームを取り出した。パフェの店から買ってきたようだ。
「はい、堀田さん、どうぞ。どっちも同じアイスですね」
マグカップサイズの紙カップに、夕張メロンのソフトクリームが山盛りに入っている。トッピングは、メロン、ノースレッド、オーロラがカップいっぱいに盛られていた。
「この前食べた、パフェのミニ版みたいですね」
駿は、アイスをひとくち頬張ると、夕張メロンの香が口いっぱいに広がった。
「なかなかいけるな。これ」
「えー! すごーい! なにこれー おいしぃー」
堀田が笑顔で美味しいを連発した。さっきまでの鬼の形相はどこへやら。女は美味しいものを食べると一瞬で変わってしまうのかと、駿はあっけにとられた。
「こんなのカフェで出してたっけ?」駿が望に聞いた。
「ないけど、私が店長さんにお願いして作ってもらったの」
「そうなんだぁ。望ちゃん、やるじゃなーい」堀田はアイスにご満悦だ。
しばし、全員がパフェを食べることに集中して会話が途切れた。最初にパフェを平らげたのは堀田だ。みんなが食べ終わるのを待って、
「みなさん、食べ終わりましたか?」
「はーい、ごちそうさまでしたぁ」
望が、全員のカップを回収して片づけ始める。
「それでは、元のポジションに戻りましょう」
そう言った瞬間、堀田の表情が総監督のそれに変身した。
一瞬で気持ちを切り替えるのか。さすがは総監督だ。駿が、心の中でつぶやく。
「今度の三周はフリーで行きます。松田さん、状況に応じて続行するか判断をお願いします」
「わかりました。颯空ちゃん、自分のペースでいいので、楽しんで走ってください。僕は後ろを走ります」
「はい、お願いします」
颯空はヘルメットを被り、グローブを装着してSOPIAに跨った。堀田は、パソコンをはじめ周辺機器のチェックを行った。すべての安全を確認し、駿にスタートの合図を出した。
「颯空ちゃん、呼吸が落ち着いたらスタートしてください」
駿の声掛けに颯空は返事をしなかった。しばらくじっとしていたが、自分の心に言い聞かせるようにうなずくと、深呼吸をしてからギアを一速に入れてゆっくりと発進した。本コースに入り速度を一気に上げた。それを見て駿がスタートした。
「速い。いい感じね」
モニターを見ながら堀田がうなずく。
駿もペースを上げた。颯空のライン取りを確認するために後追いを選んだが、なぜか先を行く颯空との距離が詰まらない。
「さすが颯空ちゃんだ。そう簡単には追いつけそうにないな」
駿は、上体をタンクに伏せて戦闘態勢に入った。スピードレンジは更に上がり、スプリント並の速度粋で颯空を追う。
「松田さん、無理しないでください」
堀田は颯空に聞かれないように、専用回線に切り替えてから松田に話しかけた。
「思っていたとおり、かなり速いね。周を重ねたらもっと速くなりそうだ」
「同感ですが、畔木さんと適度の距離を置いてください。追いつくとプレッシャーがかかるので、危ないかもしれません」
「了解です」
そのつもりだった。後ろ姿を視界に捉える距離まで走れば十分と思ったが、再び颯空の姿を確認したのは、メインストレートに戻ってきたときだった。
「畔木さん、二周目です。いい感じですよ。このまま行きましょう」
「はい」
堀田は、パソコンのストップウォッチを作動した。スタートラインを通過すると同時に計測が自動で開始される。
「エンジン、大丈夫?」
「いまのところはなんともないですが、一周目で既にパワーバンド使い切っています。もしかしたらこの後、ヤバいかもしれません」
水島が、ストレートを通過したときのエンジンサウンドと、パソコンに入ってくる情報から車体の状態を説明した。
「バイクの選定をミスったみたいね」堀田がパソコンの画面を見ながらつぶやいた。
