第9話 その先にあるなにか
九月下旬。駿が北海道へ来てからひと月が過ぎようとしていた。テレビのニュースで東京は残暑が厳しいと報じているが、牧場の夜はダウンジャケットが必要なくらい冷え込む。
「あと五分」
駿は、岡村が十五時の休憩に入るのを待っていた。颯空の走行動画は三日前に撮影が完了していた。映像は一切加工せず、そのままのデータを会社のサーバーに送った。今日は岡村から映像の評価を聞くことになっている。スマホの時刻が十五時を表示した瞬間に電話をかけた。
「もしもし、岡村さんですか? 松田です」
十二回コールしてようやく岡村は電話に出た。
「よぉ、松田君か。何か用か?」
何か用かじゃないだろと、とぼける岡村に言ってやりたかったが、グッとこらえた。
「いや、その、会社のサーバーに送った映像のことなんですが」
「あぁ、そうだったな。しっかり観ておいたよ」
ちゃんと観てるじゃねぇか、とぼけやがってとも言いたかったが、ここもこらえた。
「彼女の走り、凄いと思いませんか?」
「うん。素人にしてはいい走りだな。ラインがキレイだ」
「俺もそう思います」
ライン取りのことは意識していなかったが、とりあえず岡村に同感しておいた。
「映像はこれだけか? ストレート、S字、ヘアピンの三シーンしかない」
それだけで十分と思っていたが、何が不足と言うのか。
「どんなシーンがあればよかったですか?」
「これだけでもわかるけど、できれば誰かと一緒に走っている映像が欲しいな」
颯空の走行シーンは、舞と望にも手伝ってもらい、勝狩峠のダウンヒルで行った。動くものに注視できるように、カメラは固定にしておいた。颯空はカメラの前を一瞬で通り過ぎて行ったが、その動きはフレームの中に完璧に収まっていた。
「俺が追尾して撮影すればよかったですか?」
「うん、それがあれば尚よかったな。まぁ、いいさ。これで十分だ」
「そうですか。ありがとうございます。では、話を進めてもよろしいでしょうか?」
「話、とは?」
また、とぼけた返事をしてきたが、ここで態度を豹変するわけにはいかない。
「はい、あの、うちのプロ育成プログラムに参加させる件です」
「あぁ、それか。それは、無理だな」
なんでだ? 理由を言えよ、とは言えないので、
「いや、その、どうしてですか? 女性だからですか?」
「男か女かは関係ない。問題は、レースに出て勝てるかどうかだ」
勝てるに決まってるだろ。何を言っていやがる。当然言えない。
「勝てますよね? 彼女なら」
駿は期待を込めて、というより自信を持って言った。
「松田君、この子に相当期待しているだろうが、勝つのは無理だな」
何だと!まだ何もしていないだろ。これから訓練して速くなりゃいいじゃんか。吠えたくなる衝動を、心の奥底へ強引に沈ませた。
「どうして、そう思われるのですか? 素人が撮った映像では駄目でしたか?」
「撮影は問題ないよ。走りはとても素晴らしい 理想的なラインに乗ってる。意識しなくてもこの子は自然体でそれができている」
そこまで褒めておいて勝てないとはどういうことだ。やはり、女だから無理と思っているのか? 駿は冷静さを失わないように、細心の注意を払って話を続けた。
「お褒めいただけて光栄です。でも、それでも勝てないとおっしゃるのはなぜですか?」
「映像の中の彼女はたしかに速い。君を抜き去っただけのことはある。しかし、競争というか、この子は他のライダーと競ったことはないはずだ。単独で走れば稲妻のような走りでも、そこに相手がいればどうなるか。レースは駆け引きの連続だ。しかも集団で走るのだから、自分の思うようにはいかない。峠と違って、サーキットでは自由に走ることなどできない。その意味は、君がよくわかっているはずだぞ」
返す言葉が出てこない。岡村の言っていることは間違っていない。だからといって、これで話を終わりにするわけにはいかない。
「岡村さん。おっしゃっていることはわかります。でも、これで終わりにしないで、もう少しチャンスをいただけませんか? なにかできることがあれば言ってください。俺は、彼女の能力を最大限引き出してみたいんです」
絶対に諦めない。駿の額に大粒の汗が流れた。
「そう言うと思ってさ。手を打っておいたよ」
はっ? だったらそれを先に言えよオッサン。駿は、ポケットからハンカチを取り出し、汗をぬぐった。
「十勝サーキット、知ってるだろ」
「はい。たしか、うちの会社が協賛しているサーキットですね」
そこは、道内唯一の国際レース場として十年前に建設された。運営費が嵩むため、当初から複数の企業が出資することで経営を維持している。柴咲重工はメインスポンサーだ。
「うん。そこにうちのスタッフが数名常駐している。リーダーの
