第6話 プロへの条件
「松田です。今、話していても大丈夫ですか?」
「うん。休憩中だから大丈夫だ。松田君は北海道にいるんだろ?」
「はい。ヴァルシスのレポート作成中です」
駿はホテルの部屋から、本社のレーシング部門で部長を務める
「レポート、ちゃんと書いているのか?」
「はい、気合い入れてしっかりやってますよ」
「そうか。中学生の作文みたいなレポート、いつも楽しく読ませてもらっているよ」
「あの、岡村さん 褒めてます? それとも、おちょくってます?」
「もちろん褒めているさ。それで、なにか用か?」
休憩時間は十五分しかない。いつ電話を一方的に切られるかわからないので、駿はすぐに本題に入った。
「あの、
「畔木か。忘れるわけがないだろ。俺と同期だ」
「はい、私にとっては先輩でありライバルでした」
「あのレースの事故ですべてが終わってしまったけどな」
「シーズンの最終戦。畔木さんの引退レースでもありました」
「うん。それで畔木がどうした?」
「はい、お聞きしたいことがあるのですが、畔木さんにお子さんはいらっしゃいましたか?」
「子供? なぜそんなことを聞く?」
「はい、ちょっと気になることがありまして」
「畔木から子供のことを聞かされたことはなかったのか? まぁ、いい。ちょっと待て」
岡村は受話器を保留にして、デスクの引き出しから分厚いアルバムを出した。中にはレースに関する写真や新聞の切り抜きが収まっている。その中から一枚の絵葉書を台紙から外してデスクの上に置いた。絵葉書には写真が印刷してあり、畔木が個人的に運営していたライダースクールのメンバーが写っていた。畔木はメンバーの右端に立ち、彼に寄り添うように小さい女の子がいる。会ったことはないが、亡くなった奥さんに似て器量のよい子だと、畔木が自慢していたのを思い出した。
「松田君、畔木には娘さんがひとりいるよ」
「名前はわかりますか?」
「名前か?」
写真の下部に三分の一ほど白抜きされた部分があり、そこに畔木の直筆の文が添えられていた。ほとんどがライダースクールのことを紹介していたが、その中のこう書いてあった。
私と一緒に写っているのが、うちのおてんば娘、
「子供の名前は颯空というらしいよ。もう、いい大人になったんじゃないかな」
松田に言われて絵葉書を読み直すまで、岡村は畔木に子供がいたことは忘れていた。少しだけ色褪せした写真を眺めながら昔のことを思い出した。
「やっぱり。そうですか。お子さんの名前は颯空と言うんですね」子供の名前が颯空だと聞き、確信を得た駿は心が躍った。
「うん、そのようだが、それがどうかしたのか?」
「はい。北海道に来た初日にバイクで峠を走っていたのですが、そのとき颯空さんに会ったんです」
「峠で会った? ほぉ、それで?」
「はい。颯空さんもバイクに乗っていたのですが、俺、その峠のコーナーであっさり抜かれました」
「君が抜かれたのか。誰であってもそれは凄いことだが、本当にその子は畔木の娘なのか?」
「はい、間違いありません。颯空さんの苗字も畔木です。彼女の名前は後で知ったのですが、もしかしてと思い、岡村さんに電話を入れたんです」
「そういうことか。まだ半信半疑だがな」
「岡村さん、マジですよ! 正真正銘、畔木さんの娘さんです」
「本人にそのことを確認したのか?」
「はい、颯空さんの話では、子供の頃にお父さんがオートバイのレースで亡くなったと言っていましたから」
「なるほど。それは確かに本人かもしれないな。それで、颯空さんはどれほど凄いんだ?」
「颯空さんは職場へ行くためにバイクを使っています。その時も、いつもの通勤路の峠道を普通に走行していたそうです。偶然、同じ道の少し先を走っていた俺は、あっという間に颯空さんに追い付かれました。ちょっと遊んでやろうと思い、ハイスピードで逃げてみたんですが、コーナーであっさりとぶち抜かれたってわけです」
「なるほど。それで、それがどうした?」
驚くだろうと思っていたが、駿は岡村の反応に唖然とした。
「あ、いや、その、凄くないですか? 元プロの俺が、峠で素人に抜かれたんですよ」
休憩時間の終了を知らせるチャイムが鳴ったが、岡村はそのまま話を続けた。
「松田君の腕が鈍ったってことだろ。怖さを知らない若い奴には勝てないさ。不思議でもなんでもない」