颯空は、二周目の最終コーナーからメインストレートに入ってきたが、後続の駿の姿はまだ見えない。
「来るわよ」
堀田とスタッフは、パソコンのストップウォッチに目が釘付けになった。颯空のSOPIA250は、甲高いエンジンサウンドを轟かせてピット前を通過した。
「マジか・・・」
堀田の目がパソコンの画面に釘付けになった。
「一分三十二秒って・・・。間違ってないわよね。ビギナーのコースレコードは一分五十秒よ。十八秒も短縮しているじゃない」
ブースの中で歓声が上がった。そのとき、ようやく駿がメインストレートを通過していった。
「松田さん、リズムが悪いですね。今もトップギアに入っていませんでした」
水島が駿の状態を報告した。
「バイクの調子が悪いの?」
「それはないと思います。送られてくるデータにも異常はありません」
「そう。どうしたのかしら」
「それよりも堀田さん、畔木さんの走りが、さらによくなってますよ」
パソコンのストップウォッチは、二周目のタイムを上回るタイムを表示している。
「うん、そうね。最高速は変わらないけど、コーナースピードが段違いね」
「バイクの倒し込みが鋭くなってます。まるで転倒しているかのような切込みです」
それはプロの走りそのものだった。既に完成された領域に達している颯空の走りに、堀田は身震いするほどの衝撃を覚えた。
三周目。颯空のタイムは一分二十五秒だった。更に七秒の短縮に、ピットの中は大騒ぎになった。スタッフたちは、全員がピットロードに出て颯空が戻ってくるのを待った。
速度を落とし、ゆっくりピットロードに入った颯空のSOPIAが、ピットの前に戻って来た。
「颯空ちゃーん!」
ピットで停車したと同時に、望が颯空に飛びついた。
「危なーい」
堀田が大声を出したが、時すでに遅く、颯空とバイクは一緒に倒れた。
「あらあら、大丈夫?」
スタッフたちが駆け寄り、吉沢が颯空を抱え上げ、水島はバイクを起こした。
「ちょっと望ちゃん、何やってんのよぉー」
ヘルメットを脱ぎながら颯空が大声を出した。
「だって、コースレコードよぉ。颯空ちゃん、すごーい」
「なにそれ? なんかさぁ、すごく気持ちよかったぁ。もっと走りたくなっちゃった」
颯空は、ヘルメットを脱いで乱れた髪を手で整えてから、興奮を抑えるように、ふぅっと深呼吸をした。
「畔木さん、おつかれさま。とりあえず座って休みましょう」
堀田は、バイクが倒れたことには触れず、颯空をブース内のチェアに座らせた。
「はい、ありがとうございます」
スタッフに囲まれた颯空は、タオルで額や首の汗をぬぐってもらい、ミネラルウォーターの入ったカップを渡された。レスキューが大型のサーキュレーターを動かして、体温を下げる処置をした。それは、まるでプロのトップライダーにするような扱いだ。
「あの、堀田さん。忘れてますよ」
颯空に走行データの結果を教えていた堀田に、水島が声をかけてきた。
「なにが?」
水島が指さす先を見ると、駿がようやくピットに戻って来た。
「松田さん、なんでこんなに遅いの?」
「転倒したんです」
「えっ、どこで?」
「シケインです」
「なんで教えてくれないの?」
「いやぁ、みんな颯空ちゃんのところに集まっちゃったので・・・」
「そういうことは早く教えて。でも、ありがとう。最期までモニターで確認くれていたのね」
「ずっと見ていたわけではないです。ちょっとモニターに目をやったら、ちょうど松田さんが転倒する瞬間が写っていました」
そこへバイクから降りた駿がピットに入ってきた。
「松田さん、大丈夫ですか? 怪我は?」
堀田が駆け寄って声をかけた。
「大丈夫ですよ。スピード抑えていたから、どこも痛くないです。それよりすみません。バイク倒してしまって・・・」
「ホントに大丈夫ですか? 念のため、レスキューに手当させますから」
