第6話 颯空と望

 休みの日はいつも寝坊と決めこんでいたが、今日はそういうわけにはいかなかった。午前十時に望が颯空のマンションへ来ることになっていたからだ。

「明日は誕生日でしょ。ランチ、一緒にしようよ。お料理は私が作るから」

 昨夜、レストランの片づけをしていたとき、望が声をかけてきた。誕生日だからといって出かける予定はないし、祝ってくれる親しい友人や恋人がいるわけでもない。誕生日といえば自分へのプレゼントと、デパ地下でちょっとした美味しい惣菜とデザートを買い、部屋で静かにひとりの時間を楽しむ。颯空にとって、それがいつもの誕生日の過ごし方だった。

 目覚まし時計の針は午前六時を指していた。颯空は、ベッドから起き上がり、溜まっていた洗濯物をドラム式の洗濯機に放り込んでスイッチを入れた。窓を開けて新鮮な空気で深呼吸をしてから、着ていたパジャマと下着を脱いで眠気覚ましのシャワーを浴びた。

 今日は、自分の部屋に客が来る。父が残したマンションにひとりで住むようになってから初めてのことだ。部屋はいつもきれいにしているつもりだが、更に磨きをかけてみた。掃除機をかけ、タンスの上にある写真立てや、鉢植えのパキラをどかして、目に見えない埃をモップで拭きとり、洗ってそのままにしてあった食器を磨いて棚へ収納した。昨日の帰り道、スーパーで買っておいた切り花をバカラの花瓶に挿してダイニングテーブルに飾った。望が来たらすぐに出せるようにと、マリアージュフレールの紅茶とマイセンのティーカップを揃えておいた。柱にかけてあるジョージ・ネルソンの時計は八時を少しすぎていた。約束の時間にはまだ余裕がある。冷蔵庫からミルクを取り出し、レストランの客からもらった、ラベンダーを練り込んだクッキーで軽い朝食を摂った。リモコンを手に取り無意識にテレビをつけた。一週間分のスポーツの結果を放送していたが、その内容に興味はなかった。最近は、テレビを見ることがめっきり少なくなった。見たとしても朝の天気予報とニュースくらいだ。クッキーを二枚食べて朝食はおしまいにした。使った食器を片づけ、歯を磨き、軽く化粧で顔色を整えてから服を着替えた。スタンドミラーの前で、着ていたグレーのスエットを脱ぎ、下着姿になった自分を鏡に写した。張りがあり艶のある白い肌。柔らかな胸は手のひらで包み込むには丁度いい大きさだ。しなやかにくびれた腰、お尻から湾曲のないスラリとした脚が流れるように伸びる。モデルのような美しい颯空の体に、まだ誰も触れたことはない。

 クローゼットから、淡いブルーのプリーツパンツと白のシルクシャツを取り出して身に着けた。雑音にしか聞こえないテレビを消し、オーディオのスイッチをオンにして、ゆったりとしたリズムのジャズを流した。ソファーに座り、スマホで午後の天気予報を確認した。早起きして体を動かした反動なのか、優しい眠気が颯空をウトウトさせた。窓の開いたベランダのカーテンは、柔らかな風の流れに合わせて、ゆらゆらと揺れている。

 どのくらいだろう、ソファーに座ったまま眠ってしまっていた。インターホンが鳴り、その音にハッとして目が覚めた。壁に設置してあるインターホンの画面で訪問者を確認すると、そこにはいつもと雰囲気が少し違う望が写っていた。

「颯空ちゃん、望です」

 望は、黒い大きなバッグを両手で抱えて持っていた。

「いらっしゃい。ドアロック解除するね。エレベーターで五階まで来て。迎えに行くから」

 颯空は小走りで玄関へ行き、シューズラックからビルケンシュトックのサンダルを取り出し、素足の指先に引っかけて、すたすたと踵を通路にこすりながらエレベーターに向かった。

