第8話 ラストラン

「いつ帰って来たんだ?」駿が舞に聞いた。二人は舞の車で颯空のマンションへ向かっていた。 

「昨日の夜よ」

「函館から電車で帰って来たのか?」

「車よ。六時間、ノンストップ」

 舞は、函館に泊らずそのままレンタカーで牧場へ帰って来た。翌朝、レンタカーを帯広の営業所に返却して、タクシーで牧場に戻っていた。

「そうか。それは悪かったな。あとで昼飯おごるよ」

「そうね。函館で美味しいもの食べ損ねたから、しっかりおごってもらうわよ」

 二人は、九時に車で茅森牧場を出発した。颯空のマンションがある帯広には一時間弱で到着する。

「ナビの案内だと一時間かかるのね。でも、颯空ちゃんは通勤時間三十分くらいって言ってたわ」

「なるほど」

 駿は、そのからくりの意味がすぐにわかった。

「きのうはなんで函館にいたの? 札幌で会議って言ってたじゃん」

「それね。説明しようと思ったけど、電話切っちゃうし」

「そうだっけ? ちょっと急いでたから。それで、函館で何かあったの?」

「何もないわよ。気晴らしにドライブしてみただけ。それより、颯空ちゃんをプロにするって言っていたけど、そんなことできるの? 会う前にちゃんと聞かせて」

「可能性は十分にある。素質、能力も問題ない。あとは、本人にやる気があるかどうかだけだ」

「颯空ちゃん、そんなに凄いの?」

「峠で抜かれた時、俺はかなりの衝撃を受けた。再び追い抜いてやろうなんて気は全くおきないくらいの完敗だったから。世の中には凄い奴がいっぱいいる。でも、その人たちが必ず脚光を浴びて成功するわけではない。どの世界でもそうだけど、素質、能力に加えて環境に恵まれていないとやっていけないんだ。その環境を俺は颯空ちゃんに与えてあげたい。そういうことだ」

