第3話 二十年前のそれ

「加速が抜群にいい。静かで安定感もある。駆けぬける歓びってやつか」

「そういうの、よくわからない。わたし車オンチだから」

 札幌からの帰り道、駿は舞が所有するドイツ車のハンドルを握っていた。二千万円もする高級SUVは、広大がキャッシュで購入したものだ。

「ポケットマネーっていうけど会社の経費よ。自分のお金は一切使っていないの」

「お金は宮園リゾートが出したのか?」カーブからの立ち上がり、駿はグッとアクセルを踏み込んだ。

「そうよ。彼にそんな大金あるわけがないでしょ。宮園リゾートが子供に大量の飴を与えて、手懐けようとしているのよ」

 広大は子供ではないだろと反論しようとしたが駿は言葉を飲み込んだ。

「目の前に自由になるお金を積まれたら、俺でも子供になっちまうかもな」スピードメーターは百二十キロを指していたが、SUVの車内は普通の声で会話ができるほど静かだ。

「うん、駿ならいとも簡単に子供になると思うわ」 

「やっぱそうかなぁ」見透かされたような返事に駿は苦笑いした。

「でも、誰だってそうなるのよ。物に不自由しない生活を運よく手に入れてしまうと、今までの苦労を忘れて自分を見失うのね」

「物に不自由しない生活か。俺もそうなりたいものだ」

 駿は、SUVの速度を落とした。躍動していた車体は大人しくなり、まるでガラスの上を滑るように静かに進んだ。

「広大とはうまくいっているのか?」駿は、舞との会話に集中したいので、カーラジオのスイッチをオフにした。走っているとは思えないほど車内は静寂としている。

「表向きはね。仮面夫婦ってところかな。昔からそうよ。わかってるでしょ」

「そうか。それは寂しいな」と、とりあえず相槌を打っておいた。

「寂しくなんかないわよ。駿が私と遊んでくれているから、とっても満足」

「それさ、どうなの。そろそろヤバいんじゃない」

「今更でしょ。学生のころからの三角関係なんだから。知らないのは彼だけ。大丈夫よ」

「そうなのかなぁ。いい加減、毎年来ていることに疑問を持つと思うけどな」

 駿は、毎年夏の後半に仕事を建前に牧場へ来ているが、本当の目的は舞との逢引きだった。

「今夜も楽しもうね」舞は、駿の左手を引き寄せて自分の頬にすり寄せた。

「牧場ホテルのスイートで?」

「そうよ。彼、今夜は旭川で泊りだって。だから、ね」 

 舞は、いたずらっ子の目で駿を見る。駿は何も言わず笑顔で返した。今日の舞は、いつになく美しく見えた。十代のような白く張りのある肌。淡いグレーのリネンシャツの隙間から、ちらりと覗く胸のふくらみや首筋を見ていると、吸い付きたくなる衝動に駆られた。駿は、SUVの運転に集中しながら昨夜のことを思い出した。

 駿はあまり酒に強くはなかったが、レストランで広大がワインをがぶ飲みするペースに乗せられ、うまい酒をたらふく飲み、深く酔った。舞に手を引かれながらホテルのスイートルームへ入り、そのままベッドに倒れ込み眠ってしまった。どのくらい眠ったのか。ふと、夜中に目が覚めると、喉の渇きをおぼえたので、冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出して一気に飲んだ。高級な酒のお陰なのか、悪酔いはしていなかった。着ていた服が汗でベタついて気持ちが悪かったので、熱いシャワーを浴びた。たっぷりの湯で汗を流し、ボディーソープのボトルに手を伸ばそうとしたとき、シャワールームに舞が全裸で入ってきた。

「おい、いたのかよ」

「一緒に寝てたでしょ。楽しもうと思ってたのに、子供みたいにさっさと寝ちゃうんだから」

 舞は、駿が浴びているシャワーの中へ入り、向き合ったまま体を密着させてきた。しばらく熱い湯に身を任せて一緒に汗を流した。舞は、駿の両腕を持ち上げて頭の後ろで組ませた。シャワーを止め、泡立てたボディーソープを手に取り駿の体に這わせた。首筋から脇の下へ手をまわし、盛り上がった胸の筋肉をゆっくり揉み上げて、親指で乳首をころがした。男であってもそこは敏感なところだ。

