第12話 終焉のとき

 どのくらい眠っていたのか。舞はベッドで横になったまま目を覚ましていた。心地よい疲労感に似ただるさが体に残っていた。

「駿、なんかすごかったな。一本取られちゃったって感じ」

 ベッドから起き上がり熱いシャワーを浴びて服を着た。腕時計の針は十時を少しすぎたところを指している。

「急がなきゃ。ベッドメイクが来ちゃう」

 出入口のドアを少し開け、隙間から廊下を覗き込み、スタッフがいないことを確認してから部屋を出た。

「よぉ、舞。お帰り」

 別邸に戻ると、広大がリビングで新聞を読んでいた。

「いつ戻ったの?」

 広大は出張でいないはずだったが、舞はそれに動揺することなく平然とした。

「きのうの夜だよ。どこに行ってた?」

「ホテルよ。レストランで飲んで、そのまま部屋で寝ちゃった」

「駿と一緒だったのか?」

 そう思うのが普通だろう。とはいえ、簡単に白状するわけにはいかない。舞は、広大と向かい合わせになってソファーに腰かけた。

「レストランでは一緒に飲んだけど、部屋は別に決まってるでしょ。駿はいつものダブルで私はスイートよ」

「そうか。スイートね。でも、昨夜は宿泊できなかったはずだよ」

「なんで? 私、使ったけど」

 勢いでスイートと安易に返事してしまった。他の客が利用していたのかは調べていなかった。

「二日前から浴室が使えないんだ。客が洗面台の鏡を割ったらしくてね」

 そんな話は聞いていない。というより、そんなことがあっても、スタッフから舞が報告を受けることはない。全て広大に連絡が入るように教育されていた。

「そうなんだ」

 舞は、まずいと思ったが表情は崩さなかった。

「そう、そうなんだ、ということだ」

「それで戻ってきたのね」

「その通り」

「来ればよかったのに」

「どこへ?」

「駿の部屋」

「いやいや、お楽しみのところをお邪魔してはいかがなものかと」

「まぁ、そうよね。さすがに入れないか」

「だよな」

 しばらく沈黙が続いた。二人とも次の言葉が出てこない。舞の表情は平静を保っていたが、動揺した体にじんわりと汗が流れた。

「いつからなんだ?」

 舞は答えない。

「いや、これは愚問だったな。知ってたよ。俺たちが結婚する前からだって」

 舞はじっと目線を下を向けたまま、広大の顔を見ようとはしない。

「俺たちが北海道に来てからも、駿が定期的にここへ来た目的はお前に会うためであって、仕事ではないよな」

「そうね」

 舞は、駿との仲をあっさり認めた。この状況でしらばっくれても仕方がなかった。だが、このまま言われっぱなしにしてはおけない。舞は、反撃のチャンスを伺った。

「いつかはこうなるんじゃないかと思っていたけど、こうもあからさまにやられるとはな。関心するよ」

「あからさま、ではないわ。守るべきものはしっかり意識していた」

「まぁ、たしかに。スタッフは誰も気づいていない。それは感謝申し上げる」

 広大は、オーク材の棚に飾ってあるスコッチを取り出した。マッカランのMデキャンタだ。

「ねぇ、それ飲むの?」

「いけない?」

「飾っておくんじゃなかったの? それに、まだお昼前よ」

「飲まないでやってられるか、と言いたいところだが、あっさり白状した君に乾杯させてもらうよ」

「そう。お好きにどうぞ」

 広大は栓を開け、バカラのタンブラーに半分ほど注いだ。この一杯で、大卒初任給と同じくらいの値がする。

「舞もどうだ? いい香りだ」

「そうね。私もいただくわ」

 舞は自分でグラスに広大と同じ量のマッカランを注いだ。

「乾杯!」

 広大が、グラスを合わせようとしたが、舞は乾杯せず一気にそれを飲み干した。ゴホッっとむせたが、すぐに落ち着いた。

「ふぅ、さすがね。ものすごく美味しい。スコッチなのに、刺激がほとんどない」

「成功したやつだけが味わえる逸品だからな」

 舞は失笑するように噴出した。

「おかしいか?」

「成功っていうけど、宮園リゾートにうまく乗せられただけでしょ」

「おっしゃる通りだ。太いものには巻かれろってことさ」

「贅沢、したかったのね」

「そうさ。小さな牧場だけでは、ここまでのし上がれないだろ。それどころか、今頃倒産していたかもしれない」

「私は贅沢になんか興味ないから」

「よくそんなことが言えるな。外車乗り回して、全身ブランドで着飾っているじゃないか」

「つまらないからよ。毎日が」

「どうして? 十分楽しんでいるだろ。しかも男付きでさ」

 表向きはたしかにそうだ。だが、こうなってしまったのは広大が原因であり、自分には非がないと舞は思っていた。

「あなたと結婚してここへ来た頃はとても楽しかった。余裕はなかったけど、自然がいっぱいで、のんびり草を食べる牛の飼育や、チーズを手作りするのが好きだった。自慢のおいしい牛乳を、道内の一流ホテルが競うように買い求めてくれたのがとても嬉しかったな。でも、今はそんな感動はひとつもない。あるのはお金と暇な時間だけ。もう、ここの暮らしには興味がないの」

