第2話 牧場

「少し太ったみたいだな」

 控え気味に少しとは言ったが、広大の腹にはでっぷりと肉がついていた。

「十キロぐらい増えたかな。最近、付き合いが多くてね。ダイエットしている暇がないのさ」

 駿は一年ぶりに再会した広大と挨拶を交わしたあと、バイクから荷物を降ろそうとしたが、広大が牧場内を案内するというので、荷物はそのままにして、用意してあったゴルフ場にあるような電動カートに二人は乗り込んだ。時刻は午後六時近くになっていたが、太陽を遮る高い建物がないので、周囲は昼間と変わりなく明るかった。

「こんな大きな建物、いつ建てたんだ」赤く塗られた大きな三角屋根の建物を前にして駿が訪ねた。昨年来たときこの建物はなかったので新築のようだ。

「今年の春だよ。構造が簡単だから二か月でできた」

「えらくでかいな。サッカーができそうだ」

「そこまで大きくはないさ。テニスコート四面くらいかな。この中で八十頭の牛を飼育しているよ」

「八十もいるのか。以前は二十頭くらいだろ。 たったの一年でここまで増やせるなんてすごいじゃないか。さすが広大だ」

 カートを降りた二人は、牛舎の出入口で専用の長靴に履き替えてから建物の中へ進んだ。中央にまっすぐ伸びる通路の両側に、鉄パイプで仕切った区画があり、その中に白黒の牛が一頭ずつ格納されていた。餌を食べた後のようで、横になって反芻を繰り返している。区画の中は清潔な状態が保たれており、一頭ずつ大切に飼育されているのがわかる。だが駿には、その牛たちが自由のない檻に入れられた動物園の動物たちと同じに見えてならなかった。

「たしか牛は放し飼いだったよな。自由に動き回って草を食べていた」駿はそう言うと、反芻を繰り返す牛の前にかがみこんだ。牛舎特有の、あの独特の匂いはしない。

牛の皮膚は清潔に保たれており、管理が行き届いているのがわかる。健康状態は良好のようだ。

「放し飼いの時間はあるけど、草を食べるためではなくて、散歩が目的だよ」

「そうなのか。散歩のとき、草は食べないのか」

「食べる子もいるけど、ほとんどは食べないね。飼料を与えているから食べる必要がない。飼料は草の餌よりも乳の出る量が多いから生産性がいいのさ」

 牛は陽の光をたっぷり浴びた草を食べ、体内にある酵素の力によって分解し、体や乳を作り出す。そう教えてくれたのは広大だ。自然の摂理を大切にしているのがこの牧場の特徴であり売りだったが、その良さはなくなっていた。

「前は、ここで十人くらいのスタッフが手作業で乳搾りをしていたけど、今はだれがしているんだ」駿は立ち上がり、牛舎内を見まわした。

「うん、人が行う乳しぼりは時間がかかるし、とてもきつい作業だ。今の若い人はそれを嫌う。だから機械化したのさ。自動搾乳機を導入してから作業はずいぶん楽になったよ」 

「他のスタッフはどこにもいないけど。まさか解雇したとか?」

「いやいや、そんなことはしないさ。みんなあそこにいるよ」

 広大はそういうと駿を牛舎の裏手へ案内した。百メートルほど先へ行ったところに、牛舎に似た造りの建物があった。

「スタッフの宿舎か?」

「いや、ホテルだよ。観光客を取り込もうと思ってね」

「これも今年建てたのか?」

「牛舎は四月に完成したけど、こいつは六月だ。突貫工事で建てさせた。観光シーズンに間に合ってよかったよ。お陰で今年の夏はガッツリと儲けさせてもらったさ」

 北海道をイメージさせるための演出なのか、ホテルの外装は年季の入った古めかしい木材で覆われており、一見すると山小屋のようだ。

「ここの設計は、東京と横浜のホテルも手掛けているデザイナーに依頼したんだぜ」

 二人はホテルの中へ入った。牧歌的な風景に合わせた外装とは違い、内装はダークにまとめられ漆を基調とした艶のある調度品が置かれていた。ブラックの革ソファーはでイタリアの一級品。フロントにいる二名のスタッフは、アイロンの効いた清潔なシャツに黒のジャケット。磨かれたコードバンの靴を履き、髪を整え、手指は爪先まできれいにケアされている。凛とした表情で背筋をまっすぐにして立ち、いつでも客を迎えられるようにスタンバイしていた。

