第4話 普通のそれ

 駿が牧場を訪れてから三日目。暦はまだ八月だが北海道は秋の匂いが濃くなり、昼間でも日陰の風は冷たく感じる日が多い。駿は次の目的地へ向かうため、午前中に牧場ホテルを出発していたが、道の駅や街道沿いのカフェで半日ほど時間をやり過ごし、牧場から十五分ほどの場所まで戻って来ていた。そこは、あのバイクに抜かれたコーナーの手前だ。

 そろそろ来るころだな。駿はスマホで時間を確認した。あのときと同じ時刻に差し掛かっていた。

 昨夜、RC45の持ち主が颯空であることを知った。希少故に高値で取引される車体をどうやって入手したのか。なぜそのバイクを通勤に使ってしまっているのか。どこでライディングテクニックを磨いたのか。どんな家庭環境なのか。趣味はなにか。彼氏はいるのか。好きな男性のタイプは・・・。

 昨日は、聞きたいことのリストで頭の中がいっぱいになり、颯空と思うように話をすることができなかった。落ち着いた場所でゆっくり話をしてみたかったが、既に次の目的地へ向けて出発していたので、夕方に出勤する颯空に会うことはできない。この先の予定が済めば、帰り際に牧場へ寄ることもできるが、それは一か月も先のことだ。それまで、モヤモヤした気持ちのまま旅を続けたくない。そう思った駿は、予定していた旅を諦めて、途中で引き返してきたのだ。

 颯空が仕事中のときは落ち着いて話しをするのは難しい。プライベートな時間帯で会う必要がある。駐車場で待ち、出勤前につかまえることも考えたが、始業時刻が迫っているので無理だろう。いろいろ考えた末、颯空を峠で待ち伏せすることにした。ついでにもう一度、あの走りを見てみたかった。

「今度は離されないぞ。いつでも来い」

 駿は、ヘルメットを被ったまま道路脇の九枚笹の中へ身を隠し、颯空が来るのを待った。やわらかく静かな風が流れる峠の笹原。急ぎ足でやってくる越冬の準備で、虫たちが忙しそうにざわざわと音を立てて動き回る。時々聞こえるスズメ蜂の羽音が耳についた。大人しくしていれば襲いかかってくることはないが、至近距離で大きな体躯のスズメ蜂が戦闘機のように飛びまわっているのは、気分のいいものではない。蜂を刺激しないように息をひそめていると、遠くからあの音が聞こえてきた。

「ヴォーン、ヴォーン」V型エンジンのビートを効かせた排気音が峠に響く。

「颯空ちゃん、来たな」

 まだ遠くだと思っていた排気音は、あっという間に近づき、駿の目の前を通過した。青白赤の車体カラー。ブルージーンズに黒の革ジャケット。間違いなく颯空とあのバイクだ。笹の中から飛び出した駿は、エンジンをかけっぱなしにしておいたヴァルシスに飛び乗った。クラッチをつなぎ、アクセルを一気に全開。フロントタイヤが浮き、エンジンは唸りを上げる。早く追いつきたい気持ちで焦るが、バイクが左右に振れて思うように前へ進まない。ようやくスピードが乗ったころ、颯空とRC45は消えて見えなくなっていた。

「だめだ。 このバイクじゃ追いつけるわけがない」

 駿は、会社から与えられた、どん亀のバイクを恨んだ。

「とにかくこのまま走って、ホテルの駐輪場でつかまえよう。間に合ってくれよ。建物の中に入られたら終わりだ。仕事を始める前に話をしたい」

駿は、バイクの性能限界までアクセルを捻り続けた。他に車がいないこと確認し、赤信号を無視して突っ走った。ようやく茅森牧場の駐輪場へ到着したとき、すでにバイクから降りていた颯空はホテルに向かって歩いていた。

「颯空ちゃん、待ってくれ」

 五十メートルほど先にいる颯空に向かって、駿はヘルメット越しに大声で叫んだが、エンジン音が邪魔をして颯空の耳に届かない。クラクションを鳴らし続けても、振り向かなかった。