「きれいごと言っているけど、その裏で堂々と男遊びができるっていうのは、普通じゃないよな」

 反撃するのは今だ。自分が浮気をしていることなどどうでもいい。目の前のつまらない男に、今日こそ一太刀浴びせてやると意気込んだ。

「男遊び、そうね。ずっとだましていてごめんなさい でも、人のこと言える?」

 一瞬、広大の頬が小さくひきつった。舞はそれを見逃さない。

「なにが?」

「なにがじゃないわよ。この前、私が同席して札幌の定例会議に出席したでしょ」

 声を荒げることなく冷静にしているが、その話し方には威圧感があった。

「契約した日のことか?」

「そう。あの会議のあと、どこに行ったの?」

「あのあとは、たしか・・・」

「旭川でしょ?」

「あぁ、そうだ。旭川だ」

「何しに行ったの?」

「宮園リゾートと、建築資材の打ち合わせって言っただろ」

「そう、だったわね。そのあとは?」

「そのあと? 飲み会に参加して、ホテルに泊まったよ」

「函館の?」

「旭川だって言ってるだろ」

「そうなんだ。旭川に、函館プリンスホテルはないわよ」

 ここまで言われて、広大はようやく舞の言っている意味に察しがついてきたが、

「何が言いたいんだ?」と、とぼけて見せた。

「私とすれ違ったの、気づかなかった?」

「どこで?」

「プリンスのロビーで」

「何を言っているのやら。俺は旭川のホテルに泊まったんだ」

 徐々に追いつめられるが、広大は認めようとしない。

「そう。とぼけるんだ。じゃぁ、誰と一緒にいたのか言ってあげましょうか」

「おもしろい。言ってみなよ」

「会議のとき、会場の出入口で私たちが来るのを待っていた女性がいたでしょ。彼女と一緒だったわよ。若い子が好きなのね。そのときの服装も言ってあげましょうか?」

 一巻の終わりとはこういうことかと、広大は言葉を失った。

「そうなんだ。知ってたのか」

「そう、そうなんだ、なのよ」

 さっき言われた言葉を、そっくりそのまま返した、

「お互い様ってことか」

「あら、素直に認めたわね」

「そこまで見られてたんじゃ、しらばっくれるわけにもいかないだろ」

 喧嘩両成敗だ。逆襲をかけて勝負を引き分けに持ち込んだ舞は席を立ち、キッチンで湯を沸かした。颯空にわけてもらったマリアージュフレールの紅茶を淹れた。

「どうぞ」

 普段、二人は紅茶を飲まない。もっぱら珈琲だ。

「なんで紅茶を?」

「いいじゃない。飲みたいからよ」

「スコッチは?」

「もういい」

「そうか。これ、いい香りだな。なんていう紅茶なんだ?」

 修羅場と化すはずの場面だが、紅茶によって水入りになった。広大は興奮して熱くなりかけた気持ちを落ち着かせた。

「マリアージュ、なんとかって。颯空ちゃんにもらったの」

 舞はまたキッチンに立ち、冷蔵庫から瓶を取り出した。中身を小皿に取りわけ、テーブルに戻った。

「今度は何だ?」

「レモンの砂糖漬け。見ればわかるでしょ」

「ほぉ。珍しいな。と、いうより懐かしいと言うべきか」

「昨日、暇だったから十年ぶりに作ってみたの」

「結婚前は、よく食べた記憶がある」

「そうね。あなた、これ好きだったから」

「どうして作った?」

「暇だったから。いま言ったでしょ」

 広大は、レモンを二枚食べ、紅茶を飲み干してから席を立った。

「潮時にするか」広大が舞に背中を向けたまま言った。

 舞はカップを手に持ち、視線を床に落としたまましばらく黙っていた。ふぅっと、ひと呼吸して立ち上がり、木枠の窓から外の牧草地を眺めた。