「いいよ。ご心配なく。それより颯空ちゃんはどうでしたか?」
「一分二十五秒。コースレコードです」
堀田がどや顔で答えた。
「コースレコード? タイムアタックはこの後のはずだけど」
「いえ、もう十分です。データもバッチリ取れました。明日中に岡村さんへ報告します」
「そう、なんですね。わかりました」
とんでもない事態が起きていたようだが、転倒で少し混乱していた駿は、今の状況に頭がついていかない。堀田の報告で良好な結果が取れたことはわかったが、なんとなく消化不良というか、その瞬間に立ち会っていないので、拍子抜けした感じがした。
「それで、みんなは?」駿が堀田に訊ねた。
「はい、パフェだと思いますよ」
「パフェ? さっきソフトクリーム食べたでしょ」
「ははっ。松田さん、そこは女の集まりですから。ご理解くださいね」
駿は、転倒した影響でどっと疲れが出た。へなへなと倒れ込むように、ブースにあった椅子に腰を下ろした。
なぜだ。なぜ転倒した。俺の腕が落ちたのか。引退して十年も経つと素人以下になってしまうのか。颯空に追いつくどころか、完全に引き離された。こんなんで、よくも彼女をプロに育成したいなんて言えたものだ。情けない。
駿は、タオルを顔にあてて下を向いいたま、うなだれるようにじっとして動かなくなった。
「松田さん」
堀田が声をかけてきたが、駿は落胆した自分の顔を見られたくなかった。このまま、そっとしておいてほしいと思った。
「松田さん、気分が落ち着いたらカフェに来てくださいね。私、先に行ってますから」
堀田は、人差し指を口に当て、しーっと水島に合図すると、音を立てないように二人はその場を去った。
これからどうすればいい。颯空に指導するなんてとんでもない。鼻で笑われて終わりだ。もう、颯空に顔向けができないじゃないか。逃げたい。何もなかったことにして、消え去りたい。
サーキュレーターの風が、駿の汗だくの体をすり抜けていった。そのまましばらくじっとしていたが、少し汗がひいてきたところでタオルを外し、ゆっくり顔を起こして椅子から立ち上がった。ピットに目をやると二台のSOPIA250が並んでいた。自分が乗ったバイクに近寄って、しゃがみこんだ。
「すまん、転んじまって。傷入っちゃったな。しっかり直してやるから」
SOPIAの横にしゃがみこみ、駿は自分が転倒して破損したカウルに手を当て、削れてしまった部分を指でなぞった。
「松田さん」
今度は堀田じゃない。この声は、望だ。
「どうした?」
駿は顔を見られないように、望に背を向けたまま返事をした。
「みんな、待ってますよ。松田さんを連れてくるように言われちゃったから、来てみたの」
「うん、わかった。先に戻っていいよ。俺もすぐに行くから」
「一緒に行きましょうよ。松田さんと腕組んで歩いてみたいしー」
駿は、バイクをじっと見たまま動こうとしない。
「あの、それから松田さん。颯空ちゃんが聞きたいことがあるって言ってたの」
「聞きたいこと?」
「うん。だから呼んできてって。ね、一緒に行こうよ」
望は、駿の腕に自分の腕を絡ませ、体を引き上げるようにして立たせた。二人は腕を組んでカフェに向かって歩き出した。
「ねぇ、松田さん。彼女いるの?」歩き出してすぐに望が聞いた。
このタイミングで聞くことか? 変わった奴だな。それに、勝手に腕組んでいるけど、どういうこと?。
「いないよ。俺、モテないから」
「うっそー。かなりイケメンなんだけど」
「もう三十六のオッサンだぜ。イケメンなんかじゃないさ」
二人がレストランに戻ると、女性陣の燦々とした笑い声が店内いっぱいに広がっていた。
「この前さぁ、翔くんとマーくん、結婚しちゃったじゃない。私、ショック受けちゃってー。私は、いつまで独身続くんだろうって心配になっちゃった」