 この牧場の土地は、明治時代に広大の先祖が開拓したものだ。広さは東京ドーム十個分に相当する。当初はジャガイモや玉ねぎなどを生産する農場だったが、三代目になる広大の父が牧場の運営に乗り換えていた。一頭から始めた乳牛の飼育は、苦労の末に十頭まで増えた。雄大な自然の、新鮮な水と栄養豊かな草を食べて育った牛は良質な乳を出した。内地で流通している味気のない水のようなそれとは違い、生クリームのような濃厚な味わいがある。牛乳は道内の有名ホテルの間で評判となり、それを飲んだ旅行者が牛乳目当てで牧場に来るほど知名度は高かった。広大は、大学を卒業するとすぐに北海道へ戻り家業を手伝ってきたたが、三年前に父が六十五歳の若さで他界してからは、一人息子の広大がそのまま後継者となり現在に至っていた。

「多角経営か・・」

 駿が、二階まで吹き抜けた高い天井を見上げながらつぶやいた。広大が食事を奢るというので、二人はホテルの奥にあるレストランへ入った。ここの内装もデザイナーが設計したものらしい。道産の木材を加工せずにそのまま活かした壁は、丸太小屋を連想させる。レストランの目の前には牧草地が広がり、のんびり散歩をする牛を眺めながら食事を楽しむことができる。陽が沈むころになると、店内の壁は真っ赤に染まり、うまい酒と料理を堪能するのに相応しい演出効果をもたらしていた。


のぞみちゃん、オーナーが来たよ。前菜お願いします」

 広大が駿を連れてレストランに入ってきた。二人を予約席へ案内した畔木 颯空くろきそらは、厨房にいる望に声をかけた。

「はーい。 何人来たの?」浅黄 望あさぎのぞみが颯空に聞いた。

「二人みたい」

「オッケー、前菜出すね」

 望は温蔵庫から二枚のスープ皿を取り出し、北海道のコーンと牛乳で作ったポタージュを注いだ。

「颯空ちゃん、スープお願いねぇ」

「サラダは?」

「あっ、わすれてたぁ。いま出すからぁ」

 冷蔵庫から、あらかじめ盛り付けておいたサラダを取り出し、スープの横に並べた。広大に出す料理はシェフが全て作り終えてあり、望が状態をチェックして出すだけにしてあった。

「颯空ちゃん、オーナーと一緒に来た人って、男の人?」

「そうだけど」

「じゃぁ、お顔チェックしてきてね」

「はいはい、わかりました」

 颯空は、トレーにスープとサラダを載せ、急ぎ足でテーブルへ向かった。

「いらっしゃいませ」

 広大の左側に立ち、サラダ、スープの順番で、音が立たないように、そっとテーブルへ置いた。

「ワインはどうした?」

 広大が、尖った口調で言い放つ。

「はい、申し訳ございません。ただいまお持ちします」

「急いでくれ」

 シェフから、オーナーが来たらワインを先に出すように指示されていたことをすっかり忘れていた。颯空は慌てて厨房に戻り、ワインセラーの中から富良野産の白を取り出した。ボトルを落とさないように両手で持ち、急ぎ足でテーブルに向かった。