 エレベーターの前まで行くと、タイミングよくドアが開き、荷物を胸に抱え込んだ望が飛び出してきた。

「颯空ちゃん、おはよー。今日は頑張っちゃうからね。お楽しみに!」

「望ちゃん、レストラン行ってきたの? これ、ケータリング用のバッグだね」

 ナイロン製のバッグには、茅森レストランの文字が入っていた。

「うん、ちょっと早起きしてシェフに手伝ってもらっちゃった。あとは食べるだけよ」

 料理が入ったバッグはかなり重いようで、バッグの紐が望の肩に食い込んでいた。はやく荷物を降ろしたくて、望は通路を左に向かって歩き始めた。

「望ちゃん、こっちよ」颯空が逆方向を指さす。

「そうなの? そういうことは先に言ってちょうだい」ニコニコしながら望は回れ右をする。

 颯空は重そうにしている望の荷物を下から支えながら部屋まで案内した。

「どうぞ、こちらのお部屋です。ようこそいらっしゃいました」

「はい、お招きいただきまして、ありがとうございます」顔を見合わせて笑みを浮かべる。 

「よっこいしょっと」

 玄関を上がり、望はダイニングルームへ案内された。ダイニングテーブルの上に置いたバッグは、岡持と同じ構造になっていて、皿に盛られた料理が中に入っていた。

「颯空ちゃん、冷蔵庫使わせてね。デザートがあるから」

 望は、保温バッグに入れていおいたデザートを取り出して、中の状態を確認した。

「よかった。溶けてなかったみたい」

「ちょっと休憩しようよ。朝から頑張って疲れたでしょ。いま、お茶入れるから」

「うん、ありがとう」望は、全ての料理をバッグから取り出して、とりあえずキッチンに並べておいた。

「あの、颯空ちゃん」お茶を用意している颯空の背中越しに望が声をかけた。

「ん? なぁに?」

「あ、いや、その、颯空ちゃん、私がここに来ること、怖くなかった?」

「なんで怖いの?」

「だって、私、男よ」ドスの効いた低い声ですごんでみる。

「その声、変でしょ」

「あはっ。ごめんごめん」いつもの裏声で返す。

「うん、男性かもしれないけど、私はそうは思っていないの。望ちゃんはちゃんとした女性よ。それに、仕事でいつも優しくしてくれるから、怖くなんかないよ」

「そっか。それならよかったです」

「怖かったら、招待してないから」

 颯空は、望が訪ねてくることを楽しみしていた。部屋に招き入れることに何の躊躇もしていなかった。

「ピッピッピッ」と、電気ポットからお湯が沸いたことを知らせる電子音が鳴った。

 颯空は、丸いガラス製のティーポットに紅茶の葉を入れて湯を注いだ。茶葉が、お湯の流れに合わせてクルクルと回る。透明なポットは、徐々に変化する紅茶の色合いや、ジャンピングの様子がわかるので、颯空のお気に入りだ。やがて湯気とともに紅茶の香りが部屋に漂いはじめた。

「紅茶淹れてるの? いい香り。颯空ちゃんは、紅茶派?」

 望は、キッチンに出した料理の盛り付けを整えている。

「うん、紅茶、大好きなの。あっ、紅茶でよかった?」

「ぜんぜん平気。それに、コーヒー飲めないから」

 コーヒーが飲めないのは颯空も同じだった。レストランで、客に出すコーヒーの匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなる。

 颯空は、深い琥珀色に染まった紅茶をティーカップに少しずつ交互に注いだ。

「なにか入れる?」

「ううん、そのままで大丈夫。すごくいい香りがするね」

 望は、バッグを片づけてから、テーブルを挟んで颯空と向き合って座った。

「いただきます」 

 テイーカップの縁をそっと唇につけ、紅茶を静かに味わった。少し熱い。颯空も、香りを楽しんでからゆっくり飲み始めた。しばし沈黙が続き、颯空と望は時々目を合わせながら、紅茶を楽しんだ。

「おいしい。こんなにおいしいの初めて」

「ありがとう。望ちゃんが来るから、昨日、仕事の帰りに買っておいたの」

「そうなんだぁ。なんていう紅茶なの?」

「うん、マリアージュフレールっていうの。最近、見つけたんだ」

「カップはマイセンでしょ。颯空ちゃん、とってもオシャレよ。それに、今日のお洋服も素敵。お部屋もキレイにしているし、いつもちゃんとしているのね」

「望ちゃんにそういわれると、なんか嬉しい」

 颯空は、望に褒められたので、お返しの言葉を探した。さっき、部屋のインターホンで望を見た時、何かがいつもと違っているように感じたが、目の前に座ったとき、それが何なのかハッキリとわかった。

