『ヴァンパイヤは第九が苦手』 中の1


 ある日のことである。


 昼間、電話で兄が、『太陽丸』を譲るように、と、要求してきた。


 もちろん、拒否した。


 すると、兄は強行手段に出た。


 ぼくは、結婚はしていないが、じつは、隠し子がいた。


 その子は、まだ、赤ちゃんであるが、ある病院に預かってらっていた。


 母親は、すぐに逃走してしまったらしい。


 連絡もつかなくなった。


 やめておけと忠告したが、兄に支援を頼んだらしい。


 すると、ぼくが、ヴァンパイヤと関係があると、兄が知らせたようなのである。


 ひどい話だが、情報をつかんだ兄が、ほっとくはずもない。


 赤ちゃんをだしにして、脅してきたわけだ。


 ぼくは、マンションから逃げるべく、荷物をまとめていた。


 すると、呼び鈴がならされた。


 まず、顔を出したのは、にこにこした可愛い赤ちゃんだった。


 それから、件の父親が姿をあらわしたのである。


 『きみ、太陽丸を、兄さんに渡しなさい。この子は、まず君に帰そう。』


 そういうと、赤ちゃんを置いて、一家の父親は取りあえず、去っていった。


 ぼくは、途方にくれながら、自分の子供をベッドに寝かせて気がついたのである。


 首に噛み跡がある。


 『なんということを。』


 絶対に許せないではないか。


 しかし、これは、つまり、彼らがマンションを監視しているということである。


 おそらく、部下を動員しているに違いないから、簡単には脱出できそうにない。


 太陽丸は、もちろんここにはない。


 ぼくは、かねてから用意していたシステムを起動させた。


 もちろん、たいしたシステムではない。


 マンションの部屋の周囲の壁に、複数ヶ所、ワイヤレス型の貼り付け式平面スピーカーを設置していたのである。


 あまり、良い音ともいえないが、それほど悪くはない。


 それから、アンプとプレイヤーを起動させた。


 『ゆくぞ。』


 ぼくは、フルトヴェングラー氏の、バイロイトライプを可能な限りの大音量で再生開始をさせた。しかも、オールリピートにして。


 もちろん、部屋の中でも鳴り響くのだ。


 連中は、部屋には入れないだろう。


 しかし、まあ、大して時は稼げない。


 味方の人間が駆け込んでくるだろうから。


 実際に効果は、割に速効性なはずだが、多少様子見をして、タイミングを計る必要はある。


 ぼくは、吸血鬼ハンターではないが、ある人から教えは受けていた。


 第九の効果についても、細かく聴かされていた。


 もちろん、兄はそれを知らないが。



 ニ短調の空虚和音が響き始めた。


 おそらくは、すでに連中は息苦しさを感じている。


 奥さん、かえでさん、妙子さんには、ちょっと気の毒だが、まあ、なんらか、防御はするだろう。


 第一楽章も最高潮に達したところで、ぼくは赤ちゃんを抱き上げて、鞄を肩にかけ、逃走を開始した。


       🏃.......

 


 


 

 


 


 


 


 


 


 

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