「お待たせしました」

 ボトルを広大の右側に両手を添えて置いてから、さっと二人に背を向けて颯空は早々にその場を立ち去ろうとした。

「なぁ、栓抜きは?」

 颯空は、さっきよりもドスの効いた声にギクリとして振り向くと、広大が上目遣いでこっちを見ながら、ワインの栓を指さしていた。

「あっ、申し訳ございません。すぐ」

 すぐにお持ちしますと言い切る前に広大が遮った。

「急げよ」

「はい、申し訳ございません」

 颯空は、一瞬で重たくなったその場の空気に吞み込まれ、息もできないくらいの緊張を覚えた。

「ねぇ、どんな感じ? イケメンだった?」

 ひきつった表情で戻って来た颯空に、望は無神経な質問をした。

「なにが? ねぇ、栓抜きどこだっけ?」

 颯空は、短時間で仕事を済ませようとする泥棒のように、カトラリーが入っている引き出しを片端から開けはじめた。

「栓抜き? そこよ、二段目の引き出し」

「二段目? どこよ、ないじゃん」

「うそっ。さっき使ったわよ」

 望が二段目の引き出しの奥に手をつっこみ、栓抜きを掴んで取り出した。

「ほら、あるじゃない」

「なんでそこにあるのよ。ちゃんと探したのに」

 望の手から栓抜きを奪い取り、颯空は駆け足で広大のいるテーブルに向かった。

「大変お持たせしました」

 栓抜きをワインの横に置いて、壁に当たって跳ね返ってくる球のように、くるりと背を向けて戻ろうとした。

「あ・の・さぁ」

 また広大だ。今度は重い声に憎しみの感情がこもっている。

「これ、栓抜きじゃん」

「え、あの、はい、栓抜きですけど・・・」颯空の顔は血の気が引いて真っ青になり、背中にドッと冷汗が流れた。

「え、じゃねぇよ。こいつは瓶の栓を抜くやつだけど」

 二人のやり取りを静観していた駿は、プッっと下を向いて吹き出した。真っ青だった颯空の顔が、今度は恥ずかしさで火を噴いたように真っ赤に染まった。颯空は、謝ることも忘れて何も言わずにその場から逃げ出した。