「うっ」

 駿は、組まされた腕をほどこうとしたが、舞はそれをゆるさない。乳輪を這うように指をまわし、親指と人差し指で乳首をつまんだ。

「あぁっ」

 その刺激に反応して硬直した駿の肉棒は真上を向き、ヒクヒクと震えながら舞の下腹部に触れた。

「ジュニア、元気ねぇ」

 舞は乳首への刺激をやめ、いきり立ったそれを手に付けた泡で包みこんだ。片手で陰嚢をゆっくり揉み、もう片方の手を肉棒に添えて上下にさすった。目をつぶり、されるがままの駿。徐々に興奮が高まり、それは更に硬直した。舞の手は亀頭を包み、軽く素早いタッチで刺激を与えた。ヌメヌメとした泡と柔らかい手で攻め立てられ、絶え間ない快感が駿の全身に走った。

「あっ」

 短い歓喜の声とともに、駿の肉棒から熱い粘液が勢いよく舞の手の中で飛び散った。

「ふふっ。まだまだこれからよ」

 体に残った泡を洗い流し、二人は抱き合ったままベッドに向かった。舌を絡め、お互いの身体をまさぐり合う。駿は、舞の張りのあるおわん型の胸を揉んだ。舞はしだいに息が荒くなり小さく声をあげた。駿の体を横倒しにして覆いかぶさり、噴射したばかりの肉棒をさすり口に含んだ。亀頭を吸い上げながら舌でこねるように舐めまわした。肉棒はすぐに血管が浮き上がるほど固くなり、そそり立った。舞は馬乗りになり、脈打つ肉棒をひだの中へ迎え入れた。ゆっくり根元まで挿入させ、腰を上下や前後に動かし、奥にある壺にあてながら何度も昇りつめた。駿は、ゆれる乳房を下から持ち上げ、十分に揉みあげ乳首をつまんだ。舞は更に興奮し激しく腰を振った。やがて頭の中が真っ白になると、駿の上に倒れ込み、体を震わせながら、しばらくその余韻に浸った。


「やっぱり、いつかはバレるよな」

 ふと我に返り、駿は今まで思いもしなかった言葉を口にした。消していたFMラジオをオンにすると、モンクのジャズが静かに流れた。街道沿いのスタバで買ったコーヒーは、まだ、ほんのりと湯気を立てていた。

「怖いの? いいじゃない、バレたって」

「いいってことないだろ。俺と広大は友人なんだからさ」

「だって、事実なんだし、そうなったら離婚しちゃうし」

「おいおい、それだけは勘弁してくれよ。俺が原因で終わりにされたら合わせる顔がないじゃないか」

「とっくに合わせる顔がなくなるようなことしておいて、今さらなにを言っているんでしょうねー」

 舞は、駿の左手を取り自分の頬にそえた。手の甲を頬でさすりながら、指と指を絡め、そのままスカートの中へと導いた。

「おいおい、運転に集中できないよ。ダメだってば」

 いつ脱いだのか、ストッキングを履いていない。さらさらした肌の生足に触れ、駿の股間はすぐに反応した。

「あら、ジュニアが元気になっちゃってるぅ」

 舞はクスっと笑いながら、太ももに乗せていた手をゆっくりと奥まで引き寄せた。

「ダメだってば」

 車を走らせることに集中したいが、その意識は左手に向いていた。指先がそこへ到達したとき、下着の上からでもしっとり濡れているのがわかった。このままでは事故を起こす。手をどけるべきなのだが、心は誘惑に勝てず欲望を満たそうとする。拒んでいた駿の手は力を緩め、中指の先を割れ目に沿って、ゆっくりとじらすように動かした。

「あぁぁん・・」

 舞はじっと下を向いて、駿の指の動きを感じた。遠慮がちだった指は、次第に大胆になり、下着の中へ侵入した。中指の先端で、濡れた蕾をころがすように撫でまわした。

「あぁん、いい・・・」

 駿は興奮をおさえきれず、中指を膣の中へ挿入した。舞は昇りつめ、かすかに体が震えた。


「ヴォーン、ヴォーン」

 そのとき、後方からシフトダウンするバイクの排気音が車内に入ってきた。駿は、慌てて手を引っ込める。舞は余韻に浸ったままだ。

「いつのまに。見られてないよな」

 ルームミラーで後方を確認すると、レーサータイプのバイクが、すぐ後ろに迫っていた。

「先に行かせるか」

 ハンドルを左に切って路肩に寄せ、ハザードランプで合図した。直後、バイクは車の右側をあっという間に抜けて行った。横を通り過ぎたとき、車体の側面に見覚えのある、青、白、赤のラインが目に入った。