「望ちゃん、今日は、髪をまとめてないね。いつも団子のポニーテールだから」

「うん、そうなの。休みの日は気が抜けちゃうから、いつもまとめてないのよ」

 アッシュベージュに染めた髪は、肩まで伸びていた。仕事中は、コックコートに山高帽を被っているのでわからないが、今日は一目で女性とわかる。薄く化粧をして爪を整え、白のパンツに淡いネイビーのリネンシャツを着ていた。

「望ちゃん、いつもと雰囲気が違うね。大人の女性って感じがする」

「颯空ちゃんに言われると、なんか照れちゃうな」

 紅茶を飲み終えると、望は立ち上がって料理をテーブルへ運んだ。颯空はシルバーのカトラリーを用意した。

「では、仕上げをしますね」

 望は、タッパに入れておいた茹で卵の殻をむき、レストランから持ってきた白い平皿にのせ、マスタードマヨネーズのソースをかけた。

「それ、なんていう料理?」

「ウフマヨネーズよ。前菜ってシェフが言ってた」

 テーブルに、ウフマヨネーズのアミューズ、バーニャカウダのアントレ、甲殻類のコンソメスープ、鶏肉のブランケットが並んだ。どれもシェフが颯空と望のために作ったものだ。デザートのハスカップ・シャーベットは、出番がくるまで冷凍庫に入れておいた。

「おまたせしました。颯空ちゃん、お祝いしましょう!」

「なんかすごいね。フレンチのコースみたい」 

 テーブルいっぱいに広がった料理を囲んで、二人は席に着いた。

「ランチだからお酒はなしね」

 望は、バッグに入れておいた炭酸水を取り出してリッツェンホフのグラスに注ぎ、生のレモンを搾ったジュースをまぜて、マドラーで軽くステアした。

「うん、大丈夫。わたし、お酒飲めないから」

「では、乾杯しましょう。颯空ちゃん、誕生日おめでとう!」

「ありがとう!」

 グラスを合わせると、カンッと心地よい音がした。


 コース料理といえば一品ずつ出てくるものだが、今日は中華料理のように全てテーブルに揃っているので、二人は料理の順番を無視して気の向くままに口へ運んだ。ものすごくお腹が空いていたわけではないが、黙々と食べ続け、料理はあっとう間になくなった。

「一気に食べちゃったね。みんな、すごく美味しかった」颯空が、自分のお腹をさすりながら言った。

「ありがとう。頑張って作った甲斐があったかな。あっ、作ってくれた、だね。いま、デザート出すから」

 望は冷蔵庫のドアを開き、シャーベットを取り出してカクテルグラスに盛り付けた。

「うん、私は紅茶淹れるね」

 颯空は、テーブルの上をさっと片づけた。オーディオから流れるジャズの演奏が静かに終わったので、同じ曲のジャズをもう一度再生した。 

「なんか、甘酸っぱくて美味しい」

「ハスカップのシャーベット。これもシェフが作ってくれたの」

「そうなんだぁ。今度、お礼しなくちゃ」

「そんなことしなくていいのよ。颯空ちゃんが誕生日だって教えたら喜んで作ってくれたのよ。きっと、颯空ちゃんはシェフのお気に入りね」

「そうなの? 私もシェフのこといいなって思ってる。とくに大きなお腹がカワイイ」

「そこなの? 実は、私も同じ」

 二人は顔を見合わせ、吹き出すように笑った。

 デザートも終わり、食事が済んだところで二人は片づけを始めた。食器を洗い、きれいに拭きあげてから、ケータリングバッグに戻した。颯空は、もう一度紅茶を淹れ、今朝食べていたクッキーと一緒に出した。

