第7話 潮時

「ねぇ、なんども聞くけど、本当に大丈夫なの?」

「同じことを聞くな。ちゃんと説明しただろ。心配するな」

「でも、万が一ってことがあるでしょ。もう少し時間かけて考えたほうがいいわよ」

「舞、会議に遅れるからもう行くぞ。まずは相手方の話を聞いてみようじゃないか。考えるのはそれからでも遅くない」

 広大と舞は札幌に来ていた。午前中から始まる月例会議に間に合わせるため、駅近くのホテルに一泊していた。宿泊費は宮園リゾートの負担だ。

「今日の会議室は二十八階だ」

 エレベーターに乗り込み、広大は最上階のボタンを押した。

「二十八階って、スイートの階じゃない?」

「うん、そのようだ。今日は特別な会議だからだろ」

「二羽の鴨が葱を背負ってやって来たってところかしら」

 宮園リゾートに騙されると決め込んでいた舞は皮肉を言ってみたが、広大の表情は変わらない。エレベーターを降り、部屋の前まで進むと、黒のスーツを着た若い女性のスタッフが待ち構えていた。

「茅森さま、おはようございます。こちらのお部屋です。どうぞお入りください」

 女はカードキーでドアロックを解除して二人を部屋の中へ案内した。ドアから部屋の奥まで十メートルはある長い廊下を進んだ先に、二十帖ほどの広い部屋があった。床から天井まで全面ガラスの窓からは札幌の街並みが望めた。夜はさぞかし綺麗な光景なのだろう。

「わたしたちの部屋とは大違いね」

 広大の背中越しに舞が小声でまた皮肉を言った。

 二人は隣の部屋へ案内された。そこには同じような紺色のスーツを着た四人の男性が、横に長いテーブルの向かい側に並んで座っていた。

「おはようございます。今日は奥様もご一緒ですね。こちらの席にお座りください」

 席を立ち、丁寧に声をかけてきたのは開発部長の長沢正孝ながさわまさたかだ。他には取締役の椎名敬之しいなのりゆきと経理の舘義一たてよしかず、もう一人は初めて見る顔だ。スーツに金の弁護士記章を付けているので法務担当のようだが、広大と舞が来ても挨拶することなく、黙ったままパソコンの画面とにらめっこしていた。

「それでは月例会議を始めさせていただきます」

 長沢の司会で会議はいつものように淡々と進行した。広大が先月の業績を三十分程度かけて細かく説明したあとは、くだらない内容の雑談となり、表向きに和やかな雰囲気になった。その後、いつもであれば贅沢なランチで締めくくるが、今日はその前に話の続きがあった。

「それで、お話は変わりますが、例の件は検討いただいたでしょうか?」

 椎名が切り出した。

「はい、妻とも時間をかけて検討しました。ぜひお願いしようと思っています」

 時間をかけて話し合った覚えはない。舞は内心憮然とした。

「左様ですか。ご納得いただけて光栄です。それではお話しを進めさせていただきます」

 舘が目で合図すると、弁護士は手持ちの鞄から薄っぺらな契約書を出し、広大の前に差し出してきた。

「あの、ちょっとよろしいですか」

 会議中、一言も口をきかなかった舞が、話の進行を妨げるように割って入った。黙っていろと言わんばかりの広大の眉間にしわが寄る。

「はい、奥様、なにかご質問でしょうか?」

 長沢が笑顔で応えるが、その目は笑っていない。

「今回の事業拡大のお話は大変ありがたいことと思っておりますが、契約する前に、私なりに確認の意味で質問をさせていただきたのですが、よろしいでしょうか?」

 少し間をおいて椎名が答えた。

「どうぞ。お互い納得の上で契約するのは当たり前です。その点はしこりを残さないようにしてください」バリトンの効いた椎名の声に、表面上和やかだった雰囲気は、一瞬で張り詰めた空気に変わった。

「ありがとうございます。まずは概要から確認させてください」

 宮園リゾートと広大の間でかなりの時間をかけて協議をしてきた案件なので、今さら概要から説明するのか、と言わんばかりに四人の顔が一斉に曇った。

「今回の出資額は二億五千万円で、目的はチーズの製造工場と売店の建設費及び開業費。出資金の返済義務はなく、貴社への配当の支払い及び経営の参加もなし。これは、昨年末に御社から受けた三億の出資と同じ条件、ですね」

「はい、おっしゃるとおりです。御社にとって合計五億五千万円の投資はまたとないチャンスでしょう」

「ありがとうございます。しかし、御社にとってこの投資は何の意味があるのですか? 福祉への寄付ならともかく、これはビジネスなのでリターンがないのはおかしいと思うのですが」