そう言われてしまえば反論する余地はない。だが、颯空の凄い走りを目の前で見ている駿は、岡村に食い下がった。
「岡村さん、颯空さんの走り、異常なんです」
「異常ってなんだよ。空でも飛ぶのか?」
駿は何をくだらないことを、と言いかけたが我慢して受け流した。
「飛びはしませんが、コーナーを横滑りしながら駆け抜けるんです」
「ほぉ。それはスリリングだな。ハイサイドに似た走りなら海外の選手が得意だが、それと同じか?」
「いえ、ハイサイドは後輪が滑りますが、彼女の場合は前輪と後輪が一緒に横滑りするんです。四輪で言うドリフトですね」
あの走りを言葉で伝えるのは難しい。自分の目で確かめてくれと言いたくなった。
「そうか。畔木の娘が松田くんを峠で抜き去ったというのだな。彼女の情報は全くないが、父親に子供の頃から英才教育を受けていたというのなら、ありえない話ではないだろう。葉書に、将来はA級ライダーと書いてあるのは、子供の才能がまんざらでもないということか。だが、松田君、父親は颯空が小さい頃に亡くなっている。その後、彼女に誰が指導したのか。その答えを君は持っているのか?」
駿は言葉が出なかった。そこまでの返事を用意していない。
「まぁいいさ。いじわるな質問をしたな。君が言うのだから間違いはないだろうが、それならば走っているときの映像はあるのか?」
「いえ、映像はありません。写真もないです。彼女の走りは、俺の記憶の中にありますから」
「そうか。それだと様子がわからんな。どうにかして映像を入手しろよ。畔木の子供なら見てみたいものだ」
「わかりました。なるべく早く入手しますが、颯空さんが応じてくれるかどうか」駿の声はトーンダウンした。
「それで、彼女が速いという話だけはわかったが、それを俺に報告してどうするんだ?」
「はい、うちのチームに入れてプロデビューさせます。女性ライダーの活躍で、新たな市場が発掘できるのではないかと考えています」
どうすると聞かれて、駿は咄嗟に思いついたことを言った。新たな市場のことなど考えてはいなかった。
「新たな市場とは?」
思い付きの言葉に質問をされて、駿は返事するまでに少し間が空いた。
「はい、女性の販路を求めて市場を開拓したいんです。バイクは、ほぼ男だけの世界です。それが原因で今の二輪市場は頭打ちです。これを改革するには女性を意識する必要があるのではないかと思います」なんとか答えた駿の額に大量の汗が流れた。
「女性ね。会社の上層部も同じことを言っていたよ。バイクのデザインから始まり、ウエア、グッズに至るまで、女性を意識したアイテムを開発する。それはこれからの二輪業界が生き残るためには必要だ。その広告塔も考えている。それと同じだろ?」
はい、そうです、とは言えなかった。広告塔を探しているのではない。駿は、黙り込んでしまった。
「松田君、意地の悪いことを言ってすまんな。会社は君が思っているより先を見ている。それが経営だ。彼女の映像、入手したらすぐに送ってくれ。興味はあるから、楽しみにしているぞ」
「はい、わかりました。もっと颯空さんの材料を集めてから連絡すべきでした。この話をすれば、すぐにスカウト陣が北海道に乗り込んできて大騒ぎとなり、嫌いな新車のレポートから解放されると思っていました」
「そんなに甘い世界じゃないぞ。松田君は、彼女をプロに育てたいのか?」
休憩時間はとっくに終わっているが岡村は話を続けた。
「はい、颯空さんは必ずプロの世界で通用します」
「うん。そう言いたいのはわかるが、まずは、なんでもいいから実績がないとダメだ」
「なぜですか? さっきは映像が欲しいと言ったじゃないですか」
「うん、それも必要だが、今は会社の経費捻出にはそれ相応の理由、結果が必要だ。意気込みだけでは稟議は通らないからな」
会社の経営が苦しいわけではない。だが、新人の育成には数千万の金がかかる。金をかけたからと言って、その選手が大成するとは限らない。途中で挫折してしまえば投資した費用は回収できずに泡となる。
「たとえ優秀な遺伝子を持っていてもそれは関係ないということですね。わかりました。上を説得できる材料を揃えます。また、電話します」
「きっとその子はプロで通用する逸材なのだろうけど、それだけでは会社が認めない時代なんだ。まずは、なんでも構わないから実績を出させてくれ。話はそれからだ」
「わかりました。お忙しいところありがとうございました」と、駿は丁寧に礼を言ってから電話を切った。