「颯空ちゃん、これ、どうぞ」

 望は、おもむろにパンツのポケットから、赤いリボンのついた化粧箱を出した。

「もしかして、プレゼント?」

「受け取ってくれるでしょ」

「うん。あけてみていい?」

「どうぞ。気に入っていただけるといいな」

 布の包装を丁寧に外して箱を空けた。ゴールドに光る、アーモンド型のイヤリングが入っていた。

「かわいい。望ちゃん、ありがとう。キラキラして素敵」

「うん。お店の人に颯空ちゃんの写真見せて、似合うのを一緒に考えてもらったの」

「そうなんだぁ。大人っぽくていい感じ」

「でしょ。ねぇ、付けてみて」

 颯空は、イヤリングを耳に近づけてみたが、うまく付けることができない。今まで、イヤリンングなど付けたことがなかったので、その方法を颯空は知らなかった。

「つけてあげる」望は颯空の隣に座り、イヤリングを付けてあげた。

「鏡で見てもいい?」

「はい、どうぞ。鏡はどこかな?」

 壁に貼ってあるスタンドミラーの前に立ち、イヤリングが見えるように、右手で髪を後ろに束ねた。

「わたし、イヤリング初めて付けてみたの」

「そうなんだぁ。すごくお似合いよ」

「今日は、寝るまでずっと付けてるね」

「うん、気に入ってくれてよかったです」

 颯空は、しばらくの間、ミラーの前でじっとしたまま動こうとしなかった。お洒落をしている自分の姿を見て、うっとりしているのだろうと望は思った。

「颯空ちゃん、お茶、冷めちゃうよ」

 そろそろいいだろうと声をかけたが、颯空は動こうとしない。

「そんなに気に入っちゃった?」

 颯空の様子がどうもおかしい。肩が少し震えているように見えた。

「颯空ちゃん、どうしたの?」

 近寄って颯空の顔を覗き込むと、頬に涙が流れていた。

「颯空ちゃん」

 どう声をかけてよいものか。イヤリングで涙を流すほど感動しているのか? それとも料理がまずくて気分が悪くなったのか?

「どうしたの? 泣かないで」

「わたし」 

「ん? なにか思い出したの?」

「誕生日、誰にも祝ってもらったことがなくて」

「えっ? そうなの? でも、ご家族がいるでしょ。とにかく座りましょ。涙を拭かなくちゃ」

 テーブルに戻り、冷めかけた紅茶を飲むと、颯空は少し落ち着きを取り戻した。

「私、家族はいないの。母は、私を産んだあと、体力が戻らずに衰弱して亡くなったの。父は、オートバイの事故で・・・」

 せっかくの誕生日パーティーなのに、暗い記憶を思い出させてしまい望は後悔した。

「颯空ちゃん、泣かないで。ごめんね。つらいこと思い出しちゃったね」

「ううん、そうじゃないの。嬉しいの。私、ずっとひとりぼっちだったから。お祝いしてもらって、本当に嬉しかったの」

 颯空に笑顔が戻った。機転の利く言葉が見つからずに焦っていた望は、ほっと胸をなでおろした。

「そっかぁ。それなら良かった」

 とは言ったものの、次に出てくる言葉が見つからなかった。

「お父さんは、颯空ちゃんが何歳のとき亡くなったの?」

 いけない、また、つらい話題に逆戻りしている。望は、自分の心をグーでパンチした。

「私が八歳のとき。オートバイのレースで事故をおこしてしまって」

「オートバイのレーサーだったの?」

「うん。あっ、写真あるから見て」

 颯空は、寝室に飾ってある一枚の写真を持って戻って来た。

「いつの、写真?」

 それは、大人が三人と子供が五人の、少し色あせた集合写真だった。レース場で撮影したそれは、全員がレーシングスーツを着ていた。望は、その中のひとりに目が止まったが、颯空に気づかれないように話を続けた。