 舞は単刀直入に聞いた。広大に同じ質問をしても曖昧な答えしか返ってこない。それならば直接聞くしかないと思い、この時を待っていた。

「リターンは、期待しておりません」

 椎名がゆっくりと答える。

「期待していないとは、どういうことですか?」

「たしかに投資はしますが、経営に口出しをするつもりはありません。このチャンスを活かして御社がビジネスに成功さえしてくれればいいのです」

「あの、それで、先ほども伺いましたが、御社にとって何の意味、得があるのですか?」

篠山しのやま、例の資料を写して説明をしてもらえるかな」

 弁護士の名は篠山というらしい。椎名から指示が出ても返事ひとつせず、パソコンを操作して、プロジェクターに資料を投影した。

「それでは、椎名に代わりまして、私が説明をさせていただきます」

 篠山は、レーザーポインターのスイッチを入れて、壁に投影された資料に全員の目を向けさせた。

「今回の投資額は二億五千万円です。投資に対するリターンは必要なく、御社は経営に専念していただきます。ここまでは先ほど椎名が申しあげたとおりですが、今回はここからが重要です」

 ここから、と聞いて舞は動揺した。広大の話では投資を受けて事業拡大をすることしか聞いていない。

「御社におかれましては、弊社と合弁会社を設立し経営の一切をお任せします。会社設立のための出資額は両社共に百万円。今後、経営の状況が良好であれば合弁会社は弊社の傘下に入っていただき、将来的には吸収合併をさせていただきます。事業計画としては、五年後に営業利益二億円以上を想定しております。また、茅森様の役員報酬ですが・・」

「あの、すみません。ちょっと待ってください」

 舞は言葉を失った。そんな話は一切聞いていない。会議の進行を止めてしまったが、何か考えがあったわけではない。この場をどう乗り切ればよいか。考えている余裕はなかった。

「はい、奥様、どうかされましたか?」

 篠山は説明をやめ、舞の反応を待った。

「あの、少しお時間を頂戴したいのですが。できれば一時間ほど」

「そうですか。椎名さん、どうされますか?」

 全員が椎名に目線を向ける。

「茅森さん、説明はまだ終わっておりませんが、中断されますか?」

 椎名が座った目で舞を凝視する。

「はい、できれば。一度、部屋に戻りますので、一時間後に再開をお願いします」

「いいでしょう。重要な決断をされる場ですから、十分にご検討なさってください。これにて一旦会議を中断します。再開は一時間後」

 そういうと椎名が先頭を切って席を立った。それに合わせるように他の三人もその場から退席した。舞は、広大の手を引き、足早に自分たちの部屋へ戻って行った。


「どういうこと?」

 舞の目が鋭く吊り上がり、広大を威嚇した。

「どういうことって、こういうことさ。俺たちは会社の経営者になるってことだ」

「今でも経営者でしょ。何が違うと言うの?」

「規模だよ。会社を大きくして、競争に打ち勝つ。それには資本が必要なのさ」

「あなたの経営理念は、自然の中で育てた牛から安全で美味しい牛乳を生産することでしょ。それが世間で認められて、多くのオーダーが入るようになったじゃない。経営は順調だったはずなのに」

「たしかに順調だ。でも、どんなに頑張っても年収七百万がいいところだ。最初はそれでもいいと思った。だけど、宮園リゾートの話を聞いて考え方が変わったよ。経営者として常に上を目指すことは必要だ。でも、二人だけでそれを実現するのは困難だ。どうやったって五億五千万の金を手に入れることなんかできやしない。それが、リターンを気にせず自由にやれと言ってくれる企業が現れたのだから、このチャンスを逃がしてはいけないと判断したんだよ」

「わたしに説明してくれなかったのはなぜ?」

「散々説明しただろ。聞いていないとは言わせないぞ」

「吸収合併のことは聞いていないわよ」

「それは、もっと先のことであって、決まった話ではない。契約書にそれは書かれていないから説明しなかったってだけさ」

「やっぱり、最初から乗っ取りが目的だったのね」

「そうかも、しれないな」

「そうかもって、わかっておきながら、なんで受け入れたのよ?」

「さっきも言っただろ。チャンスだよ。世の中、それをつかんだ奴が勝ち組になるんだ」

「あの弁護士、役員報酬のこと説明しようとしていたけど、いくらなのか知っているの?」

「二人で二千五百万。今までの三倍以上だ。それに、持株の配当もある」

「計画は今回が最後?」

「いや、今後も増やしていく計画だ。十年後には、札幌と富良野からハイウエイと高速鉄道が整備されるから、多くの人流が見込める。そのころには俺たちの年収は青天井になっているだろうさ」

「うまい話がいっぱい転がっていていいわね。とてもご立派な計画だわ」

 舞の語気は荒かった。広大とこんなに熱く話したのは何年振りだろう。対して広大は終始冷静に淡々と話し続けた。質問攻めにされるのをわかっていたかのように、何を問われても的確に答えた。

「ねぇ、覚悟はできているの?」

「言うまでもない」

 広大は、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、一気に半分ほど飲み干した。慣れないスーツの上着を脱ぐと、シャツの背中と脇が汗で濡れていた。

