挿話 【ミュゲの日】

 5月1日はミュゲの日、フランクールでは家族や友人に、ミュゲの花を贈る習慣があり、もらった人には幸運が訪れると言われている。


 だから、この日は街中がミュゲの花売りで賑わう。


 1日は春の訪れを祝う五月祭でもあり、今日は、どこもかしこも休みで、ミュリエル薬店も休診日だ。


 ミュリエルは、薬店から歩いて3分のところにある家のドアをノックした。住人はミュリエルを待っていたようで、すぐにドアが開いた。


「おはようございます。イザベルさん、ギャビーさん」


 イザベル一家は、ミュリエル薬店の近くに、この春引っ越してきた。


 いつまでも世話になるわけにはいかないというのと、ミュリエルがイザベルもユーグもティボーも、ミュリエル薬店で雇ったので、経済的な余裕ができたからだ。


 以前は2つのベッドを4人で使い、2人用のテーブルで、二手に分かれて食事をしていたが、新しい家は2回建の建物で、とても古いけれど、広さは十分にある。アタナーズ商会が探してきてくれた優良物件だ。


 ベッドルームが4つもあり、1人1部屋使うことができる。キッチンも大きくて、引越し祝いにと、ミュリエルから贈られたテーブルセットで、4人揃って食事をすることができるようになった。


 夫が殺され、1人で3人の子供を養わなければならなくなって4年、朝から晩まで休みなく働き、生きるために歯を食いしばり、ただひたすら前だけを見て、走り続けてきたイザベルは、引越しの日、人目を気にせず泣いた。夫が亡くなったあの日から、一度も流していない涙だった。


 ミュリエルと引き合わせてくれた神に感謝し、チャンスを掴んだ我が娘を、誇らしく思った。


「おはようございます。ミュリエルさん」イザベルが言った。


「おはようございます」ギャビーはまだ目が覚めなくて、大きな欠伸をした。


「疲れているようなら、待っていてくれていいですよ」


「嫌です。せっかくミュリエルさんが誘ってくれたんですから、私もついて行きます。それに私も、モーリスさんやジゼルさんには凄くお世話になっていますから、ミュゲの花を贈りたいんです」ギャビーは眠い目を覚まそうと、頬をパンパンと叩いた。


「私たち家族が、人並みに暮らせているのは皆さんのおかげです。感謝してもしきれません。今日は誘っていただけて嬉しいです」イザベルは涙に濡れた目をしばたたいた。「ユーグとティボーも行きたがっていたのですが、残念ながら起きられませんでした」


 ミュリエルは、1日の朝にミュゲの花を買いに行き、モーリスとジゼルとシャンタルに花を贈るつもりだが、一緒にどうかとイザベルとギャビーを誘った。


「では、行きましょうか」ミュリエルが言った。


「毎年可愛い花鉢を売りに来る、おばさんがいるんです。今年も来ているといいですね」


 ギャビーは4月に誕生日を迎えて14歳になり、ミュリエルから綺麗なワンピースを、モーリスとジゼルからは可愛い靴を、シャンタルからは手作りのヘアアクセサリーを、フィンからは素敵なバックを貰い、毎日身につけた。


 ミュリエルたちが噴水広場までやって来ると、既にたくさんの花売りと、その花を買いに来た人たちで賑わっていた。


 ギャビーお勧めの花売りのおばさんは、今年も出店していた。


 小さな鉢に黄色い布が被せてあり、白いリボンが巻いてある。まるで花束のようだ。

「本当に可愛いですね」


「でしょう?鉢に布を巻いたのは、スージーおばさんのアイデアなんですよ」ギャビーがミュリエルに教えた。


「こうしておけば、お客さんの大事なお洋服が汚れずに済むと思ってね、だけど、それが良かったみたいで、気に入って買ってくれる人が増えたんだよ」


 スージーは40歳くらいの小柄な女性で、隣で花鉢に苦戦しながら、リボンを巻いている夫であるノエルに、不器用すぎて面白いといった視線を向けていたが、客が来たことに気づき視線をあげた。