「あのバイク・・。 まさか」

 ハザードを切り、ミッションをマニュアルモードに切り替えて急発進させた。

「ねぇ、どうしたの。危ないじゃない」余韻に浸っていた舞は、強引に現実へ引き戻された。

「もしかしたら、奴かもしれない」

「奴って?」

「昨日、バイクで牧場に向かっていたとき、俺を峠でぶち抜いた奴がいたんだ」

「駿をバイクで抜いたの? それが今の人?」

「たぶん。排気音とバイクのデザインが似てた」

 アクセルを強く踏むと、SUVは怒涛の加速をみせた。ドイツ車のそれは伊達ではない。だが、そのバイクはあっという間に距離を広げ、視界から消えて行った。

「見えなくなっちゃったね」

「そうだな。俺を抜かすくらいだから、簡単には追いつけないさ」

「なんのバイクなの?」

 駿の耳に残る排気音は、ビートの効いた四気筒のV型エンジンだ。

「VFかな」

「ブイエフ?」

「うん。アルファベット二文字でVFだ」

「何色のバイク?」

「レーサータイプで、青、白、赤のラインが入っていたな」

「乗っていた人は、ブルージーンズに、黒の革ジャケットだった?」

「うん、そうだったような気がするけど」

 具体的に質問をしてきたので、駿は不思議に思った。

「走り去って行くとき、背中が見えたから。駿が抜かれた時も同じウエア着てた?」

「どうだろ。よく覚えていない。それどころじゃなかったからさ」

「さっきのバイク、もしかしたら知っているかも」

 舞は、何かを思い出したかのようにつぶやいた。

「ライダーを知っているのか。いったい誰なんだ?」

「う~ん、教えてあげてもいいけど、どうしようかなぁ」

 舞は、駿の膝を指でなぞった。

「ねぇ、このままホテルに行くでしょ」

「ホテルじゃなくて牧場だろ。もうすぐ着くよ」

 車は、牧場まで五分足らずのところに来ていた。

「うん。じゃぁ、さっきの続きしようね」

 また、いたずらっ子の目で駿を下から覗き込んだ。

「舞、それはそれとして、先にライダーが誰なのか教えてくれよ」


 牧場に到着したのは午後四時だった。駐車場に停めた車から両手いっぱいの荷物を降ろし、そのままホテルに向かった。

「それにしても、ずいぶんたくさん買い込んだな」買った物全てを駿が抱え込み、舞は手ぶらだ。

「そうよ。買い物くらいしか楽しみないもん」

 買い物のほとんどは舞が着るためのブランドの服だ。合わせて駿へのプレゼントやスタッフたちへのお土産もあった。

「ねぇ駿、部屋に荷物置いたら、裏の駐車場へ来て」

「まだ荷物があるのか?」

「荷物じゃなくて、バイクのこと聞きたいんでしょ。教えてあげるから来てよね」

「うん、わかった。すぐに行く」

 駿は急いで部屋に入り、ベッドの上に荷物を放り投げた。そのまますぐに部屋を出てホテルの裏側にあるスタッフ専用駐車場へ向かった。客用の駐車場はアスファルトで綺麗に整地されているが、ここは砂利が敷き詰められていた。駿は、駐車場の出入口に立っている舞を見つけた。

「舞、バイクのことってどういうことなんだ」

 舞が、駐車場に停めてある一台のバイクを指さして言った。

「これ、さっきのバイクじゃない?」

 駿は、舞の目の前にあるバイクに近寄り、車種やカラーリングを確認した。

「たしかにこいつだ。間違いない。なぜここに」そう言いながら、バイクのエンジンに手を近づけた。

「まだ熱い。さっきまで乗ってたみたいだ」

「これって、ブイエフっていうバイク?」

 四気筒のV型エンジン。白、赤、青のラインが入ったカウルにはRVFの文字が刻まれていた。

「そう、そのとおり。RVF750。RC45だ」

「アールブイエフ? アールシー? 名前がふたつあるの?」

「いや、そういうことではないよ。RVFは車名でRCはエンジンの型式だ」

「そうなのね。ぜんぜんわかんないけど」

 駿は、目の前にあるこのバイクが、途轍もない性能を持っていることを知っていた。今から二十年も前、駿が子供の頃に製造されたモデルだが、今でもこのままサーキットに持ち込んでレースができるほどのポテンシャルを持っている。