「仕方ない」

 駿は、バイクを急加速させて颯空の前へ回り込み、進路を塞ぐように車体を横向きにして停車させた。後輪が砂利を蹴飛ばし白い砂煙があがる。颯空は、バイクが急に目の前へ飛び込んできたので驚いて身をかわした。

「颯空ちゃん!」

 自分の名前を呼ばれても、ヘルメットを被っているので誰なのかわからない。怖くなった颯空は、後ずさりして身構える。

「俺だよ。駿です」

 警戒する颯空を見て、駿は急いでヘルメットを取った。

 颯空は駿の顔を認識するまでに、少し時間がかかった。

「あっ、昨日のお客様ですね」

 無茶な運転で目の前に飛び込んできたライダーは、広大が連れてきた客だとわかり、颯空は慌ててぴょこんと頭を下げてお辞儀をした。

「あの、聞きたいことがあるんだけど、少しいいかな」

 駿はバイクから降りてエンジンを切り、颯空を逃がすまいと仁王立ちになった。

「え、あ、はい。なんでしょうか」

 駿の鬼気迫るような近寄り方に、颯空は一歩後ずさりして距離を取った。

「その、バイクのことを教えてほしいんだ。あと、どうやって手に入れたとか、乗り方を誰に教わったのか、家族はどんな方なのか、どこに住んでいるのか、好きな・・・」

 話をするのは今しかないと思い込んでいた駿は、息継ぎもせず矢継ぎ早に質問をした。

「ちゃんとお部屋で話せば」

 いつの間にそこにいたのか、舞が声をかけてきた。

「あっ、奥様」

 颯空は、舞が救世主に見えた。助けを求めるように視線を向けた。

「舞、なんでここにいるんだ」

「それは私が聞きたいことでしょ。クラクションが鳴り続けたから、何事かと思って来てみたの。駿、午前中に次の目的地へ出発したはずなのに、なんでまだここにいるのよ」

「いや、その、あれ、あれだよ、颯空ちゃんに挨拶しようと思って」 子供レベルの嘘でごまかす。

「嘘よ。颯空ちゃんのこと、襲おうとしてたんでしょ」

「なに言ってるんだ。俺はバイクのことが聞きたいだけだよ」

 後ろ指を刺されるようなことは何もしていないが、峠で待ち伏せをしていたのだから、そう言われても反論できない。駿の額からじわりと汗が滲み出た。

「舞、何かあったのか」

 今度は駐車場の奥から広大が近づいてきた。駿がクラクションを激しく鳴らしたせいで、静かな牧場に緊迫した空気が流れていた。

「なにか事故でもあったのか」

 広大は心配そうな表情で舞に訊ねた。

「事故というより、事件ね」

 腰に手をあて、薄ら笑みを浮かべる舞。

「事件とはどういうことだ。それより、なんで駿がここにいるんだ。今頃は、次の目的地に到着しているはずだろ」

 出発前にブランチを一緒にどうかと誘ったのに、次があるからと言って急いで出て行った。その駿がここにいる。なぜ自分に嘘をつく必要があるのか。広大は怒りを覚えた。

「駿、なんで戻ってきたんだ。今から次のホテルに行けば、向こうに到着するのは夜中になっちまうだろ」

 広大は怒っていることを読み取られないように、穏やかな口調で話した。

「うん、いや、その、ちょっとな」

 はっきりしないその物言いに、広大は更に苛立った。

「ねぇねぇ、みんなここにいてもなんだから、お部屋に行きましょうよ」

 気まずい雰囲気を感じた舞は、場所を移して一旦リセットしてもらうように仕向けた。

「あの、奥様。私、これから仕事があります」

 舞が腕時計を見ると、颯空の出勤時間が迫っていた。

「大丈夫よ。今夜は宴会の予約がないから。レストランは望にまかせておけばいいわ。それに今夜はシェフもいるんでしょ」

 宴会のない日は、レストランの担当は望と颯空の二人だけだが、明日、大人数の宴会予約が入っているので、仕込み作業をするためにシェフが残っていた。

「はい、でも・・・」 

 舞に大丈夫と言われても、素直に受け入れることができない。それに、自分が出勤しなければ、望が一人になってしまう。

「いいのよ。仕事のことは気にしないで。みんなでバイクの話しをしましょ」

 舞は、全員を半ば強引にレストランの個室へ案内した。


「皆さん、お忙しいのにすみません」