「なぁんかさぁ。駿、真剣だね。なんで?」

「なんでって、なんでだろ? なんでだ?」

「なに言ってんの。もしかして、颯空ちゃんのことが好きになったとか?」

 いたずらっ子の目で駿の顔を覗き込む。

「それはないだろ。俺は夢を与えたいだけだ」

「夢じゃなくて、環境でしょ」

「そ、そうだよ。環境だよ。そう言っただろ」

 子供のような駿との会話はいつもこうだ。舞はそれが楽しくてしょうがない。

「ちゃんと前向いて運転してよ。大好きな颯空ちゃんに会えなくなるわよ」

「そうじゃないって言ってるだろ」

「はい、次の交差点を右ねぇ。ナビをちゃんと見ましょう」

 駿は慌てて右にウインカーを出し、車を右折させた。その次の交差点に来たときナビが到着地であることを知らせてきた。

「ここ、か?」

「みたいね。立派なマンションだわ」

 車は帯広駅前にある二十階建てのマンションに到着した。一階は商業施設で二階から上が住居になっている。

「たしか十五階よ。部屋番号わかるから、呼んでみましょ」

 来客用の駐車場に車を停めて、二人はエントランスへ入った。インターホンで颯空の部屋番号を押すと、すぐに反応があった。

「こんにちは。茅森です。松田さんも一緒です」

「は~い。いらっしゃ~い。いま、ロック解除しますねぇ。エレベーターで十五階までどうぞぉ」

 インターホンから聞こえてきた声は颯空ではなかった。

「いまの声、だれだ?」舞の後ろにいた駿が聞いた。

「誰かしらね。話し方からすると望ちゃんみたいだったけど」

「望? なんで颯空ちゃんのマンションにいるんだ?」

「付き合っているんじゃないの? 颯空ちゃんは、望ちゃんに取られちゃったのかもね。どうする?」

「どうするって、なにがだよ。お前なぁ、さっきから何なんだ? ムカつく」

「あらら、ムキになっちゃって。カワイイのねぇ」

「なんだと!」

 音もなく上昇したエレベーターは、あっという間に十五階へ到着した。ドアが開くと、そこには望が立っていた。

「あー、松田さん、奥様。いらっしゃいませぇ。どうぞ、こちらでーす」

「あら、望ちゃんじゃない。どうしてここにいるの?」舞が聞いた。

「うん、今日は一緒に遊びに行くの。それでお迎えに来ていたんです」

「そう、お約束があったのね。ごめんなさい、用事はすぐに済ませるから」

 エレベーターを降りた二人の先頭に立ち、望は颯空の部屋まで案内した。

「こちらです」

 颯空から預かっていたキーでドアを開けた。

「お客さまをお連れしましたぁ」

「はーい。どうぞ、あがってくださーい」

 奥から颯空の声がした。望がリビングルームまで二人を案内した。颯空はキッチンでお茶の用意をしていた。

「松田さん、奥様。おはようございます」

 軽くあいさつしたあと、三人をテーブルへ着席させた。用意しておいた紅茶とクッキーを差し出し、颯空も望の隣に着席した。

「颯空ちゃん、朝早くからごめんなさいね。この人がどうしても颯空ちゃんに会いたいらしくて、無理にお願いしてしまってすみません」

 着席するなり舞が先陣を切って話を切り出した。

「いえ、大丈夫です。ちょうどお休みだったので」

「お茶、いただくわね。いい香り。なんていう紅茶なの?」舞は紅茶を一口含んだ。

「マリアージュフレールです」

「そうなんだ。聞いたことないわ。これ、レストランで出してみようかな」

 マイセンのカップを見つめながら、舞は紅茶を楽しんだ。

 駿は、颯空を前にして緊張していた。出された紅茶をガバっと口に含み、舌を軽く火傷した。熱いのを我慢したまま飲み込み、顔が真っ赤になった。

「こ、ここのマンションは颯空ちゃんが、購入されたのですか?」

 いきなり何を言い出すのかと、舞はお茶を噴き出した。

「駿、そうじゃないでしょ。颯空ちゃん、ごめんね。彼ね、颯空ちゃんの前で緊張しているのよ」

「す、すみません。関係のない話しでしたね。昨日も電話で話したけど、まずは動画の撮影からお願いします」舌の火傷を我慢して、真っ赤な顔のまま駿は話しを変えた。

「動画って、颯空ちゃん、モデルになるの?」話の流れを知らない望が割って入る。

「モデルもいいわね。颯空ちゃんスタイルいいし。そうしよっか」舞が望の話に乗せてきた。 

「舞さん、ちょっと静かにしててくれ。俺が話すから」

「あら、怒られちゃった」

「あの、昨日電話でお話しされていたバイクのことですよね」

 颯空は、この後の予定のことを考えていた。できるだけ早くこの場を切り上げて、望と出かけたかった。

「うん、そうです。僕の会社にプロレーサーを育成するプログラムがあって、颯空ちゃんにそこへ参加してもらいたいと思っています」

 駿は、プロになるための流れを説明した。そのために走行動画とレースの実績が欲しいことも伝えた。

「颯空ちゃん、凄いじゃない。プロのレーサーになれるなんて」

 望はそう言いながら、二杯目の紅茶をカップに自分で注いだ。

「うん、凄いことです。颯空ちゃんは必ずレーサーになれます」

 自信たっぷりの表情で駿が豪語する。

「わたし、そういうの興味がなくて。できればお断りしたいのですが」

「興味がないのに、あの走りはできないでしょ」

 駿は、颯空の言葉を否定するように返した。

「そう言われても、わたしにはよくわからないんです。この前も話しましたけど、普通にバイクで走っているだけなんです」

 颯空の凄さをどうやって理解させればいいのか。本人がわかっていないのだから容易ではない。駿は考え込んでしまった。

「颯空ちゃん、とりあえず走ってあげたらどう? 撮影は私と駿がするから。駿もそれで気が済むでしょ」

 舞に言われると嫌とは言いづらい。颯空は返事に詰まった。

「あの、颯空ちゃんのお父さんのこと、お話ししてもいいですか」

 火傷した舌がようやく落ち着いてきた。駿は少しぬるくなった紅茶を飲み、緊張で乾いた喉を潤した。

「おかわり、いれますね」

 望は、紅茶をカップに注ぐため、駿の隣の席に寄り添うように座った。

「父を知っているのですか? わたしが八歳のときに亡くなったので、あまり記憶はないのですが」

 颯空を説得するにはあの時のことを話すしかない。誰にも言わないつもりでいたが、駿は記憶をたどりながら話し始めた。

「颯空ちゃんのお父さんは、僕が新人の頃から世話になっていた先輩ライダーでした。レースにも何度か一緒に出たことがあります。レーサーとして活動しながら、地元の北海道でアマチュアの育成にも力を入れていたそうです」

「ライダースクールのことですね。わたしも父に誘われて、よく遊びに行っていました」

 颯空が素直に自分の話しに反応してきたので、駿はしめたと思った。

「そうですか。そのスクールで颯空ちゃんのテクニックが磨かれたわけですね」

「磨くと言うか、ポケバイや五十ccのオフ車でよく遊んでいました」

 恵まれた環境だ。普通は十六歳になって免許を取り、それから峠で練習する。大概はレーサーの真似事までで、プロになることは稀だ。ピアノやバレエと同じように、子供の頃からバイクに慣れ親しんでいるのであれば、颯空の素質は十分整っていることになる。