「まさか、こんなところにこいつが・・・」

 バイクに、鼻がつきそうになるくらい顔を近づけて、車体の隅々まで観察した。

「このバイク、なんだか速そうね。性能は凄いの?」

「うん、凄い。半端じゃない。乗りこなすには相当なテクがいる。それに、そもそもこいつは、製造台数が限定されていて、たしか五百台だけだったと思う。そこらへんの中古屋には絶対出ない代物だよ」

 駿は、きれいに磨かれて傷ひとつない艶のあるカウルの横から、エンジンを覗き込んだ。

「このバイク、うちのスタッフが乗っているのよ」

 駿は、希少なバイクに見とれて、肝心のライダーのことを聞き忘れていた。

「そうなのか。誰なんだよ。会わせてくれ」

「どうしよっかなぁ。ちゃんとさっきの続きしてくれる?」

 舞は、また、子供の目で駿を挑発する。

「ちゃんとするさ。それはそれ、これはこれ。はやく教えてくれ」

「約束だからね。破ったらジュニアつねっちゃうから」

 指をねじって、つねる真似をしてみた。

「舞、たのむ、いったい誰なんだ」

 手を合わせて拝み倒す。

「わかりましたぁ。それではレストランに行きましょう」

 時刻は日没に近づいていた。陽が傾き、足の長い柔らかな光がバイクに届いていた。RVFの白地のデカールがオレンジ色に染まっている。舞と駿はレストランに入り、昨日と同じ席に座った。

「それで、誰なんだ。バイクの持ち主は」

「もうすぐここへ来るわよ」

「仕事中なのか」

 駿は、店内を見まわして勤務しているスタッフをチェックした。

「昨日と同じ、ジェンダーと栓抜きの子しかいなけど・・・」

「なにそれ。名前しらないの?」

 舞はメニューブックを開き品定めを始めた。

「誰なんだ。どこにいる。厨房か」

 首を左右に振り、店内をくまなく見渡す。

「さっきから「誰なんだ」ばっかり。ニワトリみたいで挙動不審よ」

 舞は、オーダーを決めるとスタッフを呼んだ。

「颯空ちゃん、お願いね」

 颯空は予約もなしに不意に店に入ってきた二人を見つけて、いつでも対応できるように身構えていた。舞に声をかけられると、即座に注文用の電子端末を持ってテーブルへ向かった。

「いらっしゃいませ。昨日は大変失礼いたしました」

 広大はいないが、こわばった表情で栓抜き事件のことを謝罪する。

「昨日って、なにかあったの?」

 舞は、事件のいきさつを知らない。

「とりあえず、生ビールね。お料理はお肉にしようかな。簡単なものでいいから、お任せね」

 颯空が演じた失態には触れることなく、舞は、オーダーを続けた。肉料理で簡単なものはないと知ってはいたが、食事が目的ではなかったので適当にオーダーしておいた。

「はい、かしこまりました。お飲み物はすぐにお持ちします」

 颯空は、昨日のことで舞に叱られるとばかり思い込んでいたが、そのことについて何も言われることなく安堵した。オーダーをハンディータイプの端末に打ち込んでから奥へさがって行った。

「颯空ちゃんよ」

 オーダーブックを片づけながら舞がつぶやく。

「栓抜きちゃんの名前?」

「栓抜きちゃん? なにそれ? 颯空ちゃんが、あのバイクの持ち主なの」

 グラスの水を飲みかけた駿の手が止まった。

「彼女がRVFのオーナー? 女の子じゃんか」

「うん。通勤でいつも乗ってくるわよ」

 あのバイクを通勤で使用していることと、持ち主が若い女の子だと知らされ、駿は耳を疑った。

「嘘だろ。あの若さでRVFを手に入れることなんて無理だ。最低でも五百万円くらいはするからな」

「そんなにするの? でも、あのバイクはお父さんが乗っていたらしいわよ」

「お父さん? そうか、バイク好きのお父さんが、何台も所有しているうちの一台を彼女に譲ったってことか」

 探偵のような口ぶりで憶測を並べる。

「うーん。そういう簡単な話ではないみたいよ」

「どういうこと」

「五百万円もする高価で希少なバイクを、娘の通勤用にあげたりしないでしょ」

「まぁ、たしかに。それもそうだ」

 舞は、その理由を知ってはいたが、その時はなぜか黙っていた。

「颯空ちゃんが面接に来たとき、バイクで通勤してもいいかって聞かれたの。 通勤するには車がないと駄目だから許可したのね。そのとき、広大ったら、颯空ちゃんとバイクの話題で盛り上がっちゃって」