「はい、堀田さんですね。ありがとうございます」
ずいぶん話が進んでいると思った。颯空の件は乗り気でないような印象だったが、先回りしてサーキットのスタッフに声をかけていたとは。何としてでも岡村を説得しようと気張っていた駿は拍子抜けした。
「アマチュアレースに参加させてみるといいだろう。出れば競うことの難しさがわかるはずだ」
「はい、ありがとうございます。早速、堀田さんへ連絡を入れてみます」
「レースの動画、送ってくれよ」
はい、と返事をする前に電話は切れた。駿は堀田へ電話を入れようとしたが、岡村から番号を聞いていなかった。
「サーキットに電話すればなんとかなるだろ」
駿は、ネットで調べたサーキットの代表番号へ電話をかけてみた。応答した女性に事情を説明すると、柴咲重工のブースへ電話を転送してもらえた。
「はい、堀田です」
電話の声は、若くて歯切れのいい女性だった。男だと思っていた駿は、一瞬言葉に詰まった。
「あの、広報部の松田と申します。岡村さんから堀田さんを紹介していただきました」
「あぁ、松田さんですね。伺っております。凄い子がいるそうじゃないですか」
ダメ出ししていたはずなのに、堀田には凄い子と紹介している。岡村は何を考えているのか、駿にはわからなかった。
「そうなんです。僕が峠であっさり抜かれてしまいまして」
「らしいですね。岡村さんは、久しぶりの大物だからしっかりフォローしてくれと言っていました」
「それは心強いです」
岡村がスタッフに颯空を推してくれていた。プロの世界では無理だと言っていたのに、これはどういうことなんだろうと、駿は理解できずにいた。
「近日中に本人を連れてサーキットを訪問したいのですが」
「はい、いつでもどうぞ。とは言っても、月曜と火曜はお休みしているので、他の日でお願いします」
「ありがとうございます。日程調整して、また連絡します」
「はい、あの、ところで、その大物さんはおいくつの方ですか? 岡村さんからの情報がほとんどなくて、詳しくは松田さんから聞くようにと」
「直接会ってみたほうがいいとは思いますが、年齢は二十一歳で、バイクに乗り始めたのは三歳くらいからです」
駿は、自分が持っている颯空の情報をなるべく詳細に伝えた。最後に颯空が女性であることを伝えると、
「えっ! 女の子なんですか。大物の意味がよくわかりました。早くお会いしてみたいです」
堀田の興味は十分あると思えた。あとは颯空を連れてサーキットに行けば、次のステージが見えてくる。まずは、テストマシンでコースを走ってもらおう。
「あの、テストマシンは常駐していますか?」
念のため、マシンの情報を事前に知っておきたかった。
「はい、SOPIA250があります」
SOPIA250は、柴咲重工がレース専用車両として開発した、二気筒のパラツインエンジンを搭載したスーパー・スポーツマシンだ。
「それはいい。乗らせていただけますよね?」
「はい、当然です。乗っていただかないと、彼女のポテンシャルを把握できませんから」
「そうですよね。なるべく早く彼女を連れて行きます。ところで堀田さんは整備士さんなんですか? 女性がいるとは思っていなかったので、驚きました」
日程が決まり次第連絡をすることで話は終わっていたが、駿は聞くつもりのなかった、堀田のことについて質問をした。
「申し遅れました。私は、ここの総監督を務めています。部下は全員が整備士です。私も整備はできますが、プロ育成やスカウトの業務を中心に行っています」
年齢は聞けなかったが、張りのある透き通った声からするとかなり若いことがわかる。こんなチームが会社内にあったとは知らなかった。プロ育成プログラムの本拠地は鈴鹿だが、北海道でも同じようなミッションが進行している。引退後、しばらくレース部門から遠ざかっている間に、社内が変化していたことを知り、駿は自分が取り残されているような気持になった。
「それでは、後ほど日程をお知らせしますので、調整をお願いします」
「はい、連絡お待ちしております。電話でもメールでも、どちらでも構いませんので、よろしくお願いします」
「こちらこそ。今日はありがとうございました」
お互い、丁寧に挨拶をして電話を切った。
「それにしても、若い女性が総監督なんて務まるのか? いや、今は男女の差なんて考えること自体愚かなことだ。彼女に期待して大丈夫だろう」
駿は、颯空の携帯へ電話をかけた。プロへの道筋はできた。あとは、颯空をその軌道に乗せるだけだ。
「もしもーし。どなたぁー?」
5回目のコールで電話口に出たのは颯空ではない。声の主は望のようだ。
「あっ、もしかして望ちゃんかな? 俺、松田です」