「お父さんはレースの事故で亡くなられたのですが、僕はその時のレースに出場していました」

 颯空の表情が少し硬くなった。

「レースの事故で亡くなったのは知っていますが、詳細については聞かされていません。何かご存知なのであれば、ぜひ教えてください」

 事故の後、一人になった颯空は父の兄に引き取られた。札幌で会社を経営していた兄は、颯空を自分の子供同様に大切に育てた。高校を卒業後、颯空は自立するため父が遺した現在住んでいるマンションに移り、アルバイトをしながら一人で生活してきた。幼いころの思い出が残るマンションは、心の拠り所になっていたが、父の最期については誰も話そうとせず、ずっと知りたいと颯空は思い続けていた。

「はい、あのレースはシーズンの最終戦で、お父さんの引退試合でした。レースの前に、お父さんが僕に言ったんです。新しい走法を生み出した、と」

「新しい走法ですか?」

「それがどんな走法なのかは教えてもらえませんでした。最終戦で試してみると言っていましたが、なにも引退レースでしなくてもと、そのときは思いました」

 駿は、珍しくかまずに話した。

「レースは、お父さんが二位、僕が三位のポジションで進行していました。トップは海外の選手で独走状態でしたが、僕とお父さんは徐々に距離を詰め、最終周で射程圏内に入りました」

「最後のレースは、鈴鹿だったと聞いています」

「そうですね。鈴鹿でした。お父さんは更に距離を詰め、とうとう最終コーナー手前でトップを捉えました。僕は、そのままのポジションでゴールすると思っていたのですが、お父さんは抜きにかかったんです」

「最終周の最終コーナーで、ですか?」

「はい、そうです」

「レーサーなんだから、抜こうとするのは普通でしょ?」

 舞が空になったカップを弄びながら口を挟んだ。

「奥様、お茶、入れますね」

 望が席を立ち、キッチンに向かった。

「それで、父はどうなりましたか?」

 颯空が話しの先を促す。

「最終コーナーを立ち上がればすぐにゴールです。二位のままでも、十分有終の美なのですが、お父さんはそれでは満足しなかったようです」

「なんとなくわかります。父は、努力は勝ってこそ意味があると思っていたようですから」

 駿は続けた。

「お父さんは、レース前に言っていた、新しい走法をその最終コーナーで使ったんです」

「どんな走法だったのですか?」

 颯空は駿の顔から眼をそらさず、真っ直ぐに見た。

「横滑り走法です。海外のA級ライダーが、後輪を滑らせるハイサイドに似た走りをしますが、それとは違います。お父さんのそれは、前輪と後輪が同時にスライドする高等テクニックです」

「どう、違うのですか?」

「A級ライダーの多くは、速度が落ちないように、車体を抑え込みながら後輪を滑らせてコントロールしますが、お父さんの場合は、前後のタイヤを同時にスラドさせて、体勢と速度を維持したまま高速でコーナーを駆け抜けます。この差は大きいんです」

