第43話 アンドレ撃沈
木々の緑が目に眩しく、吹く風も次第に夏めいてきた5月の終わりに、1通の知らせがミュリエルの元に届いた。
「フィンさん、マルセル子爵から手紙が届きました。出航日が6月8日に決まったそうです」
「再来週か、ミュリエルも行くのか?」フィンはバスルームの鏡を覗き込み、肩に触れそうなほど伸ばしている髪を整えた。
フィンはマルセルから帰ってきてすぐ、モーリスに頼み込み、決してミュリエルを悲しませないし蔑ろにしない、ブリヨン侯爵の件が片付いたら、すぐにでも婚約式を行い、ザイドリッツの家族に、婚約者として正式に紹介する。このうち1つでも破ったら、命を差し出す、という誓約書を書いて、ミュリエルの家のゲストルームに住むことを許された。
「行きます。カルヴァン侯は抜け目ない男です。側近が3人いますが、大事な仕事を任せるほど信じていない——彼は自分以外の誰も信じていません。他人任せにするなど、あり得ないでしょう。ペルティエに現れる気がするのです。全てを見届けたいです」
「ペルティエまで付き合うよ」フィンはミュリエルの耳に指を添わせて、唇にキスをした。
「ありがとうございます。少し臆病になっている気がします。胸騒ぎがするのかもしれません」
フィンはミュリエルを抱きしめた。「大丈夫、きっと上手くいく。アンドレ王子だって、捕縛するくらい出来るだろう。モーリスさんの方が強かったけどね」
フィンはモーリスがアンドレを抱えて、くるくる回った時のことを思い出して、くすくす笑った。
あの一件以来、フィンは、ことあるごとに話題に出し、笑うようになった。ジゼルやイザベルが言うには、男だから張り合いたいのだそうだ。ミュリエルはそのことを、少しバカバカしいと思っていた。
「今日はアンドレ王子殿下が来られる日なので、細かい打ち合わせができればと思っています」
「それなら俺も同席しよう。助け舟を出してあげられるからね」
「お願いします。海賊船の捕縛に同行したいと言っても、アンドレ王子殿下は、許可してくださらないでしょう。フィンさん味方になって下さい」
「仰せのままに、俺はミュリエルのランプの精霊だからね。姫の願いを何でも叶えて差し上げましょう」わざとらしく気取って言ったフィンは、片目をつむり、蕩けるような笑顔で、ミュリエルをうっとりさせた。
午前の診療が終わり、ミュリエルは昼食を取った後、モーリス家の中庭で、本を読みながらお茶を飲み、ゆったりとした時間を過ごした。
午後12時、そろそろアンドレが訪ねてくる頃だろうと思い、フィンと一緒に薬店へ戻った。しばらくして、アンドレとエクトルが訪ねてきた。
「アンドレ王子殿下、エクトル卿、ようこそお越しくださいました」
「時間を空けてもらってすまないな、病院建設の打ち合わせが必要でな」
「本日は、先にお話しさせて頂きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「もちろん構わない、何かあったのか?」
「マルセル子爵から手紙が届きました。密輸船の出航日が6月8日に決まったそうです」
「そうか、分かった。後は私に任せておけ、必ず捕まえてくると約束しよう」
「私も海賊船の捕縛に立ち合いたいのです」
アンドレはミュリエルに諭すよう言った。「ミュリエル、捕縛というのは危険が伴うものなんだ。だから、ここで大人しく待っていてくれ、フランクールの親衛隊は強いから、海賊なんかに負けたりしないし、取り逃すことはない。そうだろ?エクトル」
「はい、我々親衛隊は、ならず者に負けたりしません」エクトルはミュリエルに、安心して待っていて欲しかったが、カルヴァンを破滅させたいと思う強い意思も理解できた。ミュリエルが望むのなら、遠く離れた場所からでも、捕縛に同行させてあげてもいいのではないかと思っていた。けれど、アンドレが決して許可しないだろうことも分かっていた。
「ミュリエルに護衛をつけてくだされば、危険を回避できるのではないですか?」フィンが言った。
「フィン、お前まで何を言っている。ミュリエルを危険に
「ですから、護衛をつけてくだされば——」
アンドレは指を一本立てフィンを黙らせた。「そうではない、確かに護衛をつければ安全かもしれないが、わざわざペルティエまで出向くこともないだろう。ミュリエルは捕縛の危険を理解していない、これは遊びじゃないんだぞ。フィンはミュリエルの我儘を止めるべきだ」
ミュリエルを軽んじるようなアンドレの発言に、フィンは不快感を露わにした。「我儘だろうが何だろうが、俺はミュリエルを制御しようとは思いません。ミュリエルがやりたいと思っていることを、全力で支援するだけだ。ミュリエルが捕縛を見届けたいと言うのなら、付き合うだけです」フィンはミュリエルのこめかみに口をつけた。