堀田が場を仕切って声を張り上げている。
「それ、私も思いました。やっぱり焦っちゃいますよねぇ」
「一般女性と結婚したんでしょ。もしかしたら、私にもチャンスあったのかなぁ?」
堀田のボケに、ないない、それはない、と、全員からツッコミが入る。
「皆さーん、松田さんが戻りましたぁ」
レストランに入ってきた二人は、腕を組んだままだ。
「おっと、松田さん。それはどういうこと?」
堀田がすかさずツッコミを入れる。
「いや、なんでもないさ。望ちゃん、そこに座りましょう」
優しく腕をほどくと、二人は椅子に腰かけた。
「パフェ、食べますか?」
水島がすすめてきたが、既に全員が食べ終わったあとのようで、さすがに今からオーダーする気にはならなかった。
「さっきのソフトクリームでおなか一杯だよ。遠慮しとく。コーヒーをお願いします」
「わかりました」
水島は、店の奥にオーダーを伝えに行った。
「なにか聞きたいことがあるって、望ちゃんから聞いたけど」
全員が駿の顔を見る。
「あの、どなたに聞いていますか?」
堀田が聞き返す。
「颯空ちゃんだよ」
「あっ、はい。あの、シケインのライン取りが難しくて。あそこをもう一度一緒に走っていただけませんか?」
颯空は、窮屈なツナギの上半身を脱いで腰まで下ろしていた。中に着ていた白いTシャツにピンクの下着が透けて見えた。形のいいお椀型の胸は、触れたくなるような衝動に掻き立てられる。駿は、目のやり場に困った。
「シケインか。たしかにあそこは難しいね」
颯空の胸に視線が合わないように、床を見て返事をした。
堀田は、手元のタブレットで颯空の走行データを確認していた。たしかに、シケインの手前でわずかに体制が崩れてペースダウンしている。
「松田さん、アドバイスできますか?」
十勝サーキットのシケインは難所として有名だ。コース幅が狭く、抜きどころはほとんどない。高速から急減速して突っ込むので、ラインを間違えると即転倒につながる。
「なんとかなるでしょう。あと二、三周走らせてもらって、それからでもいいですか?」
シケインはまずくないですか?と、横から水島が堀田に耳打ちした。堀田も同感だったが、
「松田さん、ラインが正確に読めたら、畔木さんとタンデムで走ってみてはどうですか?」堀田が思い付きでアドバイスした。
「タンデム?」
「はい、ソピアはシングルシートなのでできませんが、スクーターがあるので使ってください。畔木さんに走りながら説明できると思います」
「スクーターか。いいでしょう。準備をお願いします」
堀田が水島に目で合図をした。
「あれで、いいですよね?」水島が悟ったように堀田に耳打ちした。
「うん。先に行って用意しておいてください」
「わかりました」
水島は席を立つと、黙ってカフェを出て行った。
「お待たせしました。フルーツパフェをお持ちしました」店のスタッフがパフェをひとつ持ってきた。
「はーい、こちらに置いてください」
「望ちゃん、まだ食べるの?」
吉沢は、パフェでお腹がいっぱいになり、動けなくなっていた。
「うん、私じゃなくて松田さんのよ」
「えっ、コーヒー頼んだのに。俺はいいよ。みんなで食べればいいさ」
「いいじゃない。男の子なんだから食べれるでしょ。コーヒーもあるからぁ」
「望ちゃん、松田さんはサーキットに戻るみたいですよ。私たちも行きましょう」
吉沢は、グラスの水を一口飲み、席を立った。
「うーん。しょうがないかぁ。じゃぁ、ブドウだけ食べさせてあげるぅ」
颯空と堀田は、レストランを出て先にサーキットに戻って行った。駿は、望に無理やりパフェのフルーツを口に突っ込まれていた。
「このスクーターですか?」
颯空の目の前に用意されたスクーターは、街中を走っているそれと何ら変わりはなかった。デザインもどこかで見たような、他社のスクーターと似た造りになっている。