「あぁ、もうだめぇ、わたし、もう行けなーい」

 颯空は厨房に逃げ込み、作業台にあった雑巾を手に取って半べそになった顔に当てた。

「颯空ちゃん、それ、雑巾よ」望が慌てて颯空の元へ駆け寄る。

「あーん、もういいからぁー」

 颯空は、壁に向かってバシッと雑巾を力任せに叩きつけた。

「ねぇ、どうしたのよ。なにがあったの?」

「栓抜きと栓抜きまちがえた。もう、むりぃ」

「はぁ? 栓抜きと栓抜きってなに?」

 望は、さっき颯空が慌てて戻って来た時、何も考えずに渡したのは王冠用の栓抜きだったことを思いだした。

「あぁ、そういうことねぇ」

 状況を理解した望は、ワインセラーの引き出しからコルクの栓抜きを取り出し、急いで広大のテーブルへ向かった。

「はい、栓抜きお持ちしましたぁ。よろしければ、お抜きましょうか」望が広大の隣に膝をついて座った。

「うん、早くやってくれ。待ちくたびれた」

「はーい」

 望は立ち上がり、慣れた手つきでコルクを抜いてから、広大のグラスにワインを注ごうとした。

「俺じゃなくて、客のグラスからついでくれ」

「はーい。お客様どうぞ」

 望は、ゆっくり時間をかけて駿のグラスへワインを注ぎながら、横眼で顔をしっかりチェックしておいた。

「颯空はどうした」広大が聞いた。

「うーん、顔面蒼白かな。いや、真っ赤かも。フフッ」

「そうか、気にするなって伝えておいてくれ」

「はーい。お料理順番に運びますね」

「あぁ、よろしく」

 二人に背を向けると、望は腰を左右に振りながら厨房へ戻って行った。

「なぁ、広大」駿が望の腰を見ながら言った。

「駿、まずは乾杯といこう」

「あぁ、そうだな。乾杯だ」

 軽くグラスを合わせ、とりあえず一年ぶりの再会を祝った。

「なぁ、さっきの子、男だよな?」ワインを一口飲んでから駿が質問した。

「あぁ、そうだけど」

「トランスジェンダー?」

「うん、そんなところだ。一緒にいる連中はちゃんと理解しているから、問題は起きていないさ」

「そうなのか。今は昔と違って世の中が理解しているから、自由に表現ができるようになったよな」

 駿は広大の話に納得すると、グラスの中でワインを回しながらひとくち含み、香りと味を楽しんだ。フルーティーで渋みがなく軽快な味わい。アルコールを感じさせない葡萄ジュースのようだ。広大はすでに三杯目のグラスを空けようとしていた。

「最初に来た子は?」

「颯空のことか? あれはジェンダーではないよ」

「いや、そういうことじゃなくて。彼もそうだけど、彼女も去年はいなかったよな」

「うん、二人とも今年の七月に採用したんだ。夜の時間帯に働ける人がいなくてね。みんなは牛の飼育が本業だから朝が早いし」

「なるほど。レストラン専属スタッフか。それにしても面白い」

 駿はグラスに半分残ったワインを、今度は一気に飲み干した。


「ねぇ、望ちゃん。お願いだから料理持ってって」颯空が、荒れた口調で望に懇願している。

 デシャップに並べられた出来合いの料理を、誰が広大のテーブルに持っていくのか、颯空と望が口論していた。

「だめよ。これは颯空ちゃんの仕事でしょ」

「あーん。おねがーい。今日、わたしもうダメだからぁ」

「がんばるのよ。イケメンが待ってるわよ」

「イケメンなんだから、望ちゃんが行けばいいじゃん」

「はやく持って行かないと、また怒られるわよ」

「なんで私なのよー。他にもスタッフいるでしょー」

「今日は、私たちが遅番だから、誰もいないの」

「もう二度と遅番やらない。料理置いたら、さっさと帰るから」

「うん、わかったわかった。まずはホタテからお願いね」

 望は、きれいに料理が盛り付けられた大きな皿を颯空に手渡した。

「落とさないように。しっかりね」

「はぁ。もう、しょうがない。行ってくる」

 大皿に隙間なく盛られた料理はとても重く、両手で持たないと支えきれない。料理は全部で七品。テーブルまで慎重に何度も運ばなければならず、颯空はそれを考えると気が遠くなりそうだった。

「ホタテとボタンエビの盛り合わせでございます」

「うん。ありがとう。どんどん持ってきてくれ。あとスコッチも頼む」

「はい、かしこまりました」

 広大はワインを飲んで気分がよくなったのか、さっきまでの刺すような口調は消えていた。さらなる口撃がなかったことに拍子抜けして、颯空は緊張から解放され全身の力が抜けた。態度が変わらぬうちに全ての料理を運んでしまおうと、急いでデシャップに戻り次の皿を手に持った。

「もう、落ち着いてたでしょ」望が、颯空の顔をのぞきこむようにして言った。

「うん。人が変わったみたい」

「お酒飲めば気分良くなるから。じゃぁ、続けて料理お願いね」

「うん」

 黒子のように気配を消しながら何度かテーブルを往復したが、広大は酒と話しに夢中で颯空の存在に気づくことはなかった。ようやく最後の料理を運んだとき、いつの間にか駿の隣の席に広大の妻、茅森舞かやもりまいが座っていた。

「颯空ちゃん、トムコリンズお願いね」

「はい、奥様。かしこまりました」

 広大がチラッと顔を向けたが、颯空は目を合わさず厨房へ逃げるように戻った。

「奥様が来てた。カクテル作らなきゃ」

「あら、奥様が来てるのね。挨拶してこなくちゃ」

 颯空はカクテルを作り、望は舞へ挨拶をしてから厨房に戻り明日の準備を始めた。


「乳牛管理の自動化とホテル経営を両立していたなんて想像もしていなかったよ。しかもたったの一年でさ」駿が言った。

「構想は前からあったんだ。それを実行しただけ。思っていたほど苦ではなかったよ」広大は、つまみを口いっぱいに頬張りながら、片時も手放さないグラスから水ようにワインを口へ流し込んだ。