 スージーは大きな花車から、こぼれ落ちそうなほどたくさんの、丹精込めて作ったミュゲの花を、全て売ってしまおうと意気込んで、ノエルと一緒に噴水広場へやってきた。


 ミュゲの花の売り上げは、ノエルとスージーにとっては大事な収入だ。ミュゲの日に稼いだお金には手をつけず、銀行に預けておいて、急な出費に使う。


「この花鉢を頂きましょう。8つ頂けますか」ミュリエルが言った。


「8つも買うのですか?」イザベルは花鉢を、モーリスとジゼルとシャンタルへ3つだけ買うのだと思っていた。


「はい、8つ必要なのです」ミュリエルは買い物籠いっぱいに、ミュゲの花を買い、2つをイザベルとギャビーに渡した。


「私たちにも買って下さったのですか?」イザベルが花鉢を受け取り、驚いて言った。


「はい、お2人も私の家族ですから」


「ミュリエルさん、ありがとうございます。私このミュゲの花、絶対大事に育てます」ギャビーも大喜びで、花鉢をギュッと抱きしめた。


 今日ミュリエルが自分たちを誘ったのは、これを渡す為だったのだろうとイザベルは思った。ユーグとティボーは、ちゃんと計画通りに進めているだろうかと、イザベルは心配になった。


「ユーグさんとティボーさんにも買いましたので、渡してきます」


「ユーグとティボーは、友達と遊びに行くと言っていましたから、もう出掛けてしまっているかもしれません。夕方には戻ると思います」


「そうですか、ではユーグさんとティボーさんの分は、夕方に持って行きましょう」


 ミュリエルたちは、それぞれミュゲの花を渡したい人に買い、モーリス家へ戻ってきた。


「おかえりなさーい」


 ミュリエルがモーリス家のドアを開けると、サラとレオが飛び出してきて、ミュリエルの足にまとわりつき、モーリス、ジゼル、シャンタル、フィン、ユーグ、ティボーは、ミュゲの花束を持って出迎えた。


「お前に1番、ミュゲの幸運が必要だと思ってな、ユーグとティボーが準備してくれたんだ」モーリスが言った。


「ユーグさんとティボーさんが……ありがとうございます。皆さん、ありがとうございます」ミュリエルは嬉しそうに微笑んだ。「私も皆さんに、ミュゲの花を買ってきました」


 ミュリエルはミュゲの花鉢を渡して、ミュゲの花束を受け取った。ミュゲの花鉢でいっぱいになっていた籠は、ミュゲの花束でいっぱいになった。


「さあ、今日は五月祭だからね、ホームパーティーを楽しむわよ。たくさん料理したから、お腹いっぱい食べてちょうだいね」ジゼルがミュリエルの手を取り、中庭へ連れて行った。


 綺麗に飾り付けられたテーブルに、たくさんの料理が並べられていた。


「僕とフィンさんで、テーブルの飾り付けをしたんだ」ユーグが誇らしそうに言った。


「僕も手伝ったよ。紙でお花を作ったんだ。ほら見て、これ1番上手に出来たやつ。これミュリエルさんにあげるね」ティボーは満面の笑みで、紙の花をミュリエルに差し出した。


「ありがとうございます。宝物にします」ミュリエルは嬉しそうにしているティボーから、花を受けとった。「ユーグさんも、フィンさんもお疲れ様でした。とても素敵な飾り付けです」


「ミュリエルが喜んでくれたから、頑張った甲斐があった」フィンは歯を見せて笑った。


「フィンさんも、ミュゲの日を知っていたのですね」


「去年ね、街が突然ミュゲの花だらけになって驚いたよ。ザイドリッツでも五月祭はあるけど、ミュゲの花を贈る習慣はないからね」

 去年も街でミュゲの花を買い、ここで五月祭を過ごしたが、その時は、モーリスとジゼルとシャンタルだけだった。今年は随分と賑やかになり、ミュリエルは胸がいっぱいになった。