「うん、
「そうなんですね。水素エンジン搭載のスクーターと言われても、外観からはわかりませんね」
「私もそう思う。サウンドや乗り心地、操作感はガソリンエンジンと変わらないのよ」
「電気モーターは作らないんですか?」
「うん、モーターの開発部門もあるのよ。次世代は電気が主流と言われているけど、うちの会社は水素が本命だと思っているの。その流れに遅れないように、開発を急いでいるのね」
世の中は知らないところで猛烈に進歩している。情報を誰よりも早くキャッチし、常に時代を先取りして開発をしなければ企業の存続はない。昭和四十年前後に産まれた多くの男性たちと共に、大量消費時代を追い風に成長を続けてきた柴咲重工は、今後の百年を見据えて岐路に立っていた。
堀田は、S・FLY150のエンジンをかけた。消音材が入っているマフラーから、ジェントルな排気音が流れた。
「松田さん、まだ来ないみたいだけど乗ってみる?」
「いえ、松田さんが来るのを待ちます。私、何気にスクーターって苦手なんです」
「そうなの? 乗ったことはあるんでしょ?」
「あります。初めて原付に乗ったとき転んでしまって、怪我したことがあったんです。それ以来、トラウマじゃないですけど、なんか怖くて。変ですよね」
スーパーバイクで天才的な走りをするのに、スクーターは苦手とはどういうことなんだろう。不思議な子だ。もしかして、スクーターで転倒したことはあっても、ギア付きのバイクでは転んだことがないのか?
堀田は、颯空のことをもっともっと知りたいと思うようになっていた。
「お待たせー」
松田と望は腕を組んでブースまで歩いてきた。その後を、吉沢がクスクス笑いながらついて来た。
「スクーターって、これのことですね」
駿は、望と腕を組んだまま、堀田に訊ねた。
「はい、これも水素エンジン搭載です」
「なるほど。とりあえず、一周してきますよ。颯空ちゃん、問題はシケインだったね」
「はい、そうです。よろしくお願いします」
望は駿と腕を組んだまま離れようとしない。
「あの、松田さん。ところで、その状況は・・・」
堀田は、駿と望がべったりくっついたまま離れないので問いただしてみたが、本人たちは気にする様子もなく平然としている。
「じゃ、望ちゃん。俺、ちょっと走ってきますから、そろそろこのへんで・・・」
「はーい。気を付けて行ってらっしゃいませ」
夫婦か? 堀田は目が点になった。
「あの、堀田さん。松田さんはもしかして、シケインで転倒したショックでおかしくなっちゃったんでしょうか?」
水島が耳元で内緒話をするようにささやいた。
「案外、そうかもね」
駿は、S・FLYに跨り、五十キロ程度の低速でコースに入って行った。そのままの速度を維持して、シケインの手前で停車した。
「なるほど。こうして止まってよくみると、難しいのがよくわかる」
駿は、シケインの入口から出口までを、S・FLYで低速のまま何度か往復した。バックストレートで速度が上がりすぎるのを抑えるためにあるシケインは、約九十度に曲がる二連続のコーナーで構成されている。速く抜けようとすればコースアウトするし、気を緩めれば立ち上がりが遅れてペースダウンになる。
「そうか・・・」
何かを悟ったようにうなずくと、駿はピットに戻った。
「堀田さん、わかりましたよ。颯空ちゃんを連れて行ってきます」
「うん、よろしくお願いします」
「畔木さん、準備はいいですか? 松田さんとタンデムでシケインへ行ってきてください」
ピットの奥で水島と談笑していた颯空は、堀田に促されてヘルメットを被った。
「あっ、ウエアが・・・」
颯空は、ウエアの上半身を脱いだままだった。
「颯空ちゃん、そのままでいいですよ。スピード出さないから」駿が言った。