「そうなんですね。なんとなくですが、父の凄さがわかります」

「はい・・・」

 駿は、後に続く言葉に詰まった。

「それで、父は、その後どうなったのですか?」

 静かな部屋に、颯空の追及するような鋭い声が響いた。

「はい。お父さんは、その横滑り走法によってトップライダーを抜いたのですが、タイヤの性能が限界を超えてしまい、コーナーの出口でコースアウトしました」

「松田さんは、父の後ろを走っていたのですね」

「そうです。お父さんが転倒したのを見て、私はすぐに助けに行きました。レースどころではありません。しかし、お父さんは・・・」その先を駿は話すことができなかった。

「あの、もう結構です。よくわかりました。ありがとうございます」

 舞は駿の話を途中で遮った。部屋の中に、張り詰めた空気が流れた。

「紅茶とお菓子のおかわりしますね」

 望が席を立ち、キッチンに向かった。

「望ちゃん、もういいわよ。そろそろお暇するから」

「そんなことおっしゃらずに、四杯目、いきましょうよ」

 望と舞は、すでに三杯の紅茶を飲み干していた。お腹の中で紅茶が踊っている。

「父は、速かったですか?」

「はい、とても。レースには、年に数回しか出場しませんでしたが、そのたびに僕は苦戦しました」

「そうですか。映像は残っていますか? 一度もサーキットで走っている様子を見たことがないので」

「本社に戻ればあります。連絡してコピーを送ってもらうように手配します」

 うつむき加減の颯空。お父さんの話は逆効果だったのか。駿は次に何を話せばいいのか迷った。

「駿、そろそろお話しをまとめましょ。長居しては失礼よ」

 舞はそう言うと、壁にかかった時計に目をやった。マンションに来てから一時間が経過していた。

「颯空ちゃん。お父さんのことをお話ししたのは、あなたがお父さんから受け継いだ素質を開花させてほしかったからです」駿は、説得を続けた。

「それは、無理だと思います」颯空が即座に言い返した

「どうして、ですか?」

「前にも言いましたが、興味がないからです。それにプロの世界で通用するとは思っていませんから」

「颯空ちゃんは必ずプロになれます。それは僕が保証します」

「なぜそんなに自信があるのですか?」

「お父さんと颯空ちゃんの走りを知っているからです。おそらく、二人の走りを見たのは僕だけでしょう。元プロの僕が言っているのですから、間違いありません」

 颯空は返事をしなかった。再び部屋の中の空気が張り詰めた。

「颯空ちゃん、あのね、一度だけでいいから峠を走ってみて。撮影さえすれば駿も気が済むと思うの」

 舞は、四杯目の紅茶には手をつけていない。

「わたしもそう思う。颯空ちゃんが走っているところ、見てみたいし」

 望も、紅茶は飲んでいないが、お菓子は食べ続けている。

 しばらく黙り込んで考えていた颯空が小さい声で答えた。

「わかりました。撮影、ご協力します。ですが、それはプロになりたいからではありませんので」

 引き受けるしか選択肢がない。それでこの場を切り抜ける。颯空はそう判断した。

「うん、それで構いません。ありがとう」

 話はまとまった。駿は二杯目の冷めた紅茶を一気に飲み干した。急に空腹を感じて、お菓子も口に詰め込んだ。

「駿、お腹空いているの? お話しまとまったみたいだから、みんなでランチしましょうか? 私がおごるわよ!」

「いえ、大丈夫です。お心遣いありがとうございます」

 颯空は、舞の誘いを間髪入れずに断った。

「あら、珍しいわね。断られちゃった。何か用事でもあるの?」

「これから私とデートなんです」

 キッチンで茶器を片づけていた望が答えた。

「あっ、そうだったわね。じゃぁ、この後のことはまた連絡するわ。駿、帰りましょ」

「うん、そうしよう。颯空ちゃん、また連絡します」

 二人は、颯空と望に礼を言ってマンションを後にした。


「これからデートだって」

 駿が運転する車の助手席で、舞が窓の外を流れる景色を見ながらつぶやいた。

「なんか、邪魔しちゃったかな」

 駿は薄々だが颯空が早々に話しを切り上げようとしていたのを感じていた。

「そうみたいね。でも納得してくれたからよかったじゃない」

「たしかに。ほっとしたよ」

「それはそうとして、颯空ちゃん、望ちゃんに取られちゃったね」

「どういうこと?」

「あの二人、恋人同士よ」

「そうなのか? でも、望はあれだろ?」

「気になる?」

「なにが?」

「もたもたしてると、ホントに取られちゃうよ」

 駿と舞は、撮影機材を揃えるため、電気店に向かった。


「さてと」

「どこに行く?」

「どこにしよっか?」

「まずは、腹ごしらえかな」

「だね」

 颯空と望は、テーブルの上を急いで片づけ駐車場に向かった。停めていた望の軽自動車に乗り込み帯広の街へと飛び出していった。

「颯空ちゃん、レーサーになりたい?」

 交差点を赤信号で止まったとき、望がラジオのスイッチを入れながら聞いた。

「ぜんぜん。興味ない。なんで走るって言っちゃったんだろ。すごく後悔してる」

「とにかくやってみればいいじゃない。なかなか経験できないことだし。バイク乗りなら一度くらいサーキットを走ってみるのもいいと思うよ」

 信号が青に変わった。ギアを一速に入れゆっくりクラッチミートした。

「なんでいいって思うの?」

「なんでって、どうしてかな」

「望ちゃん、サーキット走ったことあるの?」

「ないよ」

「じゃぁなんで、いいって言うの?」

「なんでかな。わかんないけど。なんとなく、颯空ちゃんのためになるかなって」

「私のため?」

 車は帯広駅に到着した。そのまま駅ビルの地下駐車場に入って行った。

「お話しの続きはお食事しながらにしよっか」

 望はそう言いながら車を駐車スペースに入れてエンジンを停止した。

「そうね。あぁ、お腹空いちゃった。早く行きましょ」

 二人は、手をつないで駅ビルの中へ入って行った。


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