 個室の入り口で、颯空が頭を下げた。

「颯空ちゃんが謝ることないでしょ。原因はこの男なんだから」舞が駿を指さしながら言った。

「お仕事がありますから、なるべく早めにお願いします」

 全員が席に着いたが颯空はすぐに立ち上がり、厨房に向かって歩き始めた。

「颯空ちゃん、どこに行くの。ここに座って」舞が言った。

「あの、みなさまにお茶を・・・」

「いいのよ、気にしないで。大丈夫だから。ここに座ってちょうだい」

 舞は椅子を引いて座面を指さした。

「はい、わかりました」 

 颯空は観念したように、席に着いた。

「さてと、役者は揃いましたよ。駿くん、どこから始めましょうか」

 舞は、颯空が怖がらないように、部屋のドアを開けたままにしておいた。

「颯空ちゃん、忙しいのにありがとう。それと、さっきは怖がらせてしまって、本当にごめんなさい」

 駿は、本題に入る前に、強引なやり方で近づいたことを詫びた。思えば、初めからこうすればよかったのだ。よく考えず、安易に行動したことを後悔した。

「いえ、大丈夫です」

 膝を閉じ、背筋を伸ばして座っている颯空は、駿へまっすぐに視線を向けた。

「あの、オートバイのことや颯空ちゃんのこと、いろいろ聞かせてほしいけど、いいかな」

 駿は、颯空が怖がらないように、ゆっくり、落ち着いた口調で話した。

「はい、どんなこと、というより、なぜ私のことを聞きたいのですか」

 颯空は、表情を変えずに聞き返した。

「うん、この前、颯空ちゃんがバイクで峠を走っている姿を見かけてね」

「見かけたというのは、通勤のときですか」

「そうだよ。牧場に向かって走っていたから、通勤の途中だと思う」

 続けて駿が話をしようとしたとき、

「俺、関係なさそうだから失礼するよ」

 広大は、すっと席を立ち、部屋から出て行った。誰もそれを止めようとしない。駿は続けた。

「そのときの颯空ちゃんの走りが素晴らしくてね。どこであれだけのテクニックを教わったの?」

「どこでというか、私が子供の頃、父がオートバイのスクールを運営していました。そこでバイクに乗るようになったんです」

「何歳のときから?」

「父の話では、三歳くらいからポケバイに乗っていたそうです」

 ポケバイとは、五十CCのエンジンを載せた、レースタイプの小型バイクだ。公道を走ることはできなが、バイクの入門用として子供に人気がある。

「はい、みなさん、どうぞ」

 広大がお茶と菓子を持って部屋に入ってきた。

「俺は、失礼するから。どうぞごゆっくり」

 今度も、部屋を出て行く広大を誰も止めようとはしない。

「子供のころからバイクに囲まれていたってわけか。それで、あんなに凄いライディングができるようになったんだね」駿は話しを続けた。

「凄い、ですか?」

「凄いなんてもんじゃない。元プロの俺が追いつけないんだからさ」

「追いつけない?」

 駿と一緒に走ったことはない。それに姿を見たと言っているが、バイクの通勤でスピードを出して峠を走ったことはない。何のことを言っているのか颯空は不思議に思った。

「うん。ここへ来る途中の峠で、颯空ちゃんが僕を追い抜いて行ったんだよ。覚えてる?」

「そう、なんですか。時々、遅いバイクや車を追い抜くことはありますが、それがいつのことなのかは覚えていません」

 駿は、遅い、と言われて反論しようとしたが、言葉を飲み込んだ。

「三日前の今頃の時間だよ。颯空ちゃんが通勤で峠を走っていたときだね。いつもあんなに凄いスピードで走っているの?」

「いえ、事故が怖いので、いつも普通に走っていますけど・・・」

 あれを普通と言われて、駿は唖然とした。

「普通に走っているの? 本気出したらもっと速いってこと?」

「怖くない程度のスピードで走っているだけです。本気と言われても、そういう気持ちで走ったことがないので、わかりません」

 颯空の言っていることを、どう理解すればいいのだろう。ひとつ間違えば、どこへすっ飛んでいくかわからない危険な走りなのに、それを怖くない程度だという。駿は、颯空の底知れぬ能力の全てを知りたくなった。