「たぶん、私が五歳くらい。ほら、ここにいるのが私で、後ろにいるのがお父さん」

「颯空ちゃんもレーシングスーツ着てるね。このころからオートバイ乗ってたの?」

「うん、そうみたい。ポケバイのレースで優勝したってお父さんが言ってた」

「なるほどねぇ。それで颯空ちゃんは、オートバイに上手に乗れるのね」

「上手なのかなぁ? もうレースには興味ないし、誰かと競うこともないから、よくわからないけど」

 望は、颯空の両親から話しをそらせようとして、頭の中でネタを探しまくった。

「ねぇ、ところで、颯空ちゃんは今日で何歳になったの?」

「え? 知らずにお祝いしてくれてたの?」

「一緒にバイトしているけど、聞いたことなかったよね。それに知らなくてもお祝いはできるわよ」

「そうだね」

 顔を見合わせて、クスリと笑った。

「今日で二十一歳です。彼氏いませ~ん」

「それは聞いてないで~す」

 今度は大声で笑った。話題を変えて正解のようだ。

「望ちゃんは、何歳なの?」

「いくつに見える?」

「う~ん、すごく大人に見える」

「いや、見え方じゃなくて、年齢」

「あっ、そういうことね。そうだなぁ、たぶん、二十五歳くらい?」

「おっと、これは嬉しい誤算ですよ。私は、三十歳で~す」

「うそでしょ~。三十歳には見えないよぉ。肌も綺麗だし、二十代で通用しますよ」

「そうかなぁ。でも、颯空ちゃんには負けちゃうな」

「彼氏は?」

「いないよ。彼氏って、作ったことない。私のこと好きになってくれる人って、そう簡単には見つからないのよ」

 颯空は、レンジで温め直した紅茶を、二人のカップに残らず注いだ。

「私は、彼氏いらないなぁ。ひとりでいるときが好きだから」颯空が言った。

「そうなの? なんか勿体ない。モデルさんみたいなのに」

「背が高いだけで、何のとりえもないから、相手にしてくれる人なんかいないよ」

「そんなことないでしょ。オッパイ大きいし」

「それ、なんか関係あるの?」

 目を丸くする颯空。イヤリングが笑顔と一緒に揺らめく。

「あるわよ。男はみんな、初めて会った女性の顔を見る前にオッパイを見るのよ」

「うっそー。それじゃ子供みたいじゃない」

「そうよ、男はみんな子供なの。元男の私が言うんだから、間違いないのよ」

 望の話はいつも面白い。仕事で嫌なことがあっても、すぐに笑顔へ戻してくれる。望は男性だが心は女性だ。だから彼氏の候補にはならないが、ずっと友達でいたいと颯空は思っていた。

「ねぇ、望ちゃん」

「な~んだい」急にドスの効いた低い声で望が返す。

「ちょっと、そのおじさんみたいな言い方やめて」

「はい、なにかしらぁ?」いつもの裏返った声に戻す。

「うん、その話し方が好きですよ~」

「それで、なんでございますの?」

「うん、お願いがあります。ずっと、これからもずっと、わたしのお友達でいてください。いいですか?」

 颯空には言わずにおいたが、望も家族はいなかった。物心ついた時にはひとりぼっちになっていた。施設で生活していたが、高校卒業後は独立してずっと一人で生きてきた。周りにジェンダーであることを理解してくれる人はおらず、友達はできなかった。このまま目立たずに、静かに生きて行こうと思っていた。そんなとき、ホテルの面接で颯空と出会った。仕事をしながら次第に心が通うようになり、いつしか妹のように颯空を可愛がるようになっていた。 

「お友達になってくれるの? 私、ジェンダーだけど、いいの?」

「そんなの関係ない。わたし、望ちゃんが大好きだから」

 お互い、目をじっと見つめ合う。

「うん。私も颯空ちゃんのこと大好きよ。ずっと妹みたいに思ってたから」

「そうなんだぁ。ありがとう。今日は、なんか、とてもいい日だな。きっと一生の思い出になる。望ちゃんに出会えて本当に良かった」

 望は、その言葉に感極まり、颯空を抱きしめた。

「ん?」

「え? なにか?」

 抱きしめながら、望が颯空の背中をさすった。

「うん、やっぱり、オッパイ大きい」

「なに言ってんの?」

 顔を見合わせ、大声で笑った。心の底から笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だったろうと思えるくらいに。

 それから二人は夕方になるまで話しを続けた。お互いの生きてきた道や考え方、趣味や異性のこと、あまり考えたことのない将来についてなど。


「なんか、お腹空いてきた」

 いつしか時計は、十七時を指していた。

「あら、いけない。こんなに長居しちゃった。そろそろ失礼するわね」

「なにか食べに行こうよ。ついでにお買い物も」

「いいの? 時間、大丈夫?」

「うん、明日も休みだし。望ちゃんも休みでしょ」

「そうだね。じゃ、行っちゃうか!」

 二人はマンションを出て、望の軽自動車で帯広へ向かった。海鮮食堂で食事をしたあと、ショッピングセンターで買い物をして、カラオケで盛り上がった。明日もどこかに出かける約束をして、再び颯空のマンションへ戻って来た。

「じゃ、また明日、迎えに来るね」

「うん、ちょっと遠くへ行きたいな」

「わかったぁ。ガソリン満タンにしておかなくちゃね!」

 お互いのラインIDを交換し、颯空はバイバイと言って望を見送った。マンションのセキュリティーを解除してエレベーターへ向かい、上階のボタンを押したとき、スマホに知らない番号から電話がかかってきた。

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