第19話 サンドランス孤児院のピンチ

 教会に着くころには、夕陽が地平線に半分ほど沈んでいた。陽がなくなるにつれて一気に気温が下がっていく。ミュリエルの吐く息が白くなった。


 馬車の音を聞きつけたのだろう、孤児院の中から、クラリスが小走りに出てきて、ミュリエルたちに近づいてきた。


「ミュリエル薬師、ようこそ、おいでくださいました。シスターが総出で看病にあたっていますが、ほとんどの子供が感染してしまいました。シスターにも、具合の悪い者が出てきていて、手に負えない状況だったので、突然の依頼にも関わらず、こうして来て下さったことに、心から感謝いたします」


「お気になさらずに、薬師として当然のことをしているだけです。患者さんはどちらですか?」


「ご案内します」クラリスは先頭に立ちミュリエルとフィンを案内した。


 部屋に入ると片側に4台、計8台のベッドに、子供たちが寝かされていた。部屋の窓は締め切ってあり、淀んだ空気が充満している。


 ミュリエルもフィンも、口を布で覆っていたが、何日も風呂に入っていない、子供たちの体臭と、吐瀉物や排せつ物のすえた匂いが混ざり、鼻をついた。


「窓を開けて換気しましょう。空気が淀んでしまっています。子供たちの体に、あまりよくありません」


「ですが、流感が外にいる人たちに、広がってしまうのではないですか」


「流感のウイルスは空気感染をしません。窓を開けたくらいでは、何の影響もないので安心してください」


「でも、クリストフ薬師は、窓を開けないほうがいいと仰って……」


 ミュリエルは戸惑うクラリスに、ゆっくりと落ち着いて話した。


「シスタークラリス、私はこの数週間、流感の患者さんを、たくさん治療してきました。フィンさんも助手として、患者さんの治療に関わってきました。でも私たちが一度も感染せず、元気でいられるのはどうしてでしょうか?正しい感染対策をしているからです。鼻と口を布で覆い、手洗いうがいの徹底と、部屋の湿度をあげることで、感染は防げます。流感は恐ろしい病気ではありません。適切な治療を施せば治るのです」


「シスタークラリス、ミュリエル薬師の言う通りにいたしましょう」フェリシテは確固とした態度で言った。


 まるで、反対意見は言わせないと圧力をかけているような、他者を圧倒する気配に、ミュリエルは驚いた。普段の穏やかな、陽だまりのような人柄のフェリシテからは、想像がつかなかったからだ。さすがはシスター長だと感心した。


「はい、分かりました」


 クラリスと、その他のシスターたちは、窓を開けて回った。


「お久しぶりです。ミュリエル薬師」


「お久しぶりです。シスターフェリシテ」フェリシテに声をかけられたミュリエルは、フェリシテが自分のことを、ブリヨン侯爵令嬢と呼ばなかったのは、クラリスからミュリエルが、カルヴァンの性を捨てたことを聞いていたのだろうと判断した。


「たった一度、数分お話しさせて頂いただけの私を、覚えて下さっていたとは、嬉しい限りです。本日は、ここまでお越しくださり、感謝いたします。毎日倒れていく子供たちを、ただ見ていることしかできず。途方に暮れていました。早速で申し訳ありませんが、診察をお願いします。ここと、あと2部屋あるのです」フェリシテは、訪問客に何のもてなしもせず、仕事をさせてしまうことを詫びた。


「分かりました。診察のために来ましたから問題ありません。1人シスターをお借りします。子供の名前を教えていただきたいのです」


「では、シスタークラリスを」フェリシテはクラリスを呼び寄せた。


「何でしょうか」


「子供たちの名前や、病歴を分かる範囲でいいので教えて欲しいのです」ミュリエルが言った。


「分かりました。お任せください」


「では、手前から順に、診察していきましょう」


 ミュリエルは順々に診察していき、流感陽性と判断すると、フィンに合図を送り、フィンが子供にポーションを飲ませた。


 8人目まで来たところで、ミュリエルのマジックワンドを握る手が止まった。


隣のベッドに横たわり、心配そうに見つめてくる子供に聞こえないよう、ミュリエルは小声で言った。


「亡くなっています」


「そんな——」


「動揺はしないでください。他の子供が見ています」


 クラリスはハッとし、唇をギュッと引き締めて、コクリと頷いた。


「フィンさん、ポーションを飲ませるふりをしてあげてください」


「了解です」フィンは、自分の手が僅かに震えていることに気づき、しっかりしろと自分を叱った。


 フィンが人の死を間近で見たのは、祖母の死だけだ。当時6歳だったこともあって、あまりよく覚えていない。ただ、なぜ起きないのだろうかと、疑問に思ったことだけを覚えている。