望がどなた?と言うことは、颯空の携帯電話に自分の番号は登録されていないということだ。電話をかけるのはこれが初めてではないので、颯空には相手にされていないのだと勝手に思い込んだ。
「松田さんですかぁ。おひさしぶりでーす」
いや、峠で颯空を撮影するために二日前に会ったばかりだが。
「あの、望ちゃんだよね? 近くに颯空ちゃんはいますか?」
「うーん、いけるけど、どうしようかなぁ」
君に用はないんだ。早く颯空と代わってくれ。心の中で叫ぶ。
「颯空ちゃん、電話に出られないのかな?」
「いま、お着替え中なの。ブラつけているところ。フフッ」
望の目の前で着替えているのか? ブラってブラジャーだろ。おっぱい丸出しなのか? 電話の向こうで颯空が肌を露出している。駿は見たことのない裸を連想した。
「待って、いまおわったから。かわるね」
「はい、お待たせしました。畔木です」
颯空は、どんな格好で電話をしているのか? 下着をつけただけなのか? 駿の頭の中で卑猥な想像が膨らむ。
「あの、松田さん、畔木ですけど・・」
妄想が先行して、会話が途切れていた。
「あっ、ごめんなさい。颯空ちゃん、バイクの件でお話があるのですが、いま、大丈夫ですか?」
「はい、どうぞ。大丈夫です」
「いや、服を着てからでいいですよ。下着姿では、こっちがドキドキしてしまいますから」
白い肌と、身に着けたばかりの黒いブラとショーツが脳裏に浮かぶ。駿は、見てもいない颯空の下着姿を想像した。
「え? あの、ちゃんと着てますけど」
颯空の背中で望がほくそ笑む。
「そうなの? でも、望ちゃんが、着替え中だって言うから」
「望ちゃん、松田さんになにか言ったの?」
受話器に手をあてて話しているが、内容ははっきり伝わってくる。
「ううん、言ってなーい。会話を楽しんでみただけよー」
楽しんだとはなんだよ。結局着替えてなんかいなかったのか。騙しやがって。
「そうなんだね。ごめんなさい。まんまと望ちゃんにやられたよ」
「あの、それで松田さん、バイクのことってなんでしょうか?」
「うん、颯空ちゃんは十勝にサーキットがあるのを知っていますか?」
「はい、行ったことはありませんが、あることは知っています」
駿は、堀田との話を簡単に伝えた。
「サーキットで走るのですか?」
「うん、そうなんだ。走行中の撮影をして映像を本部の上司に見てもらいたいんだ」
走行動画撮影は一度だけのはずだった。だから協力したのに。と、颯空は唇をかんだ。
「サーキットは走ったことがないので自信がありません。それに、ワンピースを持っていないので走れないと思います」
「ウエアはこちらで用意するから心配しなくていいです。実際に走るときは、僕が先導します。コースのライン取りやスピードの出し方も教えます」
颯空は返事をしない。しばらく沈黙が続いた。望は静観している。
「あの、松田さん」黙り込んでいた颯空が先に喋った。
「はい」
「いつになったら普通の生活に戻れますか?」
「今も普通の生活だと思うけど、どういうこと?」
「わたし、先日も言いましたけど、レースに興味はないんです。オートバイは好きですが、それは父から譲り受けたバイクに乗っているときだけです。他のバイクには乗りたいとは思いません。できれば、これを最後にしていただけませんか?」
わかりました。最後にしましょう。と言って、次のシチュエーションを用意したらどうなるだろう? 颯空は、二度と自分の言うことを聞かなくなるかもしれない。この返事は重要だ。駿は、しばし黙り込み、珍しくよく考えてから、颯空の質問に答えた。
「颯空ちゃんがそう思うならそれでいいと思います。けど、最後にするかどうかは、サーキットを走ってから決めてもらうのはどうですか? それでも気持ちに変わりがないと言うなら僕は諦めます」
また、しばらく沈黙が続いた。次に言葉を発したのは颯空だった。
「わかりました。サーキットで走ってみます。それで気持ちが変わらなければ、おしまいにしてください」
「ありがとう。事故が起きないように万全の体制を整えます」
「次のお休みは、どちらに伺えば?」
「車で迎えに行きます。九時はどうでしょうか?」
「お迎えはしていただかなくても大丈夫です。望ちゃんの車で一緒に行きます。よろしいですか?」
それは、と言いかけたが、ここは颯空の好きにさせておけばいいだろう。
「もちろん。テスト走行が終わったら、みんなで食事に行きましょう」
わーい! と、望の大きな声が聞こえた。どうやら携帯電話をスピーカーにして話を聞いていたらしい。話はまとまった。駿は電話を切り、すぐに堀田へ連絡を入れ走行会の準備について打ち合わせを始めた。
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