第31話 アンドレの挽回?
野戦病院の敷地に、王室の豪華な馬車を停め、アンドレは降り立った。
突然の貴人の出現に、集まっていた患者たちは唖然とした。
アンドレは、受け付け係に近づき、声をかけた。「ミュリエル薬師に、第3王子が会いにきたと伝えてくれ」
ジャミルは、この貴人が、先日いちゃもんをつけにきた若造だと気がついた。第3王子に、とんでもない無礼を働いてしまったことに、彼は顔を青くした。
「すぐに、伝えてまいります」ジャミルは飛ぶように走っていった。
数分後、ミュリエルがアンドレの前に現れた。急いで出て来てくれたようで、僅かに息が上がっているミュリエルを見て、アンドレは胸がときめいた。
「ミュリエル!突然来てすまない。急いで知らせたいことがあったんだ」
今日も目障りなフィンが横にくっついていて気に入らないが、私が王子であることを知って驚いているようだ。親密そうに見えた2人だったが、ミュリエルがフィンに打ち明けていないことがあると知り、とても気分が良かった。
「アンドレ王子殿下、ようこそ、お越しくださいました。ここでは落ち着いてお話ができませんので、詰所にご案内いたします」
案内された場所は、他のテントよりも小さく、執務机が1台と、椅子が4脚、簡易ベッドが1台置かれているだけだった。
「狭くて申し訳ありません。どうぞ、お掛けになられてください。ここは私のオフィスのようなものです」
「こんな所がか?テントなどではなく、君はもっと落ち着ける所にいるべきだ。小屋を建ててあげよう。陛下から疫病対策の責任者に任命されたんだ、これからは、何でも力になってやれるぞ」
「お心遣い痛み入ります。ですが、小屋が必要なのは私ではなく、患者さんたちです」
「だが、もしものことがあったらどうするんだ?ここは男だらけじゃないか。鍵もかからないような場所で、どうやって身を守るっていうんだ」
「ここに私を襲うような人はいません。それに隣のテントをフィンさんが使っていますし、護衛のようなこともしてくれていますから、ご心配には及びません」
この男が1番心配なのだがと思い。フィンを睨みつけた。
フィンは言い返してやろうかと思ったが、流石に王子を面と向かって、からかうわけにもいかず、口を結んだ。
強く出れば、またミュリエルを怒らせてしまうかもしれないし、嫌われるわけにはいかない。仕方がないので、アンドレは代替案を提案した。
「分かった。だが、護衛の兵士を君につけるからな。この野戦病院は、国の支援を受けることになったんだし、ここに兵士が常駐していても、何もおかしくはない。それに兵士がいれば、揉め事が起きた時にも便利だろう?」
ミュリエルに悪い虫がつかないようにするためでもあるが、フィンが不必要にミュリエルに近づくのを防ぐためでもある。
「——ご配慮いただき感謝いたします」ミュリエルは断ろうかと思ったが、体力のある人手が増えるのは、大歓迎だと考え直した。
「ミュリエルの手紙を読んだよ。場所と人材が必要なのだったな。ここはどうやって借りたんだ?」
「ご厚意でお借りしています。アタナーズ商会の馬車を、停めておくための敷地だそうです」
「なるほど、馬車を停めておくための敷地か、それなら他にもありそうだな。広い土地を所有している業者をあたるとしよう。人材はどうしている?」
「アタナーズ商会の皆さんと、シスターの皆さんのお手をお借りしています」
「シスターか、どこの教会だ?アタナーズ商会とその教会には、それ相応の褒美を出すとしよう」
「——サンドランス教会です」
「サンドランス、確かマドゥレーヌが支援している孤児院を運営していたな」
「はい、孤児院へ診察に行ったことが縁で助けていただいています」
「そうだったのか、では、人材は教会側に打診するとしよう。ボランティアを募るのもいいだろうな」
「ですが、命に関わります。決して無理強いはしたくありません。王室からの命令ではなく、保健所からのお願いに、していただけますか」
「ああ、分かった。診察の邪魔をしてしまって、すまなかった。見学して行きたいのだが、構わないだろうか?」
「感染してはいけませんから、見学はお控えになられたほうが、よろしいかと存じます」
「大丈夫だ、薬があるのだろう?」
「いいえ、まだ新型に効くポーションは、完成いたしておりません」
「そうなのか」アンドレはミュリエルの顔に浮かんだ苦悩を見た。「疲れているんじゃないか、顔色が悪い。他の者に任せて、少し休憩してはどうだ?」