「ミュリエルさーん、花が届いてるよー」


「あら?この声はパトリシアさんじゃないかしら。薬店に花が届いてることを、知らせてくれたみたいね」ジゼルが言った。


 ミュリエルに花を贈った図々しい奴は、どこのどいつか確かめてやろうと、モーリスとフィンは鼻息荒く玄関へ向い、ギャビーとユーグとティボーは、面白がってついてきた。


 ミュリエルが外に出て行くと、ミュゲの花が積まれた3台の荷馬車が、ミュリエル薬店の前に停まっていた。


「ミュリエルさん、この人がさ、ミュリエルさんを探しててね、きっとモーリスさんの家にいるだろうと思って、声をかけてみたのよ」


「パトリシアさん、ありがとうございます。助かりました」


 パトリシアは家に帰らず、この大量の花を贈ってきたのが誰なのか、ミュリエルがこの花をどうするのか見届けようと、その場にとどまった。


 明日には、近所どころか、パトリー中の噂になってしまうだろうと思い、ミュリエルは頭が痛くなるのを感じた。


「ミュリエル薬師、アンドレ王子殿下からの贈り物を、お届けに参りました。こちらがメッセージカードです」


 ミュリエルは侍従からメッセージカードを受け取り、中を開いて読んだ。


「何て書いてあるんだ?」モーリスが訊いた。


「『会って直接渡したかったのだが、今日は外せない用があって、直接渡せずすまない。受け取ってくれると嬉しい』だそうです」


「この山ほどある花を、どうしろっていうんだ?あの人市井の家の広さが分かってないんじゃないか?」フィンは呆れ果てて言った。


 この大量の花を持ってきた侍従も御者も、確かにそうだと思った。「あの、どこに、お運びしましょうか」


 ミュリエルは少しの間考えて言った。「いいことを思いつきました。サンドランス教会まで運んで下さい」ミュリエルは振り返ってギャビーたちに言った。「ギャビーさん、ユーグさん、ティボーさん、今からサンドランス教会へ行って、ミュゲの花を配ります。お手伝いして頂けますか?」


「もちろんです!」何やら面白いことになりそうな予感がしたギャビーとユーグとティボーは、輝く瞳と弾んだ声を揃えた。


 ミュリエルたちは孤児院の子供たちに花を配り、余った花は教会に訪れた人たちへ、孤児院の子供たちと一緒に配って回った。


「みんな喜んで貰ってくれたみたいだ。使い道があって良かったね」孤児院の子供たちに肩車をして遊んでいたフィンは、ミュリエルに近づき話しかけた。


「たくさんの花が、無駄にならずに済みました」


「これはミュリエルに」フィンはミュリエルの首に、小さなミュゲが2輪咲いたネックレスをかけた。


「ミュゲの花ですか?」


「枯れないミュゲの花、ミュリエルに幸運が訪れますように」


「ありがとうございます。大切にします」


 アンドレが贈った大量のミュゲの花は無駄と言い、フィンが贈った小さなネックレスは、大切にするとミュリエルは言った。フィンの耳にファンファーレがこだました。



 アンドレは侍従から、ミュリエルがミュゲの花を孤児院に届けさせ、子供たちに配ったという報告を聞き、肩を落とした。


 その様子に慌てた侍従は、残ったミュゲの花は、ミュリエルが籠いっぱいに持って帰ったと、急いで付け足した。それを聞いてアンドレは、受け取ってもらえたことを大いに喜んだ。


 しかし、その籠に詰められたミュゲの花束が、ガラス工芸店のドミニクとリュカに、アタナーズ商会の皆の手に渡ったことは、知る由もない。

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