「それで、バイクのことは聞かないの? 颯空ちゃんの凄さの理由は、もうわかったでしょ」

 広大が持ってきた、お茶と麓花亭のイチゴチョコを交互に口に運び、退屈そうに二人の会話を聞いていた舞が、話しを先に進めた。

「そうだな」

 駿は、颯空にお茶をすすめると、自分も一口飲み、チョコを頬ばりながらバイクについての質問を続けた。

「今度は、バイクのことを聞かせてね。 あれはRVF750だよね」

「はい、そうです。とても古いバイクで、ときどき故障します」

「そうだろうね。二十年くらい前のモデルだし、純正部品がそろそろ無くなる頃じゃないかな」

 オートバイの純正部品がメーカーで確保されているのは、製造終了後八年と言われている。それ以降は、在庫品が無くなり次第終売になる。人気のモデルになると、社外パーツと呼ばれる代用品が販売されることはあるが、品質はピンキリだ。

「整備士さんのお話では、それなりに部品の在庫はあるそうです。あと十年は大丈夫だろうって言ってました」

「なるほどね。それで、あのバイクはどうやって入手したの? かなりの高額だよね」

 少し間をおいて、颯空が小さい声で答えた。

「あのバイクは、父の形見なんです・・・」

「形見って、じゃぁ、お父さんは・・・」

「私が八歳のときに亡くなりました」

「そうだったのか。すみません」

 亡くなったと聞いて、次の言葉が出てこない。しばらく沈黙が続いた。

「大切なバイク。通勤に使ってしまっていいの?」舞が言った。

「はい、大切だからこそ乗るんです。乗らないでいると調子が悪くなってしまいますから」

 颯空の言うとおりだ。機械は動いてこそ価値がある。錆びついて動かなくなってしまったら、ただの粗大ごみにすぎない。異常な速さで走ることは車体の維持に必要ないが、駿は颯空の考え方には共感を覚えた。

「あのぉ」

 声のするほうへ振り向くと、部屋の出入口に望が立っていた。

「望ちゃん、どうしたの?」

 口の中にチョコを入れたまま、舞が反応した。

「シェフが颯空ちゃんを呼んでこいって」

「あら、今日は忙しくないはずよ」

 舞は、口の中で溶けたチョコをグイッと飲み込んだ。

「それが、急に十人くらいお客様が来てしまって」

 ホテルの宿泊客は食事を大食堂で済ませる。レストランに来るのは、食後のドリンクやデザートが目的だ。そのため忙しいことはほとんどなく、いつも望と颯空の二人でも十分対応できているが、まとまった人数の客が入れば一斉にオーダーが入って慌ただしくなる。

「あの、私、行ってもよろしいでしょうか?」

 颯空は席を立った。

「そうね。またの機会にしましょう。いいでしょ、駿」

 駿は反論するわけにはいかなかった。これ以上引き止めれば、颯空に迷惑がかかる。

「うん、わかった。颯空ちゃん、ありがとう。また聞かせてね」

「失礼します」

 一礼すると、颯空は急いで更衣室へ向かった。レストランでは、望とシェフが年配の女性客に囲まれてオーダーを取っていた。


「すごいな。 あれが普通の走りなんてさ」

 少しの事しか話せなかったが、駿は颯空の凄さの理由を理解できた気がした。父親が亡くなったとは知らずに、バイクのことを聞き出したのはまずかったが、もっと颯空のことを知りたいと思った。