「私は大丈夫です。患者さんが待っていますから」
「どうしてそこまで、身を削って患者を助けようとするのだ?」
「病に倒れた時、誰も側にいない孤独は骨身に応えます。ですから、患者さんには助けてくれる人が側にいるのだと、安心して欲しいのです」
「ミュリエル」アンドレはミュリエルの手を、同情するようにそっと握った。
幼かったミュリエルが病気になったとき、誰も側にいなかったのだろうと、アンドレは理解した。
ロベール・カルヴァンや、その妻ドゥニーズを罰してやりたかったが、忌々しいことに、カルヴァン家を敵に回せば、痛手を負うのは王家だ。それほどに、ブリヨン侯爵筆頭の東方貿易会社の収益は大きい。
ミュリエルはアンドレに握られた手を、さり気なく引っ込めた。
アンドレは、ミュリエルの手の感触をもっと味わっていたかったが、引っ込められた手は、自分がしてきた行いへの
「患者に接触しないようにするから、見学させてもらえないだろうか」
「では、新型ポーションを作成している工房をご覧になられますか?」
「ああ、それがいい」
「分かりました。ご案内いたします。最初の頃は、ポーションを試作する暇がありませんでしたが、野戦病院ができてからは、近所の薬店から、薬師が交代で応援に来てくれているので、少し時間に余裕ができて、ポーションの試作にも、時間が割けるようになってきました」
ミュリエルとアンドレは歩きながら話した。
「どのくらいで完成しそうなのだ?」
「分かりませんが、手応えはあると思っています」
「流石はミュリエルだ。期待しているぞ。大学病院と連携をとりたかったら言ってくれ、話をつけてやろう」
「いいえ、その必要はないかと思います。医学と薬学は根本的に違いますし、医学が関わってしまうと、法の抜け穴を作らなければ、平民には使えない治療薬となってしまいます」
「それもそうか、何はともあれ、必要な物があれば、何でも用意してやるぞ」
「薬草が仕入れられると助かります」
周辺の薬店から薬草をかき集めてはいるが、早々に底をついてしまいそうな勢いで、感染が拡大していた。薬草の在庫を気にしなくていいのなら有難い。
「いいだろう、すぐに手配しよう」
「ご対応いただき、ありがとうございます」
王宮では、もうすぐシンポジウムがあるはずだし、そろそろ春のロイヤルガーデンパーティの準備も始めなければならない時期だ。忙しいはずなのに、なぜ帰ろうとしないのだろうか?とミュリエルは不思議に思った。
患者が王子を怖がるので、できれば早めに帰って欲しいとミュリエルは思っていた。
午後のティータイムを少し過ぎた頃、テントの外が騒がしくなり、エクトルが様子を見に行った。
「王子殿下、マドゥレーヌ嬢が来ています」エクトルが報告した。
「何だって?なぜマドゥレーヌが来るんだ。すまないミュリエル、帰るよう言ってくるよ」アンドレはうんざりしたように溜息をついた。
元婚約者のところに、恋人が乗り込んでくるなんて、いい迷惑だとフィンは、アンドレに冷たい視線を投げた。
ミュリエルの仕事の助手をそつなくこなし、お互い何も言わなくても分かっているといった雰囲気を、恨めしく思ったアンドレは、フィンの軽蔑の眼差しに鼻息荒く出て行った。
「……マドゥレーヌ子爵令嬢と喧嘩でもしているのでしょうか」仲がいいと噂だったのに、追い返すだなんて、2人の間に何かあったのだろうかと、ミュリエルは首を捻った。
戻ってきたアンドレが申し訳なさそうに言った。「すまないミュリエル。マドゥレーヌが野戦病院を手伝うと言って聞かないんだ」
「しかし、感染してしまいます」
「私もそう言ったんだが、十分に気をつけるから手伝いたいと言っている。孤児院へ支援に行くような人だからな、困っている人を放っておけない性分なんだろう」
「——分かりました。人手が増えるのは良いことです。あまり患者さんと接触しないよう注意しながら、病棟の方を手伝っていただきましょう」少し意地が悪いだろうかと思ったが、マドゥレーヌとフェリシテを引き合わせれば、アンドレに帰ってもらえるかもしれないと、ミュリエルは考えた。
「ありがとう」アンドレは感謝した。まさか本当に、2人を引き合わせる日が来ようとは、思いもしなかった。
せっかく、親しくなれるきっかけを作ったのだから、あまりマドゥレーヌと一緒にいるところを、ミュリエルに見られたくないなと気が塞いだ。
ミュリエルがテントから出ると、マドゥレーヌが待っていた。