 フィンは感心していた。どんなに酷い状態の子供にもひるまず。吐瀉物を浴びても気にすることなく、子供の背をさすってやり、既にこと切れてしまっている子供のことも、ミュリエルは気遣った。


 こんな貴族令嬢が、どこの世界に存在するのだろうか、ミュリエルは本当に神から遣わされた天使なのではないか?


「これで全員診ましたか?」ミュリエルが訊いた。


「はい、全員終了です」クラリスが答えた。


「この年頃で、友人が亡くなったという事実は、大きなショックとなるでしょう。亡くなってしまった子供は、皆が寝静まってから、こっそりと外に出してやりましょう」ミュリエルは提案した。


「ミュリエル薬師、フィンさん、お疲れ様でございました。清拭せいしきと着替えの準備をいたしましたので、汚れを落とされてください」フェリシテが言った。


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 ミュリエルとフィンは、それぞれ部屋に案内された。


 部屋にはベッドが一台と机と椅子が一脚ずつ、クローゼットが部屋の隅に置かれていて、質素ではあるが、部屋の広さは十分だ。シスターや侍者が寝泊まりする部屋は、もう少し狭いだろう。ここは来客用に整えられた部屋なのだろうとミュリエルは推察した。


 たらいに溜められた湯に綿布を浸し、軽く絞って体を拭き、汚れを落とした。


 用意された清潔な服に着替えて——ここには修道服しかないのだろう、見習いのシスターが着る修道服が用意されていた——ミュリエルは食堂に案内された。侍者じしゃの服を着たフィンと——豊かな黒髪が緩やかにウェーブした——30代前半の若い神父が座って待っていた。


 黒い瞳は鋭いが、声は穏やかで、女性信者は、その素敵な声に聞き入り、説教が耳に入ってこないのではないだろうかと、ミュリエルは思った。


「ミュリエル薬師、サンドランス教会を任されています司祭のアレクサンドルです。この度は突然の依頼に応えてくださり、ありがとうございました。軽い食事を準備いたしましたので、どうぞ召し上がってください」


「アレクサンドル神父、お心遣い感謝いたします」ミュリエルは席に着き、用意されたパンやスープを食べた。


「亡くなってしまった子供も何人かいたと聞きました」アレクサンドルが言った。


「お力になれず、無念でなりません」ミュリエルが答えた。


「他の皆は、あれほど苦しんでいたのに、今はすやすやと寝息を立てています。それはひとえに、あなた様が治療を施してくださったおかげです」


「治療するのが仕事ですから」


「でも勇ましかったですよ。まるで戦乙女でした」フィンが誇らしそうに言った。


「戦乙女ですか、言い得て妙ですね」確かに、昨日までの孤児院は、戦場のようだったとアレクサンドルは思った。


「ミュリエルさんは、ここに来たことがあるんですよね。シスターフェリシテとシスタークラリスは、知り合いでしょう?」フィンが訊いた。


「3カ月ほど前に一度、孤児院を訪ねたのです。その時にお会いしました」


 そういえば、と、アレクサンドルは思い出して言った。「報告は受けました。確か、マドゥレーヌ・オートゥイユ子爵令嬢でしたでしょうか、他のシスターや侍者にも聞いてみましたが、やはり誰も知らないと言っておりました」


「そうでしたか、わざわざ調べて頂き、ありがとうございます。お手数をおかけしました」


 マドゥレーヌと言えば、アンドレの恋人の名も、マドゥレーヌではなかっただろうかと、フィンは記憶を手繰り寄せた。


 あの時、ミュリエルは何も気にしていないように見えたけど、ただ時間が経ち、吹っ切れていただけだったのかもしれない。婚約者に恋人ができたのだから、落ち込んだ時期も当然あったのだろう。きっと、どんな女か気になって調べたのだろうなと思うと、フィンの心が痛んだ。


 ミュリエルがいながら恋人を作り、ミュリエルが自分の元を去ったら、今度はミュリエルに未練たらたらで、フィンはミュリエルを傷つけたアンドレに殺意が湧いた。

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