 広大は、学生時代に駿とツーリングへよく出かけていた。駿はレーサータイプのバイクに乗り、広大はハーレーのスポーツスターだった。所有するバイクのタイプは違うが、同じ趣味を持つことで二人は意気投合していた。

「面接中にバイクの話題で盛り上がったのか」

「そうなのよ。かわいい子が来ると、すぐに脱線しちゃうの」

「お待たせしました。 クラシックの生です」

 冷凍庫で冷やしておいたジョッキは、外気に触れて真っ白になっていた。淵まで盛り上がったきめ細かい泡が、うまそうに見える。

「あの・・・」

 駿は、バイクのことが聞きたくて、いや、それよりもあの走りのことが知りたくて、颯空の前に立ちあがった。

「はい、なにか・・・。おつまみの追加ですか?」

 あの、と声をかけたまではよかったが、続く言葉が出てこない。

「あの・・・」

 緊張した表情の駿を見て、舞がクスっと鼻で笑う。

「はい、なんでしょうか?」

 固まったまま、仁王立ちしている駿。会話が続かない。

「あ、いや・・・」

 駿は、颯空と目が合うと、頭の中が真っ白になった。こんな若い女の子が、峠であっさりと自分を抜き去った。しかも異常なまでの速さで。普通にバイクのことを聞けばいいのに、本人を目の前にして、なぜか極度の緊張で言葉が出てこなくなっていた。

「相変わらず口下手ね」

 ジョッキの泡が消えぬうちに、舞は生ビールをグイッと喉に流し込んだ。

「私が聞いてあげよっか?」

「あ、いや、いいよ。俺が聞く」

 やや緊張した空気がしばらく流れた。颯空は、昨日の失敗を叱られるのではないかと思い、胸がかすかに震えた。

「ん?」

 駿は、とにかく何か話をしようと思い颯空と目を合わせると、目線が自分と同じ高さにあることに気づいた。

「はい、なんでしょうか」少し震えた小さい声で颯空が答えた。

 オーダーではない。きっと怒られる。そう感じた颯空は、舞に視線を向けて助けを求めた。

「あ、いや、その。背が高いですね」

 想定外の会話に、プッと舞は飲みかけたビールを吹き出した。

「駿、笑わせないでよ。もう、勘弁してちょうだい」

 駿の身長は178cmある。少し低いが、颯空との目線は、ほぼ同じ高さだ。

「身長、いくつですか?」

 駿は、やっとの思いで言葉を発したが声が上ずっていた。しかも、質問は聞きたいこととは全く関係がない。

「はい、あの、身長ですか? 170センチです」

「170ですか。高いですね」

 乏しい語彙でなんとか会話を続ける。よくよく見ると、颯空は、均整のとれたモデルの体型をしていた。やせすぎず、無駄な肉はついていないが。背筋が自然にすっと伸び、しっかりした体幹を身に着けているように見えた。白い肌には、若々しい自然な張りと艶があった。

「それが聞きたかったの?」

 子供のような会話に、舞の笑いが止まらない。

「あ、いやいや。なにかスポーツはしていたの?」

 一向に進まない会話にしびれをきらした舞が切り出した。

「バイクのこと、教えてほしいって」

「おい、それは俺が聞こうとしたのに」

「あら、そうですか。じゃぁ、続けてね」

 舞は、一杯目のビールを飲み干した。

「バイク、ですか?」

 仕事のことと思い込んでいた颯空は、バイクと聞いて少し緊張が和らいだ。

「うん、駐輪場にあるバイク。あれはあなたのでしょ?」

「あの、VFのことですか」

「そうそう。RVFね」

「はい、私のですけど」

 リンリン。厨房から呼び鈴の鳴る音が聞こえた。料理が出来上がったことをフロアスタッフに知らせる合図だ。

「すみません。料理ができたので、戻ります」

 二人に一礼してから、颯空は厨房へ戻っていった。料理を持って再びテーブルへ来ると思っていたが、その日は二度と二人の前に姿を見せなかった。宴会場の人手が足らず、颯空は応援にまわっていた。代わりに望が料理を運び、テーブルへ来るたびに駿と長話をしていた。すっかり意気投合した駿と望は、馬鹿話に花が咲いていた。颯空のことを忘れ、会話に夢中の駿に呆れかえった舞は、二杯目のビールを飲み干してから、別邸へ帰って行った。

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