「こんにちは、マルセル子爵令嬢。お手伝いくださるそうで、ありがとうございます。病棟の方に、ご案内いたします」
「ありがとうございます、ミュリエル嬢。あ!平民になったのだから、嬢をつけるのはおかしいわね、ミュリエルさんと呼んでいいかしら」
ミュリエルはマドゥレーヌと話をしたことも、挨拶を交わしたことも無かった。だから、どんな人なのか知らなかったが、可愛らしいお嬢さんだと思った。
アンドレが自分を嫌っていたのは、こういった女性が好きだったからなのだろうと、ミュリエルは納得した。ミュリエルはマドゥレーヌと正反対だ。
マドゥレーヌは少し、ギャビーに似ているのかもしれないとミュリエルは思った。子供のようにはしゃいでいる姿は、ミュリエルから、新品の洋服を貰った時のギャビーとよく似ていて、ミュリエルは微笑ましい気分になった。
「何とお呼び頂いても構いません」
マドゥレーヌは、アンドレの腕に腕を回した。「アンドレ様、ミュリエルさんは優しいのですね。アンドレ様を奪ってしまった私を、ミュリエルさんは憎んでるだろうと思っていたけれど、怒ってなくて良かったわ」
「ミュリエルは平民の間で、慈愛の天使と呼ばれているくらい、誰に対しても広量な女性だからな。私もミュリエルの献身には、目を見張るばかりだよ」
腕を組まれて嫌そうにしているアンドレに、フィンはざまあみろと思った。こんなに美しいミュリエルを放っておいて、浮気なんかするから罰が当たったんだ。
まるでミュリエルを牽制しているような、マドゥレーヌの態度も気に入らなかった。
当の本人は、表情を見る限り、マドゥレーヌを気に入ったようだ。ギャビーに似ているとか思っているのだろうなと、フィンは苦々しく思った。
朝から働き通しで、随分と疲れて見えるフェリシテに、ミュリエルが声をかけた。「シスターフェリシテ、マルセル子爵令嬢がお手伝いくださるそうです。シスターの補助を中心に、お手伝いしていただこうと思います」
「はい、分かりました。マルセル子爵令嬢様、お初にお目にかかります。フェリシテと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「初めまして、マドゥレーヌ・オートゥイユと申します。シスターフェリシテ、よろしくお願いしますね」マドゥレーヌは貴族令嬢らしく、美しく挨拶した。
「シスターフェリシテは、サンドランス教会のシスターではないのか?」アンドレが訊いた。
フェリシテはなぜ、そんなことを聞くのだろうかと首を傾げた。「王子殿下、ご挨拶申し上げます。私はサンドランス教会のシスター長をしております、フェリシテと申します」
「ならば、マドゥレーヌとは顔見知りなのではないのか?マドゥレーヌは、サンドランス教会が運営している孤児院に通い、支援をしているのだろう?」アンドレは不思議そうにマドゥレーヌを見た。
「え?」マドゥレーヌは顔色を失い、言葉が出てこなかった。
「どういうことなのだ?ここにいるのは皆、サンドランス教会のシスターだと聞いた。ここにマドゥレーヌを知っているシスターはいるか?」
シスターたちは手を止め、何と答えれば正解なのか、不正解を言ってしまえば、処刑されたりするのではないだろうかと、怯えた顔を俯けた。
ミュリエルはシスターたちとアンドレの間に立った。
「アンドレ王子殿下、シスターたちは何も悪くありません。私からご説明いたします。サンドランス教会に、マドゥレーヌ嬢は訪れたことがありません」
「ミュリエル、どういうことだ?説明してくれ」アンドレは険しい顔をした。
「アンドレ王子殿下、滅多に市井へ行かない人が、パトリーから遠いマルセル領の子爵令嬢が、危険な目にあっている所へ出くわすのは、どれほどの確率でしょうか」
「……仕組まれていたのか」
「王城の情報漏洩は問題にすべきと思いますが、マドゥレーヌ嬢はただ、アンドレ王子殿下と、お近づきになりたかっただけでしょう。出会いがどうであれ、恋に落ちたことは事実なのですから、あまり目くじらを立てられなくてもよいかと存じます」
「何よそれ、バカにしないでよ!あんたなんかに庇ってもらいたくないわ。いつも無表情で気味が悪いのよ——何が天使よ、マリオネットのくせに!この人はね、私に毒を盛ろうとして、貴族の身分を剥奪されて、平民に落とされたのよ」マドゥレーヌは病棟中に聞こえるよう大声で言った。
「マドゥレーヌ!」アンドレが叱責した。
マドゥレーヌの頬を叩こうとするアンドレの手を、ミュリエルが止めた。
「私は、あなた様に毒を盛ったことはありません」