 テーブルには道産の食材をふんだんに使った料理が並べられた。ゴルボールくらいの大きなホタテやボタンエビ、築地で見るそれよりもはるかに太いタラバガニの脚。仙鳳趾牡蠣に松前まぐろ、ムラサキウニやブドウエビなどの海産品でテーブルは埋め尽くされた。

「おいおい、こんなに出されても食べきれないぞ」

「いいじゃないか、お前のために料理長が用意したんだ。遠慮しないで食ってくれ」

 広大は、グラスのワインを飲み干し、今度は新鮮な牡蠣にスコッチを垂らして豪快に口へ放り込んだ。やや下品にも見えるその食べかたは、駿が知っている彼とは何かが違っているように見えた。

「ホテルのスタッフは、元々は牧場で働いていた人たちだろ?」

「そうだけど」

「仕事が変わることを、全員が理解してくれたのか?」

「あぁ、そうだよ。みんな牧場が好きでここへ来たけど、それに関連する仕事だからやってみたいってことになったわけ。牧場とホテルの仕事を交代でやってもらっているよ」

 広大は、スプーンにのせた鮭のルイベに、艶のある山盛りのイクラをのせて、ひとくちで食べた。

「そうなのか。それにしてもみんなホテルマンがしっかり身についているな。短期間で誰が教育をしたんだ?」

「宮園リゾートよ」

 舞が間髪入れずに答えた。彼女は黒いリネンのジャケットに、胸元まで開いたシルクの白シャツ。黒のタイトスカートとジミーチュウのヒールを履いていた。舞は、駿や広大と同じ大学に通っていた同期生だ。学生時代に広大と恋仲になり、卒業と同時に結婚していた。

「何時ごろ着いたの? 私はさっき札幌から帰ってきたところ」

「六時前くらいかな。場内を案内してもらって、今は接待されているところ」

 駿の隣の座る舞の、足の根元までザックリ切れ込んだスカートの間から、白い脚があらわになっていた。

 舞がオーダーしたカクテルを颯空が運んできた。三人は一年ぶりの再会を祝して乾杯を交わし、すぐに昔話が始まった。広大は、うまい料理をたらふく食べ、がぶのみしたワインで酔いがまわり、眠くなったと言って先に別邸へ引き上げて行った。

「二人とも、元気そうだな。それにこのホテル、全く聞いていなかったから驚いたよ」

 駿も酔いがまわりはじめていた。

「それがね」舞が目線を床に落としながら言った。

「どうした?」

「さっき言ったでしょ。スタッフの教育をしたのは宮園リゾートだって」

「うん、そうだったな。宮園リゾートって、再生事業がビジネスモデルの会社だよね」

 宮園リゾートは、バブル経済が崩壊して不良債権となった観光地のホテルをターゲットとして、数多くの買収を行っている。サービスを無視した投資目的のホテル経営を根本から見直し、利益重視から顧客満足度重視へ方向転換を行い事業のV字回復を実現してきた。

「その宮園リゾートが、なんでこの牧場の手伝いをしているんだ」

「手伝いじゃなくて、買収が目的なのよ」

「洒落たホテルや牛舎があるのは、買収と関係があるのか」

「二年前に宮園リゾートがビジネスの提案をしてきたの。出資するから一緒にやろうって」

 舞は、二杯目のカクテルをオーダーした。

「それは、いい話なんだよね」

「彼はいい話だと思っているでしょうね。でも私はそうは思わない。これは牧場の乗っ取りに違いないのよ。そうでなければ、無利子で三億円も出資するわけがないじゃない」

「無利子で三億円も出したのか。担保は?」

「それがないの。おかしいと思わない?」

「飴と鞭という言葉があるけど、飴しかないな。なにか裏がありそうだ」

「そう、そのとおり。駿だってそのくらいはわかるでしょ。彼にはそれが見えないのよ。全て宮園リゾートに任せてしまって、自分は何もしないけど社長気取り。次は、チーズ工場と売店建設らしいわ」