「昔は、こうして外を眺めていると必ず牛が見えたわ。おなかいっぱいになるまで草を食べ、横になって休み、喉が渇けば水飲み場に行ってたくさんの水を飲む。飼育されていると言うより、ここに住んでいるようだった。いつもゆったりとしていた、あの感じが好きだったわ」

「そうだな」

「今は、どこにもいない。あの頃、ここにいた牛たち」

「牛舎にいるじゃないか」

「あれは牛じゃないわ。家畜よ」

「今も昔も家畜だろ。何を言ってる」

「あなた、やっぱり変わってしまったわね。私の愛した広大じゃない」

「この期に及んで何を言い出す」

 舞は、手に持っていたカップの紅茶をひとくち飲んだ。

「いつからだろ。こんなはずじゃなかった」

「結婚前からずっと俺を騙しておいて、お前が言うセリフじゃないと思うが」

「そうね。もう、幕引にしましょ」

「異議なしだな」

 広大は、舞に背を向けたまま静かに部屋を出て行った。一人になった舞はソファーに腰かけ、まだ温かいティーポットの紅茶をカップに注いだ。時間をかけてゆっくり飲んだが、二杯目は味がしなかった。空になったカップをテーブルに置いて窓を開けた。心地よい乾いた空気が部屋に流れ込む。スコッチで火照った頬に風があたり気持ちがよかった。

「これからどうしようかな。自由になったのよね。わたし」

 舞は寝室に戻り、身の回りの物をまとめてスーツケースに押し込んだ。車のキーを手に取り、玄関の鍵をかけ、自分の車に荷物を積み込んだ。運転席に座りルームミラーを見ると、広大と共に生活してきたわが家が写っていた。

「バイバイ。たくさんの思い出をありがとうね」

 エンジンをかけ、ギアを入れブレーキをリリースする。音もなく滑りだしたSUVは、国道を東に向けて進んで行った。

「住むところ、どうしよう。東京の実家に戻る? それともホテルを転々とするか。すぐにしなくちゃいけないこといっぱいね。でも、なんかスッキリしちゃったな。これでよかったのかも」

 舞の車は、日勝国道から道東自動車道に乗り札幌方面へ向かっていた。途中の千歳東インターチェンジで降りて、そのまま新千歳空港に乗り入れた。どこにも寄らず、食事もしなかった。ただ運転に集中し、頭の中を空にしてこれが最後になるかもしれない北海道の景色をしっかりと目に焼き付けた。


「もしもし、沙織? わたし、舞です」

「舞、久しぶりね。急にどうしたの?」

「うん、ちょっと暇になっちゃって。今からそっちに行ってもいい?」

「それはいいけど、今どこにいるの?」

「千歳よ」

「あのさ、舞、ここは沖縄よ。今からどうやって来るの?」

「飛行機に決まってるじゃない。直行便はないから、羽田経由で行くわ」

「そう、別に構わないけど。ちょうどこっちも暇してたし。久しぶりに飲むか!」

 話は決まった。早田沙織はやたさおりと舞は、東京の杉並で生まれ育ち、高校卒業まで同じ学校に通っていた幼なじみだ。海の生き物が好きで、水族館の飼育員を目指していた沙織は、沖縄に就職が決まり大学卒業と同時に移り住んでいた。

「舞、何かあったの?」

 会うのは三年ぶりだ。いつもはラインで挨拶するくらいだったが、突然会いたいと言うのは、それなりの理由があると思えた。

「何もないよ。ホント、暇になっちゃったから」

「暇っていうけど、ホテルとかレストランの仕事はどうしたの?」

「うん。それもひっくるめて暇なの。とりあえず行っちゃうね」

 それ以上は聞かなかった。酒を飲めば自分から話しだすだろうから。沙織は、予定到着時刻を確認してから電話を切った。


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