「やめろ!ミュリエルに何をする!」額に青筋を張ったアンドレが、フィンの胸ぐらを掴んで引っ張り上げた。その衝撃で椅子が音を立ててひっくり返った。
「おっと、待って下さいよ。恋人にキスしただけですよ」フィンを殴ろうと拳を固く握り締めたアンドレにフィンは慌てた。
「恋人だと?」
「ああ、そういえば言ってませんでしたね、ミュリエルと俺、付き合うことになったんです」
アンドレはフィンから手を離したが、顔は険しかった。「——本当なのか?ミュリエル」
アンドレがフィンに掴みかかるとは思わず、動転したミュリエルは、フィンの言葉を急いで肯定した。「はい、フィンさんとお付き合いさせて頂いています」
「この件が解決したら、婚約式をあげるつもりです」フィンはアンドレに掴まれ、乱れてしまった襟を適当に整えながら言った。
「アンドレ王子殿下、ご心配くださっていることは分かっています。ですが、どうしても同行したいのです。許可して頂けませんか」
「駄目だ、それだけは許可できない」アンドレは席を立ち、怒ったように薬店を出て行った。
ミュリエルとフィンの婚約は、ミュリエルに好意を抱いているアンドレにとって、衝撃が大き過ぎて、何も考えられなかった。
「ごめん、ミュリエル。ミュリエルを子供扱いするアンドレに腹が立ったんだ。喧嘩腰になりそうな自分を落ち着かせたくて、ついいつもの癖でキスしちゃった。ミュリエルに触れると俺は落ち着くんだ」フィンは申し訳なさそうに言った。
「許可されないなら、こっそり行けば良いのです」
フィンの落ち込んだ顔が、パッと明るくなった。「ハハッ!さすがは大胆なミュリエルだな。よし、それじゃあ変装が必要だな」
ミュリエルはすぐに鳥の偵察隊を送り、マルセル領とペルティエ領、トゥルニエ領はミュリエルの監視下に置かれた。
動きがあればすぐにミュリエルの耳に入る。ミュリエルが使役した鳥や鼠は、片言の言葉を話して報告しているが、ミュリエルは鳥や鼠の視覚や聴覚を借りて、直接見たり聞いたりすることができる。
それから2週間、何事もなく過ぎて行き、アンドレはマルセル領に到着した。
「アンドレ王子殿下がマルセルに到着したようです。不測の事態に対処できるよう、私たちも早めにマルセルへ向かいましょう」
テレポートは距離に限りがある、ミュリエルは不足の事態にすぐ対応できるよう、前日からマルセルへ向かいたかった。
マルセルからペルティエならば、一度のテレポートで移動ができるうえ、魔力も少量あれば足りる。
直接ペルティエに向かわず、マルセルを経由する理由は、ペルティエへ行くには早過ぎると判断してのことだ。長く滞在すれば人目につく、フランクールで今最も有名な2人に、誰かが気づくかもしれない、カルヴァンが警戒し隠れてしまうことを考慮した。
「準備はできてるよ」フィンはゲストルームのクローゼットから服を引っ張り出した。「俺はグレーのスーツにパナマハットだ、ミュリエルはこれだよ。グリーンのストライプジャケットに白いワンピース、グリーンのリボンが巻かれたツバの広いストローハット。テーマは成金カップルの夏のバカンスだ」
ミュリエルのポーションを使えば、全くの別人になれるが、持続時間は3時間程度なので、今回は使えない。フィンが用意すると言っていたので任せたが、ミュリエルはその衣装を見て、少し後悔した。
「これは変装になるのでしょうか?」ミュリエルは胸元が大きく開いた薄手のノースリーブワンピースの生地を撫でた。「フィンさんが着せたいだけでは?」
「それもある。海賊を取り押さえた後、ちょっとくらいデートしたっていいだろう?そのくらいの褒美は欲しいな」ミュリエルの手を握り、手の甲を親指でくるくると撫でた。
「分かりました。前回ブイヤベースの作り方を聞きそびれてしまいましたし、7日の夕方に出発して、8、9とモーリスさんにミュリエル薬店をお願いしましょう。そうすれば、10日は土曜日で休診日ですから、11日の昼に戻ってきましょう」
フィンはミュリエルの手を取って、くるくると回った。「そうこなくちゃ、9、10と何して遊ぼうか、海はまだ入れないかな?」
「まだ6月ですよ。いくらマルセルがここより温暖な気候でも、7月にならなければ風邪をひいてしまうのではないですか?」
「じゃあ、また街を散策して、美味しい物を食べようか」
「はい」
フィンはミュリエルを抱きしめ、蓄音機から流れる、緩やかな音楽のテンポに合わせて、体を揺らした。
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