 短期間で様変わりした理由がこれで理解できた。だが、駿には舞の話は悪いようには思えなかった。宮園リゾートは優良企業だ。事実、牧場の経営は成功しているのだから素直に喜ぶべきだろう。

「三日間ほどお邪魔させてもらうよ。そのあとはいつもどおりツーリングにでかける」

 駿は話題を変えた。元々経営の話は得意ではないし、酔いがまわりすぎて会話を続けるのが辛くなってきた。

「うん、ゆっくりしてね。明日は私も休みにしているから、札幌まで出かけましょうよ。富良野でもいいわよ」

「あぁ、いいね。広大も一緒だろ」

「彼は、宮園リゾートの幹部と会合があるみたい。旭川へ行くって言ってた」

「そうなのか。忙しそうでなによりだ」

「今夜も時間が空いているから、私に付き合ってよね」

 そういうと、舞は三杯目をオーダーした。今度は、アルコールの強いマティーニが運ばれてきた。

「かんぱい!」

 再びグラスを交わして舞はマティーニを一気に飲み干した。アルコールが体を巡回して血行がよくなってきたのか、首筋がほんのり桃色に染まった。

「舞、ちょっとペースが速くないか。もう少しゆっくり飲めよ」

  駿は、学生時代から変わらない、モデルのような容姿と端麗な顔立ちの舞を前にして気分が高揚していた。それに、胸元まで開いたシャツと、チラチラと見える白い脚が気になり、視点が定まらずにいた。

「お部屋に行きましょうよ。もうすぐ閉店時間なの」

 舞は更に四杯目のカクテルを軽々と飲み干したが、酔ってはいないようだ。

「そうするか。あっ、でも部屋ってどこだ。まだ教えてもらっていなかった」

 牧場へ着いた時、荷物はスタッフに任せていた。部屋に入らず、そのまま場内を案内されたので、ルームキーすら持っていなかった。

「私が案内する。多分スイートね」

 舞は、フロントスタッフを呼び、ルームキーを持ってこさせた。

「スイートルームって、そんなにいい部屋、俺が使ったら悪いじゃないか」

「大丈夫。オンシーズンは過ぎたから、今は空いているのよ」

 舞が席を立とうとして少し前かがみになった。シャツの間から、奥のふくらみがチラリと見えた。駿は、気づかれないように、その柔らかそうな胸を視姦した。

「さぁ、行きましょ」

 ワインを飲みすぎて千鳥足の駿は、舞に手を引かれながらレストランを出た。ホテルの二階奥にあるスイートに向かい、二人はそのまま部屋に向かった。


 閉店の時間なったので、颯空は店の立て看板を片づけるため出入口に向かった。横目でテーブルを見ると、さっきまでいた広大はおらず、舞と客の男性だけになっていた。看板を店内に収納して店頭の照明を落としたところで、舞と男性が出てきた。

 「ありがとうございました」颯空が二人に向かって軽く会釈した。二人はそれに反応することなく店を出て行った。男性はかなり酔っているらしく、まっすぐ歩けないのか、舞に手を引かれていた。

「あの男の人、奥様と一緒に出て行っちゃった」厨房に戻り、片付けを終えて設備の火の元を確認していた望に、颯空が小さい声で言った。

「オーナーは?」

「もう、いなかった」

「そうなんだぁ。あのイケメン、今夜は奥様と一緒かな」

「えっ、どういうこと?」

「うーんと。どういうことかなぁ。フフッ」

 テーブルには、大量の料理が、ほとんど手を付けないまま残っていた。颯空と望は、それをつまみ喰いしながら、十五分ほどでさっと片づけた。

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