「嘘よ。あなたが毒を盛ったことは大勢が知ってるんだから、言い逃れできないわよ」
「あれは毒ではありません。私があの日、持参していたポーションは、毒ではなく栄養ドリンクです。それを、アンドレ王子殿下が誤解しただけなのです」ミュリエルも同じように、ここにいる人たちに聞こえるように言った。
フィンは突然の事態にどう助け舟を出すべきか思案していたが、『ミュリエル薬師が、毒なんて盛るはずがない』、『慈愛の天使が、人を殺めるわけないだろう』、『なんであの女は、そんな嘘をつくんだ』といった声が聞こえてきて、何をそんなに焦っていたのかと、フィンは自分自身に呆れ返った。
ここにミュリエルの味方をしないのは、マドゥレーヌだけだ、皆ミュリエルに命を救われ、ミュリエルが夜遅くまで患者のために働き、ポーションを作成していることを知っているのだ。誰もミュリエルが、毒を盛ったなどという戯言を信じるはずがない。
「は?嘘よ、だってあれは、アンドレ様と婚約解消したいから、薬師になりたいから、毒を盛ったと思わせるって、言ってたじゃない」
今度はマドゥレーヌにだけ聞こえるように、ミュリエルは声を落として言った。
「そうです。思わせるだけで良かったのです。実際、毒を盛る必要はありませんでした。万が一、事故があってはいけないと思い、用意した薬は、ただの栄養ドリンクです。たとえ、どんな理由であれ、他人に毒を盛るなど、私にはできませんでした。薬瓶は王室に渡してあります。中身を調べていただいて構いません」ミュリエルはアンドレを見た。「アンドレ王子殿下、騙すようなことをしてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいんだ。君を追い込んでしまったのは私だ。全ては馬鹿だった私が悪いんだ。何も見えていなかった」アンドレは沈んだ表情でミュリエルの肩を撫でた。
「馬鹿ではありません。アンドレ王子殿下は優しいのです。優しすぎるくらいに」
「マドゥレーヌを馬車に乗せろ」アンドレはマドゥレーヌを、ここまで護衛してきた王城の兵士に命令した。
「待って、アンドレ様。嘘をついていたことは謝ります。あなたのことを、本当に愛しているの。許して」
「マドゥレーヌ、君とは後で話をしなければならない、先に王城へ戻り、待っていてくれ」アンドレは兵士に連れられ、歩き去るマドゥレーヌから顔を背け、ミュリエルと向かい合った。「なぜ教えてくれなかったんだ?」
「マドゥレーヌ嬢のことは、婚約解消の交渉に使えると思いました。お2人には愛し合っていて欲しかったのです。自分勝手でした。申し訳ありません」ミュリエルは頭を下げた。
「君は何も悪くないんだから謝る必要はない。私も少し混乱しているようだ。邪魔して悪かったな、今日は帰るとするよ。また様子を見にくるから」アンドレは肩を落として、馬車へ向かって歩いた。
騒ぎを聞きつけたらしく、いつの間にか人集りができていた。
モーリスがアンドレを見る目つきも、フィン同様凶悪だった。
「あれが、お前を蔑ろにした王子か。クソ野郎め、あいつが王子じゃなかったら、一発殴ってやるところだ」
「王子でなくとも、人を殴るのはどうかと思います」ミュリエルは呆れて言った。
「俺にはミュリエルが、わざとシスターフェリシテの所に、王子とマドゥレーヌ嬢を案内して、問題を起こさせようとしたように見えたんだけど?」フィンが悪戯な笑みを浮かべて言った。
「少し意地悪でしたでしょうか、皆が怖がるので、アンドレ王子殿下に、早く帰っていただきたかったのです。ですが、また来ると仰っていましたし、困りましたね」
フィンとモーリスは声をたてて笑った。
「ミュリエルの以外な一面を見たよ。婚約解消するために嘘をついたり、毒を盛ったり、意地悪で大胆なんだな。でもまさか、ミュリエルの元婚約者が王子だったとはね」
「フィンさんには言っていませんでしたね、私はブリヨン侯爵カルヴァン家の長女です。訳あって家出をしました。その時に王子殿下が尽力してくださったのです。確かに婚約者として、大事に扱われたことはありませんでしたが、それは、私がアンドレ王子殿下の期待に応えられなかったのが原因ですし、今は感謝していますよ。さあ、のんびりしている暇はありません、フィンさん診察に戻りましょう」
ミュリエルは診察室に戻っていった。
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