畔木の娘と言えば話が通ると思っていた駿は肩を落とした。颯空は、明らかに優秀な血統を引き継いだサラブレッドだ。利益優先で夢を軽視する会社の方針に、釈然としないモヤモヤした気持ちが駿の心に強く残った。
「材料だ。言葉で説明しても無理だ。走行中の映像が欲しい。彼女を説得するしかないな」
駿は、すぐに舞へ電話をかけた。
「舞、今、どこにいる?」
「え? あぁ、うんと、函館」
「函館? 札幌で会議じゃなかったのか?」
「うん、いろいろあって、今は函館なの。それで、どうしたの?」
駿は、岡村との話を全て伝えた。
「そういうことね。でも、いきなり電話して大丈夫? ちゃんと話を整理してからにしたら?」
事情を聞いた舞は、颯空の電話番号を教えたが、駿がちゃんと順を追って話せるのか心配になった。
「大丈夫だよ。まずは説得だ」
「いきなり説得じゃダメでしょ。怖がって逃げちゃうわよ。詳しいことは電話じゃなくて、直接会って話したほうがいいんじゃない? 私も一緒に行ってあげるから」
駿は颯空の電話番号を聞き出すと電話を一方的に切った。
「失礼ね。ちゃんとお礼くらい言いなさいよ。今夜は函館で美味しいもの食べて、酔いつぶれようと思っていたのに。仕方ない、帰るとしますか」舞は、携帯電話をバッグに入れて、車が停めてある駐車場に向かった。
「あの、畔木颯空さんですか? 松田駿です」
駿は、早速颯空へ電話をかけた。
「はい畔木です。ホテルにお泊りの松田さんですか?」
颯空は小さい声で答えた。知らない番号の電話には、いつも警戒心を怠らないようにしているが、聞いたことのある声と名前で少し安堵した。
「はい、そうです。松田です。いま、少しお話ししてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ。なんでしょうか?」
「実は、うちの会社のレーシングチームでプロレーサーを育成するプログラムがあるんです。そこに、ぜひ畔木さんに参加していただきたいのですが。まずは、動画撮影からお願いします」
唐突すぎる会話に、たくさんの疑問符が顔に浮かんだ颯空は、返事に困り黙ってしまった。
「明日はどう? 颯空ちゃん、お休みでしょ。会って、もっと詳しい話しをさせてください」
たしかに明日は休みだが、望と出かける約束があった。丸一日楽しんで来ようと思っていたので、松田に会う時間はない。
「あの、明日はちょっと用事があって」
「時間は取らせないよ。多分一時間もあれば十分。十時頃でどうですか? それと舞も同行させます」
無理だ。望と友達としての付き合いが始まろうとしているのに、どうすればいいのか。だが、舞が一緒に来るという。相手は職場の経営者だ。機嫌を損ねれば今後の仕事に影響するかもしれない。颯空は返事に困った。
「じゃぁ、明日の午前十時に颯空さんのご自宅まで行きます。住所は知りませんが、舞と一緒なのですぐにわかると思います」
駿は、颯空の返事を聞かずに一方的に約束を決め付けた。
「はい、わかりました。お待ちしています」少し間をおいて颯空が答えた。
断れなかった。約束があることすら言えなかった。一方的に人のスケジュールへ踏み込んでくるやり方に怒りを覚えたが、それよりも望になんとお詫びをすればよいのか、颯空はそのことで頭がいっぱいになった。
「こんばんは!」
颯空は望にラインでメッセージを送った。
「はい こんばんは!」
すぐに返信が来た。
「あのね 明日 用事が入っちゃった」
「そうなの? 気にしなくていいよ 用事優先させて!」
「ごめんね なんかね 奥様と松田さんがうちに来るの」
「えっ! 奥様とイケメンが来るの?」
「うん 強引に予定入れられちゃった」
「そうなんだぁ じゃぁ断れないねぇ」
「ほんとにごめんね」
「うーん」
「怒った?」
「怒ってないよ ねぇ、わたしも行っていい?」
「望ちゃんも来るの?」
「いいでしょ その用事が済んだらお出かけしようよ」
「あっそっかぁ そういう手があったね」
「うん それで決まり!」
「はーい 二人は十時に来るみたいだからその前に来て!」
「うん わかったぁ お茶菓子持って行くね」
「はーい ありがとう!」
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