「ところで」

 茶器を片づけながら舞が改めるように言った。

「どういうことかしら?」

 やや、重たい口調で切り出す。

「なにが?」

 駿は、何事もなかったかのようにとぼけた。

「そうだそうだ。どういうことなんだ?」

 いつの間にか広大がそこにいて、舞の言葉にかぶせてきた。

「いや、その、さっき見ただろ。そういうことだよ」

 舞にはとぼけることができても、広大の前ではさすがにそういうわけにはいかない。

「颯空のことを聞いているんじゃない。どうして俺たちに嘘をつく必要があったのか、ちゃんと説明してもらおうか」

 怒っているように聞こえるが、広大の顔は笑っていた。

「嘘をつこうとは思っていなかったさ。 途中で気が変わっただけだよ」

「いつ、気が変わったんだ?」

「そうだな、出発して五分後くらいかな」

 はぁ?と、広大と舞の頭にクエスチョンマークが浮かんだ。

「ばっかじぇねのか。初めから嘘つかずに、颯空と会いたいって言えばいいじゃんか」

 広大の横で、舞は下を向いて笑いをこらえていた。

「すまん。俺のやり方が悪かった。謝るよ。それと、さっきは助け舟を出してくれてありがとう。お陰で話しができてよかったよ」

「それでこれからどうするの?」笑いをこらえた顔で、舞が聞いた。 

「そうだな、また時間を作ってもらって、今日の続きを話してみたいさ」

 颯空と話ができたことで満足してしまい、今後のことについて駿は何も考えていなかった。

「そういうことじゃなくてさぁ」

 広大と舞は、声を出して笑った。

「今夜は、どちらにお泊りですか?」

 広大が、手に持っていたルームキーを、駿の顔の前で揺らして見せた。

「あっ! そうか、俺、今日のホテル、キャンセルしてたんだ」

 今夜泊まる場所がなかったことに、駿はやっと気づいた。

「すみませんが、今夜、こちらに泊めていただけないでしょうか?」

 自分の置かれた立場を理解した駿は、畏まった態度で二人に頼み込んだ。

「今夜だけでいいの?」

 舞が、いつものいたずらっ子の目で見る。駿は、少し考えて、

「いや、できれば一か月。休暇が終わるまでいいかな?」

「宿泊費、ちゃんと払ってもらうよ。あと食費もな」

 広大が笑いながら言う。

「もちろん。経費で落とすから、ガッツリ取ってくれ」

「目的は颯空だろ。仕事じゃないから経費は無理だな」

「いやいや、これも仕事のうちさ。期待の新人発掘をしたんだぜ」

 駿がレストランに目をやると、忙しく動き回る颯空の姿が見えた。

「期待の新人って。まさか、颯空をプロにするつもりか?」広大が小さな目を見開いて聞いた。

 駿の本業は、新型車のインプレッション記事を書くことだが、会社のレースチームに、素人をスカウトする役目も持っていた。

「まだ決めてはいないけど、その素質は十分ある。それを見極めてみたい」

 峠道での衝撃的な走りを見て、駿は颯空をプロの世界へ導くことができないかと考えていた。

「じゃ、そういうことで、宿泊延長ってことで決まりね」

 舞は、駿が牧場に残り、密かな楽しみがしばらく続くことを内心喜んだ。

「二人ともありがとう。助かるよ。それと、こんなタイミングで言うのもなんだけど、すごく腹が減ったよ。お金は出すから何か食べさせてくれ。 今日は昼から何も食べていないんだ。それに聞きたいこともあるし」

「特別なものはないよ。 カレーでいいだろ?」

 カレーかよ。レストランに行けばなにかあるだろ。と、駿は言いかけたが、部屋を用意してくれた広大にそれは言えなかった。

「それで、聞きたいことって?」

 ルームキーを駿に渡しながら広大が聞いた。

「うん。彼女の苗字と年齢を教えてほしいんだ。本社のスカウト部に知らせたいから」

「名前も知らずに近づいたのか。度胸あるなぁ。苗字は、畔木くろき、年齢は二十歳。舞、間違いないよな?」

 広大が舞に確認するように聞くと、舞は「うん」と、うなずいて答えた。

「畔木颯空が本名なのか・・。まちがい、ないよな」

 畔木というその名前を聞いて、駿は過去の記憶が蘇り凍り付いた。

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