「怖くはないの?」

 広大は冷静を保っているように見えるが、体の汗が不安と焦りを表していた。

「大丈夫さ。さぁ、会議室へ戻ろう。運が逃げて行く前に」


 一時間後に再開された会議は、何事もなく終了した。茅森夫妻は二億五千万の出資を受け入れた。二人は別室に用意された懐石料理でランチを済ませ、今後のスケジュールを確認してからホテルを出た。

「このまま帯広に戻る? それとも久しぶりに買い物でもする?」

 広大の所有する車で出発した。一千万円を超える国産高級SUV。舞の乗るドイツ車同様に、ガラスの上を滑るような乗り心地だ。思えば、こんな高級車に乗れているのは宮園リゾートのお陰だ。贅沢に興味のない二人だったが、一度浸ってしまった不自由のない甘い生活は、理想としていた北海道の自然を活かした牧場の運営から遠ざかろうとしていた。

「いや、俺は次の会議に行くよ」

「次の?」

「うん。このあと旭川で宮園リゾートと建築資材の打ち合わせがあるから。お前は電車で帰ってくれ。 駅まで送るよ」

「そう。わかった。帰りはいつ?」

「明日の夜には戻る」

 札幌駅前で広大の車から降ろされた舞は駅には行かず、レンタカーの営業所へ向かった。広大から渡された特急列車のチケットはコンビニのゴミ箱に捨てた。ネットで二十四時間のレンタル予約を入れておいた小型のハイブリッド車に乗り込み、札幌大通りを抜け円山公園の駐車場へ移動した。ナビを使い現在地を確認した。スマートフォンの画面を開き、「ココイル」という追跡アプリを操作した。画面は地図に切り替わり、中央に赤いアイコンが点滅している。それは広大の車の位置を表示していた。アイコンは道央道の苫小牧を移動している。

「旭川に行くって言ってたわよね。そっちは函館よ。道、間違えてない?」

 舞は車を発進させて札幌市内を東に進み、札幌インターチェンジから高速道に入った。

「どこまで行くのかな? こうちゃん、隠れても無駄だからね。さっき、広ちゃんの車に私のスマートフォンを置いてきたから。それを使って追跡してあげる」

 舞は広大の行先を突き止めるために、もうひとつのスマートフォンを用意しておいた。宮園リゾートとの会議出席のため札幌に来たが、舞の目的はそれではなく、広大の行動を監視することだった。二人の車は一定の間隔を保ったまま、道央道を函館に向かって走り続けた。四時間後、一度の休憩も取らず広大の車は大沼公園のインターチェンジを降り、そのまま函館プリンスホテルに直行して敷地内の専用駐車場に停車した。舞は、高速道のサービスエリアで、ブルージーンズとネイビーのポロシャツに着替えておいた。目立たぬように、黒のパナマ帽で顔を隠した。二回の休憩を挟み、広大から遅れて二時間後にホテルに到着した。広い駐車場をぐるりとまわり、広大の車を見つけるとその隣に駐車した。キーをジーンズのポケットに入れ、車から降りてホテルのロビーへ向かった。エントランスをくぐり、フロントへ向かって歩いた。すると、タイミングよくターゲットの広大が女性同伴でエレベーターから降りてきた。

「やっぱりね。誰だろ?」

 舞は、帽子のつばで目を覆い、広大の方へ向かって歩き出した。広大は、同伴の女と腕を絡ませ会話をしながらこちらへ向かって進んできた。エントランスの中央まで来たとき、舞と広大の二人はすれ違った。すれ違いざま、舞は帽子の陰から相手の女の顔を確認した。

「ん? あれは会議室の前で待機していた若い女だわ」

 舞がここにいるとは思いもしない広大は、すれ違っても気づくことなく、女と談笑しながら外へ出て行った。


「コーヒーとクッキーのセット、おねがいします」

 舞は、ホテルのカフェに入り窓際の席に座った。午前中は会議と契約。その後、すぐに札幌から四時間以上もかけて車を運転して来たので疲れが溜まっていた。コーヒーが運ばれひとくち飲み、イスの背もたれに体をあずけて目をつぶった。

「まさか、あの女と遊んでいたとはね。広ちゃん、浮気するんだ。なんかビックリ」

 夫の浮気現場を見ても、なぜか悲しい気持ちにはならなかった。そんなことを言える立場でもない。これからどうするか? イスに座ったまま目を閉じ、疲れで眠くなり意識が薄れて行く中で舞は考えた。適度にエアコンの効いた店内と、座り心地のいいイスによって睡魔に誘われウトウトしてきた。そのまま深い眠りに入ろうとしたとき、舞のスマートフォンが鳴った。

「もー、気分よく寝ようとしているのに邪魔しないで!」

 電話は駿からだった。

「はい、舞です。駿、何の用?」

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