「はい。わかりました。松田さん、よろしくお願いします」
颯空が、S・FLYのタンデムシートに腰を下ろすと、駿はコースに向けてゆっくり発進させた。
「松田さん、もう少し速くても平気ですよ」
幅広のサーキットを遅い速度で走ると、景色の変わり方が止まったように見えて退屈な気分になる。
「うん、わかった」
アクセルを少し開ける。車体はやんわりと速度を上げ、体に風を感じるようになった。
「なんだか、風が気持ちいいですね。ツーリングしているみたい」
「そうだね。このままツーリングに行っちゃおうか」
駿は、更にアクセルを捻った。今度はガツンと加速し、S字カーブで車体が左右に揺れた。
「あっ」
体を斜めに振られた颯空の手が、タンデムバーから外れそうになった。
「ごめん、大丈夫?」
「大丈夫です。松田さんの体につかまってていいですか?」
「いいよ。その方が安定する。少しスピード落とします」
颯空は、駿の腰を後ろから支えるように腕を回した。
「颯空ちゃん、問題のシケインに着きましたよ」
コースを半周したところでシケインが出てくる。駿は入り口付近でS・FLYを停車させた。
「進入速度は自分の能力に合わせて落とせばいいけど、入るポイントは、コースが曲がり始める直前。早すぎたり、遅すぎてもダメ。ポイントがズレると必ず立ち上がりが遅くなります」
「はい」
なるほど、そういうことか。と、颯空は自分の走りを思い出してみた。たしかに、曲がり始めるポイントが遅くて突っ込みすぎていた。エンジン回転数が一気に下がり失速。ギアのミスチョイスもあり、立ち上がりで遅れてしまっていた。
「走りながら説明するね」
颯空を乗せたままUターンして戻り、再びシケインの入り口まで走らせた。
「ここね。ここからインすればいいんだ」
「はい」
ギクシャクすることなく、一定の速度でS・FLYはシケインをスムーズに抜けた。立ち上がりでアクセルを開け、態勢を崩さずにトップスピードまで加速する。
「すごい。スムーズですね。わかりました。ありがとうございます」
「うん、難しくないでしょ」
「はい」
「じゃぁ、ピットへ戻りましょう」
ピットに向かって、誰もいないサーキットをゆっくり進んだ。周囲を見渡すと、木々の緑色が落ち、赤や黄へと移り変わろうとしていた。
「もう、紅葉なんですね」
「そうだな。ゆっくり走ると、けっこういい景色が楽しめる」
「はい」
颯空は、駿の背中にもたれた。薄いTシャツを通して駿のぬくもりが伝わって来た。子供の頃、父が運転するバイクの後ろに乗り、大きな背中にしがみついたことを思い出した。安全運転だった父は、颯空を乗せたときは、決してスピードを出さなかった。颯空は前を向く父に背中から話しかけ、父もそれに優しく答えてくれた。トコトコ走るバイクのリアシートで、周りの景色を眺めながら、広い北海道の道を走るのが大好きだった。
「颯空ちゃん、降りていいですよ」
「あっ、はい」
いつの間にかピットに戻っていた。慌ててS・FLYから降りる。まだ、駿のぬくもりが、腕の中に残っていた。
「どうでしたか?」
堀田がすぐに寄って来た。
「はい、勉強になりました。ありがとうございました」
堀田は颯空をブース内のレーシングチェアに座らせた。その横に駿も腰かけた。
「では、今後のことについて説明させて下さい。これがレース当日までのスケジュールです」
堀田は、タブレット端末に表示されたスケジュール表を、二人に見せながら説明を始めた。
日程は十月二十四日の日曜日。ビギナークラスのレースに参加します。出走台数は十台。フリーで練習走行後にスタートしてレースは六周します。誰かが転倒した場合は即中断します。本番まで一か月あります。ここを貸し切りにするので、お仕事が休みのときに練習をしてください。レースの結果次第では、柴咲重工の育成選手としてチームのメンバーに推薦させていただきます。
「ざっとですが、質問はありますか?」
「参加するライダーは、速い方ばかりですか?」
颯空が質問した。
「ほとんどのライダーは、事前にコースで練習をするので、それなりのレベルになっています」
「スタートの位置は、どうやって決めるのですか?」
「これね、面白いことに抽選なの」
「クジ、ですか?」
「そうなの。ビギナーだから、予選がないのね。ぶっつけ本番よ」
「先頭だったらいいなぁ」
「畔木さんなら、どこの位置でも大丈夫よ。頑張ってね」
堀田が太鼓判を押すように言った。
「はい」
「他にはありますか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
「はい。では、今日はこのへんでおしまいとしましょう。みなさん、お疲れ様でした」
長いようで、あっという間のサーキット初体験が終わった。颯空は着替えをするため、柴咲重工のトレーラーハウスに入って行った。ブースには、堀田と駿の二人だけが残った。
「松田さん。素晴らしい逸材をありがとうございます」
「いえいえ、とんでもない。偶然の産物ですよ。私は何もしていません」
「畔木さんのポテンシャル、まだまだ伸びますよ。今から本番が楽しみです」
「そうですね・・・」
相槌を打ちながら、駿はトレーラーハウスに目をやり、やや心配そうな表情を見せた。
「なにか気になることでもあるのですか?」
二人とも、望が用意しておいたコーヒーを手に取り、一口飲んだ
「いや、大したことではないのですが、颯空ちゃん、レースに出る気でしたよね?」
「はい、そのようでしたけど」
颯空は、今までレーサー育成の話に興味がないと言い続けてきた。今日も、仕方なく走ってくれたと思っていた。だが、今後のことについて堀田が説明したとき、積極的に質問し、納得していたように見えたのは思い過ごしだろうか。何か心境に変化があったのか? 駿にはわからなかった。
「彼女、レーサーには興味がないと言い続けていました。僕と彼女の職場のオーナーが説得して、とにかく走ってみるだけでいいからと、半ば強引に引っ張りだしたんです」
「それが今日になって態度は一変。積極的に見えたってことですね」
「そうなんです。どうしたのかなと」
「松田さん、興味が出てきてくれたのならいいじゃないですか。流れに任せましょうよ」
「うん、そうですね。深く考えないようにします」そう考えようと駿も思っていた。
「はい。事がうまく運んでいるときは、先へ進むことだけに集中していればいいんです」
ブースのデジタル時計は午後四時を表示していた。夕陽がサーキットを橙色に染めはじめた。北海道の日の入りは早い。
「ねぇ、今日、どうだった?」
「うん、楽しかったよ。でも、ホントのこと言うと、怖かった」
自宅に戻った颯空と望は、ラインの音声通話を使って話をしていた。
「怖かったの? それで松田さんに抱きついたんだ」
「あれは違うでしょ。体勢が崩れそうになったから」
「うんうん、わかってるって。照れなくてもいいからぁ」
「そうじゃないって言ってるでしょ!」
「ふふっ。ムキになってるぅ」
「望、おちょくると怒るよ!」
「はーい、ごめんなさーい」
いつもの、たわいのない話をしばらくして二人は通話を切った。
「なんか、楽しかったな。あんなにサーキットが楽しいなんて知らなかった。また、松田さんにいろいろ教えてもらいたいな。こんどは・・・」
ベッドに横になっていた颯空は、軽く目をつぶると、そのまま深い眠りに落ちた。心地よい疲れが颯空を朝までグッスリと眠らせた。
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